第12話 モテすぎる男の結末

文字数 8,837文字

 Mはモテない男だった。そんな男はどこにでもいる。むしろモテる男のほうが少ないのが現実だ。それに今時、もてないことを恥じる時代ではない。

 Mは会社の上司から聞いていた。毎年クリスマスになると、恋人同士が高級なホテルでスペシャルディナーを食べてカクテルを飲んで夜景を見ながら愛を語り合う…などという世のモテない男女の嫉妬心を恐ろしく駆り立てる風潮があった、という。そんな上司の時代を考えれば、恵まれてるといえば恵まれてるのかもしれない。

 特別に彼女が欲しいわけではない。一人でいるほうが気楽だし、彼女がいたとしたら、何かと不安が出てくる。お金の不安もあるし、ちゃんと会話が続くのかといった不安もあったりする。それに、もし本気で好きになって入れ込んだところで、彼女が浮気でもしたら自分はどうなるんだろう、と考えると、想像もつかない絶望感を味わうんだろうなと思えばますます避けたくなる。

 だから付き合いたくはない。でもモテたい。自分は相手のことをそれほど好きになることなく、相手が自分を好きになってくれる状況がもっとも望ましい。女性が告白してきて、恐くて断りたくなったときでも、大丈夫だからと言ってくれて、ねえエッチしようよ、と言ってくれて、エッチが終わったら、会話することなくそのまま寝てくれるのが良かった。
 そんな都合のいい女性などいるはずもない。

 Mは自分本位な人間だった。そして臆病な人間だった。
 こんなオーラが漂っているから、彼はモテない。

 Mは会社を出ると、同僚二人と居酒屋に飲みに出かけた。
「今度ね、スキーに行こうと思うんだよね」
 と精悍な顔をしてるけど、全くモテそうでない男Sが言った。
「へえ、彼女と行くの?」
 Mは聞いた。
「そんなのいないよ。みんなに聞いてるんだよ」
「あ、俺たちと行くってこと?」
「そうだよ。当たり前だろう」
「いいねえ!」
「Tはどうよ」
「それ、いつ行く予定?」
「クリスマスから年末あたりかな」
「無理だなあ」
 Tは口をぎゅっとしめた。
「どうして?」
「出かけるんだよね」
「一人で?」
「まさか」
「彼女ができたとか、そうじゃないよな?」
「まあ、そうかな」
「ホントかよ。誰だよ。俺たちが知ってる人?」
「うん、まあ知ってるんじゃないかなあ」
 Tは少し口をもごもごさせている。
「ちょっと待ってくれ。社内? 取引先?」
「言えないよ。いろいろあるから」
「ああ、じゃあ社内だ」
「この話やめようよ」
「自分でほのめかしたんじゃないか。ヒント教えてくれよ。年下? 年上?」
「…年下」
「髪は長い? 短い?」
「う~ん、長いなあ」
 …こんなやりとりをしているうちに、彼女は同じフロアで働いているKだと、Tは白状した。

「これ内緒だからね。絶対だよ。みんな信じてるからね」
 Tは自分の彼女がKだとばれてしまったことをむしろ喜んでるみたいだった。

 居酒屋を出てから、もう一軒行こうかと話になったときに、Tは帰るから、と言った。
「彼女のところ?」と、Sがにやけながら訊いた。
「う、うん」と、言ってはにかんだ。
 Tは幸せいっぱいの顔を浮かべていた。
 
 MとSはTを見送ると、二人でバーに出かけた。
 席につくなりSは笑い出した。
「心臓が止まるかと思ったよ」
「なんで?」
「ここだけの話、Kって俺のセフレなんだよ」
「えっ! つきあってんの?」
「いや、ただそれだけの関係だし。別に好きなわけでもないし。別れたほうがいいかな」
「別れたほうがいいでしょう」
「だよなあ。でももったいない」

 MはTが不憫に思えた。Tの知らないところで、あのロングヘアの目がくりっとしたかわいいKが目の前にいるSに抱かれてるんだと思うと…嬉しそうに裸をさらしているKの上にSが乗っかって腰を動かして…

 Mは顔が熱くなってきた。
 MはSに訊いた。
「どうやってKさんをセフレにできたわけ?」
「いや、どうやってって言われてもね」
「はっきり言うよ。Sって、モテそうに見えないんだよね」
「失礼だなあ」
「セフレって一人?」
「何人かいるね」
「信じられないなあ」
 Mは口をぽかんと開けたまま、Sを見ている。
 Sは笑いながら、話題を変えた。
「スキーだけどさ、二人で行こう」
「まあいいけどね」
「二人でいい女を見つけようぜ」

