第2話 体重0キロの競馬ジョッキー

文字数 5,557文字

 Mは競馬ジョッキーになって10年になるが、去年は3勝どまり、今年はまだ0勝だ。
 今年も残すところ4か月あまり。これから秋競馬が始まるが、彼に依頼などあるはずもない。GⅠで盛り上がる競馬場でMが騎乗することはない。地方の競馬場で一日一鞍あればいいほうで、ただ待機して過ごすのが彼の週末だ。

 Mはデビューしてからずっとこんな調子だ。人並みに努力をしているが、人並みにはなれなかった。
 馬に恵まれていないというのもある。けれどもMの騎乗ぶりを見て、彼に騎乗依頼をしたくなる調教師はいなかった。

 週末のレースが終わり、Mは自宅に帰った。
「今週もモニターを見てるだけだった」
 彼はステッキをオーケストラの指揮者のようにふると、部屋の隅に投げ捨てた。
「どうなるんだろうなあ」
 彼は寝ころがって、ぼんやりと天井を見上げていると、インターホンが鳴った。
「どちらさまですか?」
 Mはインターホンごしにきいた。
「お届け物です」
 宅急便? なんか注文したかな?
 Mがドアをあけると、そこには白衣の中年男が立っていた。
「宅急便の人、ですか?」
 Mは怪訝そうにきいた
 男は黙っている。
「あなた何者ですか?」
 男は黙っている。
「ちょっと何か言ってくださいよ。僕は今日レースで疲れてるんだから」
 薄気味悪さといら立ちから、Mは早口でそう言った。
「レースには乗っていないだろう」
「見てたんですか?」
「しっかりと1レースから12レースまでね」
「それで何の用ですか?」
「届け物あるんだ」
「あなた宅急便の人じゃないでしょ」
「とにかく君と話をしたい」
「嫌ですよ。帰ってもらえませんか」
「悪い話じゃない。君にとってとても大事な話だ」
「少しだけですよ」

 Mはしぶしぶ白衣の中年男をリビングに通した。
 男はソファに座ると寝ころんだ。
 男はかなり太っていて、ソファが一発でへたってしまいそうだった。
 Mは床にぺたっと座り込んで、その不作法な男を疎ましく眺めていた。
「ところで何の話です?」
 男は目をつぶってしまい、そのまま寝てしまいそうだ。
 しばらく無言が続いたが、男はそのままの姿勢で聞いてきた。
「君は、体重は何キロあるのかね?」
「45キロですね」
「やっぱりジョッキーというのは軽いんだな。私は君の2倍以上だ」
「だから何ですか。お話は何ですか?」
「気づかんかね」
「何をですか」
「私を見て何か不自然なことを感じないかね?」
 Mはいらだってきた。
「そもそもこんな夜に白衣を着た見知らぬ男が突然家にやってきて宅急便だとか何とか言って、そうやってソファに寝ころがってる。すべて不自然ですよ」
「宅急便とは一言も言ってない。それに君の言っている意味では全く不自然なことはない。客観的に見て理論では説明できない不自然な現象だよ」
「今、警察が来て、僕が事情を話したら、僕の言っていることのどこにも不自然さはありませんよ。警察でなくてもみんな僕の言葉に納得しますよ。あなたの話なんか馬鹿げてると思うのが普通ですよ」
「私が言いたいのはそういう俗世間的な話ではない。自然科学的な話をしてるんだ。物理的におかしな点を感じないか、ということだ」
「自然科学? 物理? やめてくださいよ。そういうの分からないし大嫌いなんですから」
「君は観察をしないから、いつまでたっても上達しないんだよ」
 Mは疲れてきた。
「ちゃんと観察したまえ」
 男はたたみかけてきた。
 Mは男をぼんやり見てみた。
 何を観察するんだ、Mはイライラしてきた。
 Mはソファに目を落としてぼんやりと見ていると、異変に気づいた。あっ、と言葉が出た。
「分かったかね?」
「何ですか、それ。どうやって寝てるんですか」
 男が寝ているソファがまったく形状変化することなくそのままの形になっていた。まるで無重力空間の中で男とソファが軽く接しているようだった。
「私の体重は実は0キロだ」
「何を言ってるんですか」
 男は体を起こして座った。すると彼の重みで座面がゆがんだ。
 不思議な現象だった。
「どうだ。不自然だっただろう」
「手品ですね」
「科学だ。これだよ」
 男は左手の中指にはめられた指輪をMに見せた。
「これは体重調節リングという代物でね、この真ん中に丸い赤い石があるだろう? ここの上側を押すと体重が軽くなって、下側を押すと重くなるんだ。もとの体重に戻したいときは二回ポンポンと叩けばリセットされる」
「本当ですか?」
「今、君が見ていただろう」
「たしかに」
「競馬のレースというのはジョッキーの重量によって結果が変わるだろう? ハンデ戦とか。詳しいことは分からんが軽量であればあるほど有利だろう?」
「そうなんですけどね。見習いジョッキー時代に軽量で恵まれていたときでも全然だめだったから何とも言えないですけどね」
 Mは投げやりまじりの言い方で、苦々しい表情を浮かべた。
「体重が0キロだったら違うだろう」
「それはそうですよ」
「君に試してほしい」
「来週、騎乗依頼ないんですよ」
「大丈夫だ。なんとかしよう」

