第5話 お色気蕎麦屋にご用心

文字数 6,229文字

 M課長は丸の内の某大手一流企業に勤めている。彼は仕事一筋の真面目人間だ。ただそれが少し行き過ぎて、部下に接するさいに厳しく当たることがある。彼にとっては普通の言動であっても、パワハラ扱いされてしまうこともある。こうした言動によってコンプライアンス部に通報されて警告を受けることもしばしばあった。
 時代は変わった。昔の常識は今の非常識。
 M課長が入社したころの先輩社員には戦前の人もいた。会社というのは軍隊色の強い組織だった。
 時代は令和。男女共同参画、ワークライフバランスなどの新語がにぎわして、新しい働き方が模索される今の時代にあっては、古い人たちは変わらないといけない。

 M課長はかつての先輩たちがやってきたように、部下たちと昼食を共にしようと誘ってみるものの、最近の若い人たちは、わりとさばさばしていて、一人で食事をする人がいたりする。M課長にとっては信じられないことだが仕方がない。これも時代だ。彼も自然と一人で食事をするようになった。

 M課長は昼は決まって蕎麦だ。彼は会社近くの立ち食い蕎麦屋で、天ぷらそばを食べるのが日課だった。なぜ蕎麦屋か。あまり待たされることがないのが一番の理由だ。
 ところが、ある日、行きつけの立ち食い蕎麦屋が閉店になってしまった。お客さんはいつもいっぱいだったのに、なぜつぶれてしまったのか分からなかったが、ある人から聞いたところ、その立ち食い蕎麦屋がテナントとして入っているビルそのものが解体されるとのことだった。

「弱ったなあ」
 M課長はぼやいた。
 いろいろなお店はあるものの、昼時にはいつも行列をなしていて、行く気すら失せてしまう。かといって回転がいいというだけで、毎日牛丼を食べるわけにはいかない。彼にとって蕎麦こそが毎日食べられる食事なのだ。

 M課長はスマホで近くの蕎麦屋を検索してみた。この界隈はほとんど知り尽くしているから、調べるまでもなく、立ち食い蕎麦屋がないことは知っていた。
「やっぱりないよな。代わりの蕎麦屋ないかなあ」

 M課長はてくてくと歩きながら、裏通りに入ってみた。車1台通れないほどの狭い路地に「そばや」と書かれた看板が見えた。
「おお、こんなところに蕎麦屋があったんだ!」
 行列をなしているわけでもないので、これはすんなりと食べられそうだ、とM課長は喜んだ。

 M課長がその入り口の前に立ったが、営業しているかどうか怪しい。蕎麦屋というよりもスナックといった感じだ。
 ドアを開けた。
「いらっしゃいませ」と、奥から若い女性の甲高い声。
 薄暗い店内はどう見てもスナックだ。
「蕎麦屋ですよね?」
「そうですよ。どうぞお好きな席に」
 窓が全くなかった。
 奥のソファに座った。前のテーブルはガラスのリビングテーブルで、まったく蕎麦屋といった感じがしない。

 20代半ばの若い女性が水を運んできた。
 ロングヘアを揺らしながら、ぴちぴちのセクシーな衣装だった。
「ここは夜はスナックか何かやってるの?」
「いいえ、昼も夜もそばやです」
「ああ、そうなんだ。初めて知ったなあ」
「よろしくお願いしますね」と言って、彼女はM課長のそばに座った。
「えっ、何?」
「そんなに緊張なさらないでくださいよ」
 彼女はニコリと笑って、M課長の膝をぽんと叩いた。
「ちょっと待って。蕎麦屋だよね?」
「そうですよ。こちらがお品書きです」

