第6話 人生コマ送りリモコン

文字数 6,494文字

 M氏は今年でちょうど40歳になった。都内の中堅私大を卒業して、都内のメーカーに就職した。28歳の時に結婚し、小学生の男の子と女の子の二人の子どもに恵まれた。給料がいいわけではないが、妻がパートでなんとかしのいでいる。当面の生活という面では、昨今の世の中の状況を見れば恵まれているほうかもしれない。

 けれども退屈だ。この先のサラリーマン人生を想像すると、出世は期待できそうもない。頭打ちだ。とくにこれといった生き甲斐もない。

 若いころは何かと楽しかったような気がする。音楽・漫画・アニメ・ゲーム…どれもワクワクして夢中になっていた。それがいつのころからか興味が失せてしまい、今では新作が出ても見向きもしなくなってきた。

 子どもの成長が楽しみじゃないか、と同僚は言うけれど、頭にあるのは教育費のことだけだ。妻は二人とも私立中学に行かせたがっているので、仕方なく塾に通わせている。彼からすれば公立で十分じゃないかと思っているが、お受験は流行りではなく、もはや当たり前。だから頭が痛いだけで楽しみなどはない。

 子どもの成長を見ていると、びっくりするくらい早い。ついこの間はまだよちよち歩きだったのが、いつの間にか大きくなり、生意気な口もきくようになっている。

 10歳の子どもの3年は、40歳の自分の12年に匹敵するんだろう。Mはそう想像した。この先50歳、60歳、70歳となるとそのスピードは上がってくるのか…。人生というのはどんどん加速していくものなのだと思わされた。

「俺は来年、50歳になるんだよ」と、先輩がぼやいた。
「まだぜんぜん若いですよ」と、Mは言った。
「なんかあっという間だね。ついこの間40になったと思ったら、いつの間にか50だよ。これじゃあっという間に60になって、やれ定年だよ」
「そんなに早く感じるもんですか」
「感じるね。30代のころは少し早いなと思ってたけど、40代はすごく早く感じたよ。ということは50代は一気に駆け抜けそうだ」

 Mはすごく憂鬱だった。これといった楽しみというものがなくなってきている。新しい出会いも億劫だ。この先どうやって生きていけばいいのかわからなくて、途方もない長い時間が先にあるのかと思うとただただ憂鬱だった。
 しかし時間は加速する。これは救いなのかもしれない。もし子どもが感じるような時間を今感じていたら、ハッキリ言って地獄だ。人生の時間が永遠になってしまう。
 でもやっぱり長い。子どもが成人して会社勤めが出来るまではがんばるが、それから先の人生は不要だ。

 ある日、商品の納品についてトラブルが発生した。Mはその対応にあたるため残業することになった。同僚たちが帰ってしまったあとで、最後に彼がオフィスを出ようとした矢先のことだった。もし電話をとらなければ、翌日の対応になるのだが、とってしまったものは仕方がない。律儀に応じることにした。
 幸いにして、大事ではなかったが、かなり遅くまで残ってしまった。
 オフィスを出ようとしたところ、一階の警備員室から内線が入った。

「そちらにMさんはいらっしゃいますか?」
「私ですが」
「お会いしたい方がいらっしゃるんですが」
「こんな時間にですか。とくに面談の予定はないんですけど」
「なんでも急用だということですが」
「その人のお名前はなんですか」
「それが名乗らないんですよ。会ってからお話をしたいということで」
「困りましたね。明日にしてくれるよう、伝えてもらえますか。今日は遅いから」
「はい、分かりました」

 Mは少し時間をずらすことにした。30分くらい待機してから、一階に降りた。

 警備員室に行った。
「どんな方なんですか?」と、Mはたずねた。
「白衣姿でやってきて…お医者さんかと思いましたよ」
「白衣?」
「Mさんが急病か何かと思いましたよ」
「別に何もないですよ。救急車呼んだ覚えもないし」
「薄気味悪いですね」

