第10話 なかなか注文しない面倒くさい女性客

文字数 4,254文字

 Mは高校卒業後ホテルのイタリアンレストランの厨房で修行した。いつか自分の店を持ちたいという希望をもちながら一生懸命仕事をした。そして彼が27歳のとき、こじんまりとした小さなカフェバーを開いた。背伸びした店ではなく、とても庶民的で温かみあふれる店だった。常連客がほとんどだ。

「マスター、今年で何歳?」
 常連客のSが訊いた。
「38ですね」
「若くていいねえ」
「そうでもないですよ。最近白髪が増えちゃったし」
「いやいや、渋い感じがいいんじゃないの」
「Sさんはいくつ?」
「49だね。来年50だよ。いやんなっちゃうね」
「でもお子さんとかも独立したから楽じゃないないですか」
「働きに出たっていってもさ、今でもカネせがんでくるよ」
「仕送りするんですか」
「仕方ないよな」
 Sはグラスワインを飲んでいた。
「なんだか腹減ってきたなあ」
「なんか食べます?」
「おすすめは?」
「今日のおすすめは…鯛のアクアパッツァですね」
「いいねえ。それにしよう」

 カウンターごしで鮮やかな手さばきで調理するMを見て、Sはぼそっと言った。
「こんな旦那がいたら、奥さんになりたがる人、いっぱいいるんじゃないの?」
「結婚はもう勘弁ですよ」
 Mは苦笑いした。
「再婚する気ないんだ」
「ないですよ。一人が楽っす」
「もったいないなあ。でもいい女と出会ったら考えるだろう?」
「どうですかねえ」

 他愛のない会話をしているうちに、アクアパッツァができた。
「おう、すごいねえ。うまそうだなあ」
 Sが皿の上の料理に目を輝かせ、香りを楽しんでいると、ドアが開いた。

「お店やってますか?」
 30代前半の細身の女性だった。ロングヘアをなびかせて、白いワンピースを軽やかに着こなしていた。初めて見る客だった。
「やってますよ。お好きな席にどうぞ」
 Mはにこやかに迎えた。
 その女は店内をぐるっと見まわしていたが、
「カウンターに座ってもいいですか?」と、少しためらいがちに指さした。
「もちろんですよ」
 彼女はSが座っている席から2席離れた場所に座った。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
 Mはそう言ったあと、Sを見た。
 Sは女に背中を見せるようにして座り、Mを見てこっそりとにやけた。
 Mはすぐに目をそらし、片づけをした。

 しばらくすると
「今、注文いいかしら」と、女は洗い物をしているMに言った。
「いいですよ」
 蛇口をとめて、ふきんで手をふいてから、伝票を手にした。
「どうぞ」
「今日のおすすめって、アクアパッツァなのね」
「そうですね」
「う~ん、アクアパッツァかあ。昔ね、有名なお店で食べたことがあって…」
「はい」
「昔、そう、まだ若いときね。そのときの彼氏、私が大学1年生のときで、彼は3年生だったの。テニスサークルで知り合って、はじめのうちはお互いに話もしたことがなかったんだけど、彼は私のことずっと思っていたみたいで、夏の合宿のときにつきあってっていわれて、私、あんまり、そのとき彼のこと何とも思ってなかったけど、まあいいかなあ、悪い人じゃなさそうだし…、そんな感じでつきあいはじめたの」
「ええ」
「彼、すごく一生懸命で、人気スポットだったり、おいしいお店とか見つけて、私を連れて行ってくれたの。それで、そうそう、彼、車が好きで、あちこちにドライブに連れて行っていてくれたりとか。湘南とか。で、そこの夜景のきれいなレストランでおいしいものを一緒に食べたりして…」
 彼女の話がやんだので、Mは訊いた。
「ああ、じゃあ、そのレストランでアクアパッツァをお食べになられたんですね」
 けれども、女は、Mの問いを無視しているのか聞いてないのか、そのまま話の続きを始めた。
「あと彼、すごくギターがうまくて、車の後部座席にいつもギターがあって、食事した後に夜の海岸で弾き語りとかするの。歌詞はすごく恥ずかしいんだけど、私のこと好きっていうのがいっぱい伝わってきて」
「はあ」
「私が病気したときに、私一人暮らしだったんだけど、彼が家にやってきて、何か作るというから、私、全然食欲なかったんだけど、冗談で、アクアパッツァがいいなあ、って言っちゃったの。そしたら、彼ってアクアパッツァとか全然分かんなかったみたいで、でも、うんわかったって言っちゃって、近くのスーパーに買い出しに行くのね。料理なんか知らない人よ。何時間もかけて作るの。2人でそれを食べたんだけど、はっきりいっておいしくないの。彼も、彼で、まずいって言うし、でも彼すごく一生懸命だったから、この人と付き合って良かったって思えたの」
「そこでアクアパッツァを…」
「でも、彼、すごく悔しかったみたいで、私の誕生日に、彼は黙って私を車に乗せるわけ。どこ行くのって聞いても答えてくれなくて、それで着いたところが、南青山のお店だったのね」
「はあ、ああ、そこで…」
「すごく楽しい思い出」
 女はしばらく沈黙した。

 彼女を見ながら、Mはどのタイミングで注文を聞き出そうか考えていた。
 横を見ると、Sはちびちびとワインを飲みながらアクアパッツァを食べていた。

 あまりにも間が長かったので、Mは切り出した。
「あ、あのご注文いかがなさいます」
「そうねえ」
「アクアパッツァは今日漁港から仕入れた鯛なので、おすすめですけども」
「彼との思い出がいっぱいつまってるから」
 女は消え入りそうな声でそう言うとうつむいた。笑顔を浮かべながらも、今にも泣き出しそうな顔つきだった。
 MはSを見た。
 Sはゆっくりと首を振った。
「そ、そうですよね。他にもいろいろございますから」
 しばらく沈黙。