お品書き

もりそば  290円
ざるそば  320円
かけそば  290円
天ぷらそば 350円
肉そば   450円


「…ずいぶんと安いね」
「がんばってますから」
 彼女はM課長の太ももをさすった。
 M課長は軽く咳ばらいをした。
「ちょっと聞くけど、あとからオプション料金がついたりするの?」
「どういうことでしょう」
「さっきから、ほら、その、それだよ」
 M課長は自分の太ももを触っている彼女の手を指さした。
「え、ああ、ああ」
 彼女は笑った。
「俺はただ蕎麦を食いに来ただけなんだ。別にそういうサービスとかはいらないし。食べたいだけなんだ」
「お嫌ですか」
「嫌じゃないけど、後で高額の請求されても困るし。ただの昼食だからね」
「これはほんとにただのサービスですから」
「そうなの?」
「ところでご注文はお決まりになりました?」
「まだ全然見てなかった。うん、じゃあ天ぷらそばにするよ。本当に安いなあ」
「かしこまりました」
 彼女はニコリと笑って、M課長の股間に軽く触れた。
 彼女は立ち上がって、奥に向かって「天そば一つ、お願いしま~す」と言った。
 奥から女の声で「は~い」と声がした。
 他にも店員がいるようだ。
 彼女は再びM課長のそばに座り、今度は腕組みをしてきた。
 M課長はすっかり観念した気分でその女性に言った。
「この店ってどういう店なの?」
「こういう店ですよ」
 女性はM課長の太ももを再び触り始めると、今度は彼の手をとって自分の太ももを触らせた。
 M課長は脱力したまま彼女になすがままにされていた。
「蕎麦まだかな?」
 M課長は早く食べて抜け出したい気持ちともう少し触っていたい気持ちと相半ばしていた。もし今そこのドアが開いて、同僚が入ってきたらどうしようかとか考えていた。
「今、お客さんは俺だけ?」
「そうですね」
「ふだんは忙しいの?」
「もう少し混んでるけど、こんなもんですね」
「そうなんだ。ずいぶんと余裕があるんだね」
 昼の稼ぎ時で客が一人とか二人とかで商売なんかできるわけない。ましてここは丸の内。賃貸料は相当高いはずだ。ビルのオーナーが趣味でやってる商売なんだろうか。
 Mはそんなことを思いながら天ぷらそばを待った。
 しばらくすると奥から、チャリンと鈴の音がした。
「あ、できました。お待ちくださいね」
 彼女は立ち上がり、奥に入っていった。すぐにお盆に乗った天ぷらそばをもってきて、Mのテーブルの前においた。
「お客様、右利きですか、左利きですか?」
「右利きだけど、なんで」
 彼女はそれには答えないで、彼の左隣に座った。
 M課長の耳元に息を吹きかけるように
「お召し上がりください」とささやいた。
 M課長はすっかり動揺した。
「あっ、はい、いただきます」
 M課長が食べているあいだ、彼女はずっとM課長の太ももや尻を触り続けた。それが気になっていて、食べている気がしない。
 M課長は汗をかいてきた。
「ちょっと暑い?」と彼女は言って、胸元からハンカチを取り出してM課長の額の汗をぬぐった。
「ありがとう。あのさ、集中して食べさせてもらえる?」
「ごめんなさい」
 M課長はさっと食べ終わると、水を一杯飲んだ。
「お味はどうでした?」
「すごくおいしかった。結構いい味してるよね。本格的だった」
 これは本当だった。M課長も付き合いでいろいろなお店で接待をすることがあったりするが、この蕎麦は高級な蕎麦屋でしか味わえない味だった。
 それから彼女に導かれるままに軽く抱き合ったり触りあっていたが、
「そろそろ会社に戻らないと」
「今日はどうもありがとうございます。じゃあお会計ですね」
「350円だっけ?」
「あっ、いえ。ちょっと計算しますね」
 彼女は奥に入っていった。
 M課長はドキッとした。ああやっぱりそうだよな。もしかしてぼったくりの店か?
 女が戻ってきた。
「天ぷらそば350円とサービス料がマイナス1500円で、1150円のお返しになります」
 女はそう言ってお釣りトレーに1000円札1枚と100円玉1枚と50円玉1枚を乗せて、レシートを見せた。
「ちょっと待って。お金が返ってくるわけ?」
「サービス料がマイナス1500円ですので」
「どういうことなの?」
「だってお客様が私にサービスしてくれたわけですから、それをお支払いしてるんです」
「サービスって?」
「私の体をいっぱい触ってくれたじゃないですか。だから私がお金を支払うんです」
「なんだか変な感じがするんだけど」
「そういう商売をやってるんです」
 M課長は店を出た。会社への帰り道の途中、今さっきの状況を整理しようとしたが、考えれば考えるほど分からなくなってきた。