 翌週、Mに騎乗する馬はなく、またいつもの通りモニターの前に座ってレースを眺めていた。
 Mはソファに座って、男からもらったリングを左手の中指につけて、本当に軽くなるのか試してみた。
 赤い石の上側を押し続けると体が軽くなったような気持ちになってきて、座面を見ると自分が浮いていることに気づいた。逆に下側を押し続けると体が重くなったような気持になってきて、ソファの座面がどんどんと沈み込んでくる。どこまでも重くなってきてソファがミシミシと音を立ててきたので、慌てて二回ポンポンと叩いてリセットすると元に戻った。
 話は本当だった。
 ぜひこれをつけて乗ってみたいと思ったが、乗る馬がなかった。あの男がなんとかしようとか言っていたが、そんなことはできるはずはなかった。

 ところが3レースに大事故が発生した。16頭立てのレースで、そのうち12頭が落馬した。乗っていたジョッキーの大半が大きなけがをしてしまい、その後の騎乗ができなくなった。
 待機していたMに騎乗依頼が回ってきた。次の4、7、8、10レースだった。さすがに重賞の11レースには乗れなかったが、それでもすごくラッキーだった。
 指輪をつけているのがばれるとまずいので、どのタイミングでつけようかと考えていた。地下馬道を出て本馬場入場後に完全に一人になれるから、返し馬の途中でつけることにした。

 ファンファーレが鳴りわたり、ゲートに馬が入ると彼はリングの赤い石の上側を強く押した。
 Mの馬は3番人気。有力馬の一頭である。
 ゲートが開くと、どの馬もよりも早くスタートしてしまった。あまりにも勢いがよすぎて先頭に立ってしまい、二番手の馬を突き放すような展開になってしまった。
 スタンドからどよめきがあがった。というのも調教師から真ん中から後方で待機するように指示されていたが、ファンの人たちもそういう競馬を予想していたから、大胆な大逃げは奇策に見られたからだ。
 もちろん当のMは焦っていた。こんなスピードで突っ走っていたら、最後の直線を走るころにはビリもビリ、大差でビリになってしまう。彼は馬を抑えようとしたが、ぐんぐん走ってしまうので途中であきらめていた。
 ところが4コーナーまわっても二番手以降の馬たちとの差は開く一方だった。
 スタンドはどよめきから大歓声に変わった。
 Mがステッキを一発打つと、馬はさらに加速していった。重賞でもない、ただの未勝利戦でこのスピード感を味わったことはない。彼は興奮してきた。
 Mは少し後ろを見てみた。2番手以降の馬たちとのあいだは、大差以上の大差になっていた。
 馬がゴールをすると、スタンドは深いため息に似た反応を示した。
 日本レコードだった。
 Mはこのレースが今年初勝利となった。

 その後の彼の乗る馬たちも同様に逃げ切りのレースですべてレコード勝ちという、競馬史上初の出来事が起きた。
 翌日曜日のレースも乗り替わりで前日の記録を塗り替えるレコード勝ちをしてしまった。もはや奇跡だった。

 翌週の競馬では二日間で12鞍の騎乗依頼がやってきた。やはり先週のインパクトが大きかったのだろう。
 レースは先週と同様にすべて逃げ切りで大差勝ちをやってのけたわけだが、さすがに不審がられた。
 人気の高い逃げ馬ならまだ分かる。しかし後方からの差し馬や超人気薄の馬が同じような圧勝劇をすると、関係者のあいだで疑惑が出はじめた。何か仕掛けでもあるのではないか、と
 主催者はレース映像を検証し、Mや調教師たちに説明を求めてきた。調教師たちは知る由もないし、馬体検査をしてもとくに異常は見られなかった。
 すると問題はMだった。主催者はMに違法な何かを見つけ出そうとしたが、見つけられなかった。