 年末、MとSはスキーに出かけた。
 リフトに乗って上がる途中、Sは言った。
「あそこに小屋が見えるだろ?」
「見えるね」
「あそこ行ってみようか」
「ああ、いいよ」
 山頂に着いたら、二人で小屋まで滑っていった。
 Sはそこでスキー板を外して、それを雪の上に勢いよく突き刺した。
「この小屋に入るの?」
「そう」
 Mもスキー板を外した。
 Sが小屋のドアを開けて叫んだ。
「いますかあ?」
 返事はない。
「この小屋って誰かの家?」と、Mは訊いた。
「知り合いの人がいるはずなんだけど」
 Sは裏にまわったが、「いないなあ」と、ぼやいた。
「約束でもあったの?」
「まあ、ちょっとね。中で待ってるか」

 小一時間ほど中で待っていると、ドアが開いた。
「ああ、久しぶりだね」
 ドアの前にいたのは、白衣の中年男だった。
「どうもご無沙汰です」と、Sは言った。
「そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ。そちらは?」
「彼は会社の同僚で、Mです」
「はじめまして」
 白衣の中年男はうなずくだけだった。
「最近調子が上がんないんですよね」と、Sが言った。
「十分に楽しんでるはずだぞ」
「もっとモテたいというか、女優クラスの女がいいんですよ」
「ぜいたくな奴だな。自分の顔を見たまえ。今だって不釣り合いだ」
「ひどいですよ」
「最近完成したものがあるんだが、見てみるか」
「ぜひ」
 白衣の中年男は中の部屋に入っていった。

「何の話してんの?」Mは訊いた。
「スキーの真の目的はこれなんだよ。今、博士がもってきてくれる」

 白衣の中年男は液体の入った小瓶をもって戻ってきた。
「これは前回、君に渡した薬にさらに改良を加えたもので、即効性が高くなってる。これでもっと早くモテやすくなるはずだ」
「媚薬なんですね」Mはさらりと言った。
「なんと馬鹿なことを言うんだ。これは媚薬ではない。この液体には目に見えない小さなチップが入ってるんだ。これを塗ることによって、皮膚の表面からチップが体内に入る。そこから相手の女性の脳の快楽中枢に対して電気信号を送るんだ。それによって女性は情熱的になって好きになってくれるという、簡単に言えば、そういうことだ」
「女性の脳をコントロールするんですか?」
「君も興味あるのかね?」
「あります」
 Mは心がざわめていた。
「俺は前から使ってるんだ。効果は抜群だよ」と、Sは言った。
「でも、どうやって信号を送るの?」
「それは一つだけだ」白衣の中年男が言った。「その女性と関係をもちたい、それだけだ」
「えっ、この女の子とやりたいと思ったらできちゃうんですか?」
「まあ、そういうことになるんだが、限界はある」
「つまり俺が使ってて思うのは、レベルの高い女には通用しないということなんだよ」
 Sは苦笑いした。
「だからさっき女優さんクラスって言ったんだね」
「そうそう」
「レベルが高いというのは、いろいろな意味がある。ルックスや性格もそうだが、家柄や社会的地位であったり、あまりにも不釣り合いな場合は反応しない」と、白衣の中年男は言った。
「そこの範囲を広げてほしいわけですよ」Sは懇願するような声で言った。
「範囲を広げすぎると不都合が多くなるから、無理だ」
「全然ないですよ」
「あきらめるんだ。ところで君もつけてみるか?」と中年男はMに訊ねた。
「ぜひ!」

 翌年、会社が始まると、Mは会社で試してみたくなった。このフロアにいる女性はいつでも、自分を好きになってくれる、エッチに誘ってくれる、自分の思い描いた生活が送れる。新年早々、ムラムラ全開だった。
 ただ、やはり会社だ。Sのようなリスクを負うのは嫌だが、ふだん普通の仕事仲間として一緒に働いている彼女たちが二人きりになったときに違う顔を見せてくれるのを想像すると、やはり我慢するのがしんどかった。
 そのことについてSに訊いてみた。
「関係を適度に切ればいいんだよ」
「どうやって」
「この前、博士が言わなかったけど、逆をやるんだ。お前とはやりたくない、という信号を送ればいいんだ。そうすればそれまで関係があった女とは切れるから」
「そうなんだ」
「で、またやりたくなったら、お前とやりたい、という信号を送ればいい」
「切り替えは簡単なんだ」
「後腐れないから、面倒な問題は起こらない」
「痴話げんかもないんだ」
「ないない。女の脳をコントロールするんだから」
「すごいね」