 Mは会社を出た。通りは人もまばらだった。さっきの一件があったから、もしかして後をつけられているのではないかと不安を感じながら時折後ろを振り返ったが、特別に変わった印象はなかった。

 電車に揺られて40分。東京郊外の駅についたとき、降りる客は彼一人だけだった。駅から自宅近くまで行くバスは終わってしまったため、歩いて帰ることにした。
「30分のいいウォーキングだ」
 妻に車で迎えに来てもらってもいいけど、最近太り気味だからちょうどいい運動だ、とMは思っていた。
 途中の公園を抜けると住宅街があって、その一角に彼の家があった。
 公園に入って道なりに進んでいくと、後ろからカサカサと音がした。人の気配を感じた。
 振り返ると、そこには白衣の中年男が立っていた。
 Mはすっかり忘れていたので、その男が急に目の前に現れると額から冷や汗が出てきた。
「なんですか?」
「君に急用があるといったじゃないか」
 白衣の男はすこし怒り気味だ。
「ずっとつけてきたんですか」
「そうだね」
「なんの用ですか」
「話できるところはないかね」
 Mはため息をついて、あたりを見まわして、
「そこのベンチで話しましょうか」と、指さした。

 Mと白衣の男はベンチに並んで座った。
「明日、早いんで手短にお願いします」
「短いほうがいいんだね」
「そりゃそうでしょう。いきなり見知らぬ人がそんな格好でやってきて、何の話をするんですか。そもそも私はあなたを知らない。なんの用ですか」
「やっぱり短いほうがいいんだね」
「帰りますよ。ばかばかしい。これ以上つきまとったら警察に通報しますから」と言って、Mは立ち上がった。
「まあ座りたまえ」
 Mは仕方なく座った。
「人生は短いほうがいい。そう思わないかい?」と、白衣の男は訊いた。
「別に思わないですね」
「本当にそうだろうか。君は退屈してるんじゃないの?」
「そりゃ退屈ですよ。でも短いのがいいとは思わないですよ。いろいろやらなきゃいけないことがあるから」
「やらなきゃいけないことは楽しいことではないよな」
「もちろん」
「そういう時間は短いほうがいいよな」
「まあ、そうですね」
「するとそういう嫌な時間が短縮できれば楽しい時間が残るわけだ」
「楽しいかどうかは別として、嫌な時間ではないですね」
「その時間は退屈かね?」
「まとまった時間にならないから、ゆとりもないし、楽しむことまではできませんね」
「君のいう通りだ。まとまった時間がないと、退屈しのぎの時間の使い方しかできない。細切れの時間はスマホでゲームやるか、ユーチューブを見ることくらいしかない。それは楽しい時間とはいえない。そこでだ。こういうものがあるんだ。君に試してほしいんだ」

 白衣の中年男はバッグから小さな箱を取り出して、フタを開けた。
 Mは箱の中をのぞきこんだ
「ブルーレイデッキのリモコンですか?」
「リモコンだけどブルーレイではない。君だ」
「私のリモコンですか?」
「そうだ。再生デッキにはコマ送りがあったり一時停止があったりする。それを自分にやるわけだ」
「私が私自身を早送りするわけですか」
「そう」
 Mは腹が立ってきた。納品トラブルで疲れたところに、こんな怪しい白衣の中年男につきまとわれて、こんなただのリモコンを売りつけるつもりなのか? まったくばかばかしい。
「君は信じてないね」
「ありえない話ですからね」
「そういう決めつけは正しくない。原始時代の人にインターネットを説明しても信じないだろう」
「なるほど。そのリモコンは何百年の先の人にとってはありふれたものだと」
「そういうこと」
「信じるわけないでしょ。帰りますよ。疲れました」
 Mは立ち上がった。
「まあまあ。とりあえずこれを持って帰って試してくれ。使い方は簡単だ。再生と早送りだけだ。早送りは全部で5段階になってる。最速で1時間が1分になる。だから、働いている時間を一日8時間とすれば、早送りして8分に縮めることができる。あとは楽しくなさそうな時間はこまめに早送りすればいい。通勤時間とか」
「その間の仕事はどうなるわけですか」
「通常通りだ。君は普通に仕事をする」
「早送りしている間、私はどんな風に感じているんですか? すべてが早くなるわけですよね」
「年をとって時間がたつのが早く感じてるだろう?」
「そうですね」
「それがトップスピードになるだけだよ」