 翌日昼休み、M課長はふたたびこの店にやってきた。
「蕎麦がおいしかったから」
 彼はそう自分に言い聞かせた。
 ドアを開けると昨日の彼女が出てきた。
「いらっしゃいませ。また来てくれたんですね」
「昨日はどうも」
 M課長の表情は崩れていた。
「こちらへどうぞ」
 この日は客が二人いて、それぞれに女性がついていた。
「天ぷらそばでよろしいですか?」
「うん、頼む」
 今日はM課長も慣れたもので、彼女がそばに座ると腰のあたりに手を触れた。
「積極的ですねっ」
「駄目、か」
「いいんですよ。もっと私を気持ちよくさせてください」
 そう言われるとM課長は興奮してきた。
 遠くの席の二人の客はもっと激しかった。
 女の子は裸同然になっていたし、男もズボンを脱いでパンツ姿になっている。
「ああいうことまでやってるの?」
「みんな大好きですから」

 一人の客が会計をしていた。
「肉そば450円とサービス料がマイナス15000円ですので、14550円のお返しになります」
「そばはおいしかったし、君はもっとおいしかったよ」
「今日も気持ちよくさせてくれてありがとうございます」
「また来るから。今度は激しいよ!」
 そう言って客は店を出た。
 14550円のお返し?
 蕎麦食って、裸同然の女の子の体を触りまくって、なぜ14550円ももらうんだ?
「サービス料ってどうやって決められるわけ?」
「それは教えられませんけど、私をいっぱい気持ちよくさせてくれたら上がっていきます」
 M課長は昨日より少し積極的に彼女の体を触りまくった。
「本日のお会計は天ぷらそば350円とサービス料マイナス6500円ですので、6150円のお返しになります」
 M課長はホクホク顔だった。
 こんなに素晴らしい店はないじゃないか!

 それから毎日昼休みになると、この蕎麦屋に通った。
 彼の「サービス」はどんどん過激化した。
 サービス料は日によって、多少のばらつきはあるものの、一日あたり1万から2万円は確実にもらっていた。
 M課長は毎日会社に行くのが楽しみになっていた。

 ある日、部下が言った。
「最近、課長楽しそうですね」
「そう?」
「すごく雰囲気がいいし、なんかいいことでもあったんでしょう」
「ないよ、全然ないよ」と言いつつ、どこかにやけている。
「昼休み、ごはん連れてってくださいよ」
「え? いや、俺、一人で食べるのに慣れちゃってるから、ごめんね」
「そうですか…」

 M課長が部下から食事に誘われることなんて、今まで一度もなかった。部下のあいだでM課長が明らかに変わったとすごく評判が上がっていたのだ。ひと昔前のような軍隊ばりの命令はなくなり、みんな仲良く仕事しようという風に、仕事の姿勢が明らかに変わったのだ。

「蕎麦屋のおかげだ」
 彼は仕事が終わり自宅に帰る途中ふとつぶやいた。蕎麦屋に通いだしてから、性的に満たされる一方、受け取るサービス料だけでも給料なみになっていた。ストレスがないから自分の妻や子どもたちにも優しくなれた。今の彼はとても最高で幸せだといえた。

 こういう生活が続いていたある日のこと、会社に行くと異変を感じた。部下たちが急によそよそしくなっていた。
「おはよう」
 M課長はそれぞれに声をかけたが、目を合わせないで「おはようございます」と小声で挨拶した。なかには無視した部下もいた。
 何があったのだろう。
 M課長はパソコンを開いて、メールチェックをした。
 コンプライアンス部からメールが来ていた。至急話をしたいとのことだった。
 何だろう。
 M課長には思い当たる節はなかった。最近部下たちとの関係も良好だし、評判が上がっているなというのは、彼らの表情を見れば明らかだった。今日は違うが。