 Mは前から気になっていた女の子に信号を送ってみた。信号と言っても、心の中で、君とやりたい、と言うだけだが。
 反応がなかった。
 MはSに訊いてみた。
「あの人、無理だよ」
「どうして?」
「高学歴だから。俺も試したことあったけど、ダメだった。俺たちじゃ無理」
 いきなり出鼻をくじかれた思いだった。
 別の女の子にも信号を送ってみた。
 反応がなかった。
 Sの話によれば、実家が金持ちだから無理なんだと思う、と言っていた。
 そのほか、ルックスが抜群だから無理。性格がすごくいいから無理。生き方が真面目な人だから無理。

「全部無理じゃない」
 MはSにぼやいた。
「俺たちに釣り合いのとれる女を探そうとすれば、うんとグレード下げないとなかなか引っかからないんだよ」
「なんだか現実を見せつけられてるね」
 Mはため息をついた。

 Mは会社が終わると、一人、繁華街に出てみた。とりあえず誰でもいい。成果が欲しい。
 派手な格好した頭の軽そうな女の子を見つけると、その子に信号を送ってみた。
 反応しなかった。
 その後、手当たり次第に、いろいろな女の子に信号を送ってみたが、どれもダメだった。
 インチキじゃないか、Mはだんだん腹が立ってきた。
 Sの話はホントか?
 よくよく考えたら、Sにセフレがいるという証拠を見たわけじゃないからな。
 白衣の中年男も怪しいし…

 Mはそれでも何日間かこれを繰り返していたが、成果はまったく上がらなかった。

 自宅のアパートに戻ろうとすると、そこに白衣の中年男が立っていた。
「やあ、どうも」
「なぜここに?」
「君が呼んだんだよ」
「呼んでないですよ」
「少し話そう」
 白衣の中年男はそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。
 Mは少しいらいらしながら、
「そうですか。じゃあ家にあがってください」と言った。

 部屋は汚さを極めた部屋だった。何週間も前にある生ごみが腐臭を放っていた。汚れた衣服や下着がカゴの中に入れっぱなしで、そのまま放置されたいた。

「汚い部屋だねえ。実に不潔だ」
 白衣の中年男は、鼻を指でつまみながら部屋を眺めまわした。
「はっきりおっしゃらないでくださいよ。分かってますから」
 Mはごみをかきわけてスペースを作った。
「君は女の子がどうのこうの言う前に部屋を掃除することから始めるべきなんじゃないか」
「大きなお世話です。で、何の用ですか? あれ全然効かないですよ」
「それは仕方ないだろう。そういうこともある」
「今までどれだけの女の子に信号を送ったかわからないくらいですよ。もういろいろな人にですよ。でも全く反応がなかった。一人くらいあったっておかしくないでしょう」
「Sに渡した液体と同じものを渡したんだが、彼には効いたけど、君には効かなった。そこでだ。君仕様の改良版を作ってきたんだ」
「人によって違うんですか?」
「いや、そんなことはない、と言いたいところなんだが、君を見てるとそうではないようだ」
「改良版をつけると反応してくれるんですか」
「とりあえず試してほしい」

 翌日、会社で試してみた。
 昨日失敗した女の子たちにもう一度信号を送ってみた。反応はなかった。
 繁華街に出て昨日と同様に手当たり次第に信号を送ってみた。ダメだった。
 いったいどういうことだろう。
 次の日も、その次の日もやってみたが、ダメだった。
 そのうちにだんだんと馬鹿らしくなってきて、Mは半分忘れかけてきた。
 やがて、このチップ入りの液体のことも白衣の中年男のこともMの頭から消え去った。

 Mはこのフロアの女の子には嫌われているものだと思えてきたので、見るのも嫌になっていた。全員に何度も振られた気分だった。いや、世にいるすべての女性に完璧に拒絶された気分だった。
 Mはすべての女性に嫌悪感を感じるようになってきた。モテたいなんて気持ちはとっくに消え失せていて、それどころか女性から嫌われたいと思うようになっていた。
 だから仕事上で話をするときも、こうした気持ちが態度に出始めて、冷めた対応をするようになった。心の中で、近づくなよ、と口癖の言うようになった。

 不思議なことが起こってきた。
 反応がなかった高学歴の女の子がいつまでも立ち去らずに、モジモジと何かを言いたげな様子だった。
「何か用?」
「あっ、いえ」
「邪魔だから向こうに行って」