 翌朝、Mが目覚めると、いつものようにスーツを着て、あわただしく朝食をすませ、家を出た。バス停で行列の最後尾に並び、バスがやってくるまでのあいだ、スマホをのぞき込んでいた。
 Mは昨日のことは忘れようと思っていた。

 会社に着いてからいつものように、仕事を始めたが、鞄の中に入っているリモコンが気になっていた。この時間を短縮できたらいいよな、と。
 ちょっと試してみるか、とリモコンを取り出し、早送りのボタンを1回押した。するとすべてが早くなってきた。自分の動きも早くなっていた。
 もう1回押してみる。さらに早くなってきた。同僚と会話をした。チュルチュルチュルチュルと会話が展開されるが普通に理解している。早く動いているが、息が切れることもない。いつも通りだ。でも早い。
 もう2回押してみる。本当に早いが何の仕事をやっているかも分かるし、会話の内容も理解できている。いつも通りだ。時計を見てみる。あっという間に昼だ。
 Mは再生ボタンを押した。いつものスピードに戻った。早送りしているあいだ、すごいスピードで仕事をしていたが、目が回るとか気分が悪くなるということは全然なかった。ブルーレイの早送りと変わらない。自分は画面の中の人と変わらない。
 これはすごい!
 Mは楽しくなってきた。昼ごはんは同僚たちとのんびりと話をしながら食事をした。
 昼休みが終わると、彼は夕方6時まで最速で早送りした。約5分。猛烈なスピードで、彼と彼を取り巻く環境が進んでいく。でもしっかりと把握している。夕方6時になったとき、再生ボタンを押した。もとのスピードに戻った。
 ついさっき午後の仕事を始めたばっかりだったのに、あっという間に終わってしまった。
 今日の仕事は10分も感じなかった。でもばっちりと8時間以上は仕事をしていた。
 これは実に素晴らしい。

 Mは会社を出て、駅に着いて、プラットフォームに立ったときに、また早送りした。ものすごいスピードで電車が到着し、瞬間移動のごとく乗り込み、飛行機より早いスピードで車窓が流れる。途中数秒に1度ドアが開いたり閉まったりする。駅に着くとこれまた瞬間移動のごとく電車の外に出た。そこで彼は再生ボタンを押した。
「通勤時間1分以下かよ…」
 彼の今日の一日の仕事は終わりだ。楽しくない時間は終わった。
 あまりにもあっけなかったので、帰りはバスに乗らないで、歩いて帰ることにした。
 一日が長いのか短いのかよくわからないな、Mはぼんやりと今日一日を思い返していた。普通に仕事はしていた。8時間以上働いていたかもしれないけど、体感時間は10分だった。

 家に帰って、風呂に入り、ビールを飲んだ。
 今日は早く帰ってきたので、妻や子どもたちは起きている。だからといって会話が弾むわけではない。子どもたちはゲームしてるし、妻はテレビを見ている。
 彼は自室に戻ってスマホでゲームを始めた。
 就寝時間になるとそのまま寝た。
 
 翌日、朝起きると、Mはさっそくリモコンで早送りしようと決めた。
 昨日は会社に着いてから早送りしたが、今日は家を出る前から家に帰るまでを早送りしようと思った。
 約13分だった。会社まで1分30秒で着いて、10分で一日の仕事を終えて、1分30秒で家に着いた。
 家を出た気がしなかった。確かに家を出て、バスに乗って、電車に乗って、会社で働いて、また電車に乗って、バスに乗って帰ってきたことは記憶している。カットされているわけではない。でも13分だ。
 風呂に入って、ビールを飲んで、寝た。