 M課長はコンプライアンス部に行った。
「やあ、久々だね」
 S部長が言った。
「ご用件はなんでしょう」
「う~ん、君ね、ITって詳しいほう?」
「ITですか? ワードとかエクセルとか、会社で使うソフトは一応使えますけど」
「そういうのじゃなくて、例えばパソコンで音楽を作ったり動画を作ったり、ユーチューブみたいなやつ」
「そういうのは全然疎いですね」
「俺もそういうの全然分かんないんだよね」
 S部長は笑った。
「難しいですよね。用件ってそれですか」
 S部長は頭をポリポリ掻きながら、少し真顔になって言った。
「いや、あのさ副業とかやってる?」
「副業ですか? いやまったく」
「副業ってさ、別にうちの会社で禁止されてるわけじゃないから、申請さえしてくれれば、就業時間以外でうちと競合しない会社だったら、全然いいわけ」
「はあ、でも私、何もやってないですし」
「う~ん、役者とかやってる?」
「役者? 芸能人とかですか」
「まあ、それに近いやつなのかなあ」
「全然ないですよ。すいません。さっきからおっしゃってる意味が分からないんで、はっきり教えてもらえませんか?」
「いや、ちょっとタレコミが入ったんだよね。これ見てくれるかな」

 S部長のパソコンをのぞき込むとAVの動画サイトだった。
「これさ会社のパソコンじゃない。だから俺としても閲覧するというのも気が引けるんだよね。で、これちょっと見てほしいんだ」
 すると、そこにはM課長と女の子が裸同然で抱き合っている動画が映し出されていた。
 M課長は愕然とした。
 S部長の目が険しくなった。
「これ、やっぱり君?」
「…そうですね」
「ちょっとまずいね」
「…はあ」
「あのね、何がまずいかって、AV男優として出演するのもまずいんだけど…」
「ちょっと待ってください。私はAV男優じゃないですよ。ここ蕎麦屋なんですよ。蕎麦食べに来てるんです」
「確かに蕎麦食べてるけど、メインはあっちのほうだよね」
 Mは沈黙した。
「これの何がまずいかって生配信でやってるところなのね」
「えっ」
「この動画は生配信後にアーカイブとして見せてるんだけど、過去の動画を見てみると、君、すごい出演数じゃない」
「いえ、だから蕎麦を食べに行ってるんですって」
「この動画を見て蕎麦を食べに行くのが目的だと誰も思わないぞ」
「実際そうなんですよ」
「君、お金もらってるでしょ?」
「もらってないですよ」
 S部長は動画の後半に進めた。
「ほら見てみな。君、この日18300円もらってるよね」
「確かにもらってますけど、私は蕎麦を食べに行って、サービス料をもらってるんです」
「サービス料をもらうってどういうこと? 女の子に払うんじゃないの? 払うんだったら問題ならないよ。でも君はもらってるんだ。出演料じゃないの、これ」
「そんな…」
「俺も詳しくないんだけど、この動画を再生するとこれをアップしている人にお金が入るらしいじゃない。だからその利益の一部を君がもらっているわけだよ、出演料としてね。ついでに言うと、こっちのほうが問題なんだけど、これは就業時間中に行われているということなのね。休憩時間とはいえ就業時間中だからね。つまり君は就業時間中にAV男優の副業をやっているということになるんだよ」
 S部長の言葉にM課長はすっかり気落ちしてしまった。
「私はどうなるんですか」
「手遅れというか、身バレしちゃってるんだよね。最近の若いやつってさ、すごいよな、こういうの。会社名と名前がすでに流出しちゃってるんだよ」
「みんな知ってるんですか?」
「知らないのは君だけだよ」
 M課長は言葉が出なかった。
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