 彼女はMから離れても、きょろきょろと自分を見ているのが分かった。気分悪いなあ、とMは思っていた。
 仕事が終わり帰るころ、彼女が近づいてきた。
「あ、あのうご飯でも食べに行きませんか」と、言ってきた。
「別にお腹すいてないけど」とMはつれなく言うと、
「好きなものとかありますか?」と、彼女は前のめりに言ってくる。
 Mは心からうざく感じていた。
「帰るだけだから」
「一緒に帰ってもいいですか」

 彼女はいつまでもMから離れなかった。
「どこまでついてくる気なの? 俺の家そこなんだけど」
「家に行ってもいいですよね」
「迷惑なんだけど。家汚いし、ホントにすごく汚いから」
「全然いいです」

 彼女は家に勝手に上がると掃除を始めた。
「別にやらなくていいよ」
 彼女はそれでもせっせと掃除をして、部屋はすっかりときれいになった。
 だからといってMには感謝の気持ちはなく、
「さっさと帰りな」とつれなく言い放った。
 彼女はMの冷たいあしらいに落胆することなく、それどころかMに近づいていって、彼のワイシャツに手をかけた。
「なに?」
 Mは彼女の行動に驚いた。
 ワイシャツを脱がし、ズボンは下されて、完全に裸にされた。
 そして彼女も自分の服をすっかり脱いで、完全に裸になった。
 戸惑っているMに彼女は抱きついた。
 Mは彼女と交わることになった。
 Mは最中、ため息をついていた。早く終わんないかなと思っていた。

 それから毎日、次から次へとMにいろいろな女性が寄ってくるようになってきた。
 朝は満員の通勤電車に乗って身動きが取れないあいだに言い寄られたり、会社まで行く途中に見知らぬ女性につきまとわれたり、会社に着いたらたくさんの女性社員たちがボディタッチまがいに体をすりよせてきたり、昼食に出かければ女の子の店員にじっと見られたり、ずっとずっとずっと、女性に監視されている気分だった。
 Mは心の中で言っていた。女性はいらない。近づくな。視界に入るな。

 あきらかにストーカーだろうと思われるような女性がいるような、そんな気配も感じていた。
 自宅に戻ると見知らぬ女性が立っていて、
「おかえり」とにこやかに言ってきた。

 Mは怖くなってきて、交番に飛び込んだ。
 対応した男性の警察官は、
「具体的に何か被害を受けたわけではないですよね。今のところ事件性はありませんから…まあ周辺のパトロールを少し強化しますね」と言った。

 それからしばらくして駅から自宅のアパートに帰る途中、その男性の警察官に会った。
「あれから何かありましたか」
「今のところ大丈夫です」
「それは良かったですね」と、隣にいた女性の警察官がにっこりとほほ笑んだ。

 それからさらにしばらくして駅から自宅のアパートに帰る途中、なぜかその女性の警察官と遭遇する日が多いことに気づいた。
「Mさん、変わったことありましたか?」
「いえ、特に。大丈夫です。ありがとうございます」
 Mは心の中で、この女性の警察官と会いたくない、と思うようになっていた。

 家のインターホンが鳴った。
 ドアを開けると女性の警察官だった。
「どうしたんですか?」
 Mは訊いた。
「何かあったらどうしようかと思いまして」
「何もないです。大丈夫です」
 Mは一生懸命に作り笑いをしてドアを閉めようとしたら、彼女が中に入ってきた。
「な、なんですか?」
「心配ですから」
「本当に大丈夫ですから、帰っていただいて大丈夫です」
 Mは怖かった。早く帰ってほしかった。
「ちょっと窓を確認してもよろしいですか?」
「あ、…はい」
 彼女は電気を消した。
「何するんですか?」
 Mの恐怖が高まった。
「カーテンを開けるので、私の姿が向こうから見えたらまずいですから」
「…ああ、…そうですね」
 彼女は外を確認するとカーテンを閉めた。
 彼女はそのまま立っていた。
「電気つけてもいいですか?」
 Mは後ろ姿の彼女に訊いた。
 彼女は黙っていた。
「つけますよ、いいですよね?」
 Mがスイッチに手をかけたところ、彼女はすばやくMの腕をとった。
「えっ」
「私、Mさんのことが心配なんです」
「あ、ありがとうございます。電気、いいですか?」
 彼女はMに抱きついた。
「勘弁してください。やめてください」

 翌日、Mは昨夜のことをどう処理すればいいのか分からなかった。
 警察に言うべきなんだろうけど…いや関わりたくない。でも言わないと、これからもあの女性の警察官は毎日のようにやってくるんだろうか。