 そんな生活を繰り返しているうちに、早送りじたいが億劫に感じるようになってきた。この約13分ですら苦痛に感じるようになった。ボタンを押し続けるわけではないから、手がつかれることはないのだが、13分間の生活をもっと短縮できないものかと思えてきた。

 Mはある日仕事が終わって、電車に乗って駅に着いたときに、再生ボタンを押した。今日は散歩したい気分だった。
 駅からバスには乗らずに、公園を散歩した。
 すると、ベンチに見覚えのある男がいた。
 白衣の中年男だった。
「なにやってるんですか?」と、Mはきいた。
「君が呼んだんじゃんないの」
「私がですが?」
「どうだね、そのコマ送りリモコンは?」
「すごくいいですね。嫌な時間を短縮できて」
「でも少し不満なんだろう」
「どうして分かるんですか?」
「改良版を作ってきた」
 白衣の中年男はMの質問には答えず、バッグから箱を取り出し、ふたを開けた。
「今度はだいぶ小型化してますね」
「ボタンも増した」
「どんなボタンなんです?」
「たとえば朝9時から12時まで働いてる。12時から13時までは昼休み。13時から17時、18時くらいまでは仕事。その節目にポイントがついて、飛ばすことができる」
「それってブルーレイレコーダーのCMスキップ機能みたいなものですか?」
「そうだ。電車に乗る前、乗った後、バスに乗る前、乗った後、という風にボタンを押すたびに、次のポイントまでスキップできるわけだ」
「それ、いいですね。一瞬にして次に行くわけですね」
「今は家を出てから帰ってくるまで早送りで13分かかるわけだが、数秒で終わりだ」
「その機能欲しかったですよ!」
「試してみるか?」
「ぜひぜひ」

 翌朝、彼はベッドの中でこのリモコンのスキップボタンを押した。
 すると、彼はすでにスーツに着替えて、これから朝食をとるところだった。
 食べ終わると、スキップボタンを押した。Mが玄関で靴を履こうとしていた。
 もう一回押してみる。バス停の前にいて、ちょうどバスが来るところだった。
 次、駅に着いたところだった。
 次、駅のプラットフォームにMが立っていて、電車が来るところだった。
 次、会社の最寄り駅についた。
 次、会社の入口に立っていた。
 次、午前の仕事が始まるところだった。
 次、昼休み前でちょうど午前の仕事が終わるところだった。
 次、昼休みが終わり、午後の仕事が始まるところだった。
 次、午後の仕事が終わるところだった。
 次、会社を出るところだった。
 次、会社の最寄り駅に着いた。
 次、駅のプラットフォームにMが立っていて、電車が来るところだった。
 次、自宅の最寄り駅に着いた。
 次、バス停の前にいて、ちょうどバスが来るところだった。
 次、自宅近くのバス停に着いた。
 次、自宅のドアの前に立っていた。

 Mはスキップボタンを押しながら、興奮していた。展開が早い。嫌な時間が完全にスキップできた。もちろん一日の記憶は残っているが、時間は10秒くらいだ。

 そこからは通常スピードにした。するとMの時間は自分の時間でもあり、家族と一緒に過ごす時間になった。彼はすごく満足していた。まさに理想的な生活だった。

 しかしこの生活に慣れてしまうと、今度は家族と一緒にいる時間が苦痛に感じるようになってきた。Mにとって関心のない妻の世間話を聞くのにうんざりした。子どもはかわいいけれど、彼らはゲームに夢中で会話をすることはない。すると彼にとってこの時間は無駄に思えてきた。はじめはスキップすることをためらっていたが、一度やってしまうとなんてことない。つまんないと思えば、簡単にスキップするようになった。
 残りは自分自身の時間だけになった。ところがこの時間ですら彼には無意味に思えてきた。なぜならやることといったら、スマホを見るだけだからだ。彼は自分の時間もスキップするようになった。

 Mはこうして人生の最後までひたすらスキップボタンを押し続けた。
 享年85歳。
 スキップ機能を使い始めてから彼は35年生きた。その35年は彼には1週間くらいしか感じなかったかもしれない。
 Mは退屈な時間を終わらせることができた。
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