第8話 アパート(1)

文字数 1,521文字

 アカリさんの住んでいる集合住宅は、電車の音がぎりぎり聞こえないくらいの距離にあった。黒いパネルの壁に上下に細長い窓が穿たれた個性のないアパートで、駐車場のコンクリートがまっさらで築年数は10年もたってなさそうだった。母親と二人暮らししている部屋は二階の角部屋ということだったが、狭い玄関の小さな下駄箱に靴を入れるとすぐに階段を上る必要があった。
「これだけ、ちょっと不便……」
 と、少し恥ずかしそうにアカリさんは階段を上った。
 間取りは2LDKらしかったが、リビングには対面型のキッチンが据えてあり、感覚的にはだいぶ狭かった。二人暮らしでぎりぎりな広さということだった。弟はいったいどこに消えたのか? そうっすね、僕ってキープするには都合のいい男ですよね…… いますぐ投げやりになりそうな心を必死で抑えた。
 アカリさんはエコバッグからスーパーで購入した食材をつぎつぎに冷蔵庫に入れ始めた。その間、部屋をキョロキョロ物色するわけにもいかないので僕はキッチンに立っていた。キッチンは十分な広さがあって、二人並んで作業しても何の不便もなさそうだった。コンロも三口あった。
「はい」と、おもむろに長ネギを渡された。
 僕がそばにあったプラスチック製のまな板と三徳包丁を用意すると、「待って」とまな板の下に滑り止めのゴムシートを敷いてくれた。「みじん切りをここに」と、小さなガラスボウルも用意された。僕は長ネギのみじん切りをゆっくりと開始した。
 アカリさんはお米を研いでジャーのスイッチを押してから揚げ油を用意すると、じっくり僕の方を見つめてきた。僕は視線を左頬で受けながらボウルに長ネギのみじん切りを入れた。
 砂糖、1、しょう油、1、お酢、1。1対1対1。ごま油、たらり。アカリさんは「プッ」と吹き出した。
「おとこの子」
 僕は全身が火の玉になったようで、恥ずかしさのあまり何も言えなくなってしまった。
 アカリさんは固まった僕をよそに、冷蔵庫からビニール袋を取り出した。ビニール袋の中身は下味処理を済ませた鶏むね肉だった。アカリさんは油の温度を確かめてから鶏肉をそろそろと入れ始めた。もう後はキッチンペーパーを敷いたバットを持って待機するだけの簡単なお仕事だった。
「いつもうちは、揚げ焼きにしちゃう。なんちゃって中華だけどね」
 油の中でチュクチュク音を立てて鶏肉が浮かんでいた。
 やがて、『なんちゃって』ではない油淋鶏が完成した。

「ちょっと待って」と、アカリさんは言った。
 簡単に作った玉ねぎとコーンのスープ、ミニトマトとキュウリのサラダもすべて食べ終えてからだった。
「あたし、そんな話ききたくない」と、アカリさんは言った。
「え? ドーナツの話のなにがいけないの?」
 自分が情けない顔をしていることだけは分かった。
「別にドーナツの話が悪いわけじゃないけど。ああ、待って待って。まずこれだけは誤解しないで」
 アカリさんは深呼吸をした。
「あたしは、怒って、ない。これは、真剣な話。いい?」
 僕は一生懸命に首を縦に振った。
「新作のフレーバーが楽しみなのは事実。でもそういうことじゃない。ドーナツの話はヒマリ達とするから。あのバカみたいなテンションでジュンが盛り上げてくれるなら話は別だけど。でもそこまで興味ないでしょ、ジュンは」
 嘘だろ? 僕たちはまだ友達未満だったの? そういう事?
「ふーん」
 アカリさんは頬杖をついて横を向いてしまった。
「そ。ジュンはあたしといると沈黙が気まずいんだ。ふーん。そっか」
 執拗に、髪をさわっている。
「あたしだけだったんだ。ジュンといるときの気だるい空気が好きなの……」
 耳まで真っ赤。
「ふーん……」
 この人、僕とどうなりたいの?
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