 そうだ、こういうときは弁護士に相談しよう。
 Mは弁護士事務所に出向いた。
 行く前に、その事務所が男性であることを確認したことは言うまでもない。
「いろいろ大変ですね。つまり女性の警察官があなたをストーカーしているということなんですね」
「そうですね」
「ちょっとですね、私のほうがですね、今けっこうたくさん訴訟の案件を抱えてまして、ストーカー関係で詳しい弁護士がいますんで紹介しておきますね」
「そうですか」

 後日、紹介された弁護士事務所に出向いた。
 現れたのが女性の弁護士だった。
「はじめまして。Mさんですね。簡単にお話は伺ってます」
「よろしくお願いします」
「女性の警察官のストーカーの件ですけれども、私のほうで事実関係をMさんからお聞きした上で訴訟をするかどうかの検討という流れですね」
「そうですか」

 それからしばらく、駅から自宅のアパートに帰る途中、Mは毎日のように女性の警察官と遭遇したが、自宅にやってくることはなかった。
「考えすぎてたかもしれない」と、Mは思うようになってきた。
 たまたま1回限りの関係だったのかもしれない。…と思ったとき、今までたくさんの女性と関係をもったが、すべて1回だけの関係であることに気づいた。1回関係を持った女性からはその後言い寄られることは全くなかった。

 Mは訴訟の話を打ち切ろうと思った。余計なことをして話を大きくしたくなかった。
 Mは弁護士事務所に電話をして、訴訟はしないことを伝えた。
 女性の弁護士は、了解いたしました、と事務的に応じた。

 その日の夜、インターホンが鳴った。
 Mはドキッとした。
 おそるおそるドアを開けると、白衣の中年男だった。
「なんだ、あなたか…」
「ひどくやつれてるね」
「いろいろありましたからね。これってあの液体のせいですか」
「そうだ」
「僕は全然信号を送ってないんですよ。それどころか嫌になってる。それなのに次から次へといろんな女性がやってくる」
「嫌だという信号を送ってるから近寄ってくるんだ」
「意味が分かんないですね」
「君の場合、モテたい願望が強すぎたんだ。彼女が欲しくて欲しくて仕方ない人間だったんだ」
「モテたい願望は確かにありましたよ。でも彼女が欲しいわけじゃないんですよ。言ってみればちょこっとだけの関係が良かったんです」
「だったら、今実現してるじゃないか。君は潜在的には心から愛する彼女が欲しくて仕方ない人間なんだ。本当はそんな彼女がほしくてほしくて仕方ないんだが、いろいろな社会的条件が重なってその本心を押し殺してる。その結果、刹那的な関係を求めるようになっていって、それが自分が求めているものと勘違いしてるんだ。だから前の液体だと、その本心と君が伝える言葉とを信号に乗せると、伝達する情報量が過剰気味で女性の脳が拒絶するんだ。他の人はそうではない。ただの遊びだと割り切ってるから、そこまで情報量は増えないし、問題は発生しない。君は良くも悪くも誠実なんだ。だから私としては君が嫌だと思うときに女性が近づいてくるようにプログラムを変えた。そうすれば君の額面通りの要望に沿うものになるからな」
「それだと確かに寄ってくるかもしれませんけど、嫌な人と関係をもちたいわけじゃないんですから」
「そういうところだよ。君は誠実なんだ。もともとは遊びの関係を構築するツールなんだから。好きとか嫌いとかじゃなくて、やりたい、それだけなんだ。君の場合はやりたいだけじゃなくて、本気が混じってるから狂ってくる」
「そうなんですか…。まだ疑問がありますよ。なぜ1回関係をもった女性から二度と迫られないんですか?」
「それは君が肉体的に満足したから。その女性をいいとも思わないし、嫌だとも思ってない。もっといえば関心がなくなってる」
「あの女性の警察官は? 僕はずっと嫌でしたよ。でも近づいてこなかった」
「君は弁護士に相談したよね? あれで君は安堵感を得たはずだ。だから君は嫌だと思ってるつもりだったかもしれないが、実は本心の部分では関心がなくなっていた。ちなみに君はあの女性の弁護士とは何もなかっただろう? それは嫌だと思ってなかったから」
「すがる思いでしたからね。ところで、僕のこれからは、いいなと思う女性は離れていって、嫌だと思う女性が近づいてくることになるんですか?」
「男女関係って案外そんなもんだ」
 白衣の中年男は、そう言ってため息をついた。
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