「お飲み物とかいかがですか」
 Mは頃合いを見計らって訊いてみた。
 女はメニューを見ながら話しはじめた。
「そうねえ。彼ね、お酒すごく弱かったの。ちょっと飲んだだけで顔を真っ赤にしちゃって」
 MとSは目を合わせた。
「でも彼、無理するのね。私のほうがお酒強かった。女のほうが強いってなんか嫌ですよね?」
「いいんじゃないですか。ねえ、楽しく飲めそうじゃないですか、ねえ」
 MはSに向かって言った。
「そう、そうだよねえ。場が盛り上がるっていうかねえ、うん、そう思うよ」
 Sは、俺に振るなよ、という顔をMに向けた。
 女はあくまでマイペースだ。
「彼はいつもジントニック1杯で、私はソルティドッグを何杯も飲んでた。彼、すぐ酔っちゃうから、いつも謝るの、ああ酔っぱらっちゃったごめんって。でもそんなことどうでもよくて、彼が私のわがままにつきあってくれて、私のことすごく大事にしてくれてるのが分かったし、何というのかな、愛をすごく感じてた。そんな彼でも、あるときソルティドッグ注文したの。すごくきつそうで。でもそんな風に無理する彼のことやっぱり好きだったなあ。一緒に飲んでてすごく幸せだったなあ」
「ソルティドッグ、お好きなんですか」
「グラスの淵についた塩ですよね」
「あれ、いいですよね。ウォッカとうまくマッチしますよね」
「その塩を彼がペロペロなめたりして、それがすごくかわいくて、今でも思い出すの」
「はあ」
「彼が4年生になって就職活動をするころ、あんまり会えなくなったのね。私は毎日でも会いたかったけど、彼、忙しいから仕方ないじゃない。就職が決まって、これで少し会えるかなと思ったんだけど、今度は卒論が忙しくなって、会えない、というのね。あるとき、図書館に行ったときに、彼に久々に偶然に会って、でも隣に女の子がいて…。彼がそのときに私に言ったのは、彼女は手伝ってもらってるだけだから、て言うの。でも雰囲気が違ってた。だって彼、私に見せない顔をしてた」
 女は沈黙した。

「大変、でしたね…」MはSのほうをちらちらと見ながら言った。
「そんなに軽々しく言わないでください」
 女は少しむっとした顔になった。
「すみません」
「彼はもうとっくに私からは離れてたの。その新しい彼女とできてたの。ショックだった。これ見て」
 女は左の手首を見せた。リストカットの痕だった。
「ああ…」
「死にきれなかったの。それから飲めないお酒を飲むようになっちゃった」
 Mは?と思った。
 いや、もともと酒飲むんじゃなかったっけ? 
 しかも彼氏よりも飲むという話だったような…。
 MはSを見た。
 Sは九官鳥のように首をコキコキ動かしている。たぶん、分からない、という身体表現をしてるんだろう。
 とにかく合わせよう。Mは思った。
「ああ、そうですか、お気持ちすごく分かります。お酒を飲んで全部忘れたいですよね」
「違うの。お酒を飲んで彼との思い出に浸るの。だって彼のこと今でも好きだから」

 面倒くさい客だ、Mは思った。
 Sのほうを見た。
 Sはあごを動かして、行け行け、っていう。
 何が、行け、だよ。
 Mは弱った。
 そもそもこの女はオーダーする気があるのか?
 とりあえず、キーワードはソルティドッグだが、これ地雷だよな?
 Mはおそるおそる切り出した。

「何か、お飲みになります?」
「そうねえ」
「ソルティドッグ、お作りしましょうか?」
「ねえどうしてそんなことが言えるの? 彼との思い出なの!」
 女はすごい剣幕でMを睨んだ。
「そうですよね。ごめんなさい」
 答え合わせは簡単だった。
 MはSを見た。
 Sは女に背を向けて、ワインを飲んでいた。
 顔は見えないが、笑っているのが、Mには分かっていた。

「さっきから注文せかしてるけど、そういうの良くないよ」
 女は不機嫌になってきた。
「ご注文ということでお伺いしてるんで…」
「ねえ、どうして人の話聞かないのかなあ」
「聞いてますけど…。ああ、いや、いつもちゃんと話を聞けてないって言われるんですよ、はい」
「そうよね。反省したほうがいいと思うよ。商売やってるんだから、お客さんの話はちゃんと聞かないとね。うん、基本だと思う」
「そうですね、はい。気をつけます」

 しばらく沈黙。結構、長~い沈黙…

「もし、あの、お決まりになりましたらまた呼んでください」
 Mは切り上げようとした。
「私、決まってないなんて言ってないの。どうしてさっきから人の気持ちを悪くさせることばかり言うのかなあ」
「そうですか。そうでしたらご注文伺いしますけど」
 Mはだんだんと開き直ってきた。
「だから、なんで急かすの? なんで? なんで?」
 女はヒステリックに語気を強めた。
 Mは完全にお手上げだった。この面倒くさい女性客を追い出したくなってきた。
「私、帰る。こんな感じの悪い店は初めて」
 女は立ち上がり、店をそそくさと出ていった。
 Mと女は最後に心が通じ合った。
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