 これからは監視の対象にされるのではないかという若干の不安な気持ちがMにおこってきた。どうしても左手の中指を気にしてしまう。レース中だけこれをつけるわけで、つけたり外したりという動作を見られてしまったらどうしよう、と少し気がかりだった。

 週末のレースが終わり、Mは自宅に戻った。
 彼はソファに寝ころがり、リングの赤い石の上側を押したり下側を押したりしながら、この2週間の夢のような時間を思い出していた。
 インターホンが鳴った。
 白衣の中年男だった。
「どうだね」
「すごかったです。ありがとうございます」
「改良版を作ってきた」
「改良版? もう十分ですよ」
「そうはいかない。というのもこのリングはちょっと目立ちすぎるだろう?」
「そうですね。どのタイミングでつけようかちょっとビクビクしています」
「小型化しないといけない」
 男はバッグから箱を取り出し、それを開けてリングを見せた。
「赤い石がなくなってますね」
 Mは新しいリングに目を凝らした。
「この半透明のリングをつければ、はた目からも分からないし気にもされない。つまりいつでもつけていられる」
「そうですね。ところでどこを押せばいいんですか」
「インターフェースを変えた。音声で反応するんだ。軽くしたいときはダウンと言って、重くしたいときはアップって言うんだ。戻すときはリセットと言えばいい。あと声のボリュームによっても変わるから」
「なるほど。返し馬のときにそれをやればいいんですね」

 翌週のレースの前はMのフィーバーぶりがすごかった。ユーチューブでは、Mの騎乗のまとめ映像がたくさん公開されていた。Mはこうした映像がたくさん出回っていることが少し怖かった。誰かすごい人に解析されてしまうのではないか、と。

 この週はさらに騎乗数が増えて18鞍だった。24レースあるうち18レースも乗るわけだから忙しくなった。モニターの前でぼんやりとレースを見ていることはなくなった。
 返し馬に入って、Mは「ダウン!ダウン!ダウン!」とリングに向けて言うと、体が軽くなってきて、馬の走りが軽やかになってきた。
 レースはすべて圧勝はしなかった。ほどよく勝ち、ほどよく負けた。馬の人気に合わせて違和感のないように体重を調整したのだ。
 体重を0キロにするのではなくて、30キロ程度に抑えたり、場合によっては60キロに設定したりして、より自然なレース結果が得られるようにしたつもりだった。

 けれども今度は別の不審な点が指摘されるようになった。一見すると自然なこのレース結果が不自然に見られるようになったのだ。
 競馬はデータ分析の世界である。さまざまな角度からデータ解析をした結果、Mの成績は他のジョッキーと比べて、人気と着順との関係について完璧すぎるほどの法則が見られるようだ、これは確率的にはありえない話で人為的な何かがあるはずだ、と有名な競馬ブログで指摘された。

 週末のレースが終わり、Mは自宅に戻った。
 Mにとってレースは楽しいものではなくなってきた。
 競馬は莫大なお金が飛び交う世界。パイの大きさが決まっている。その奪い合いだ。
 今、Mはその奪い合いの勝者である。
 しかし、彼は不安に怯えていた。
 インターホンが鳴った。
 白衣の中年男はまじまじとMの顔を眺めた。
「どうした? 疲れてるね」
「そうですね。いつバレるか、と思うと」
「ばれようがない。体重が増減するリングとか誰が信じる?」
「でもデータ解析で僕の騎乗に不自然さがあるらしいんですよ」
「証拠がない。ところでだ。これを製造するうえで、費用がかかっている」
「そうですね。どのくらいお支払いすればいいですか」
「君に入ってくる賞金の50%でどうだろう?」
「そんなに取るんですか?」
「何を言ってるんだ。今までの賞金を考えてみたまえ。十分に稼げてるはずだ」
「そうですね。わかりました」

 翌週のレースから異変が生じた。
 Mは不自然な騎乗を指摘されないように、体重を一定に保つことにした。先週の反省で体重をむやみやたらと変更することが不自然な結果を招いてしまう。だから30キロに固定して、結果に自然なブレが発生するようにした。
 ところがいざレースが始まると、なぜか想定よりも負け鞍が増えてきた。
 翌日のレースでは20キロに設定してみたがやはり変わらなかった。
 翌週以降、体重を15キロ、10キロ、5キロと設定を下げてみた。
 しかし勝てなくなってきた。
 なんだか昔に戻ったにみたいだった。
 体重を0キロにした。
 しかし負けた。
 Mはショックだった。彼が乗っている馬の走りは抜群だった。けれどもライバルの馬たちと差がなかった。レースの決着タイムはMがこのあいだ記録した日本レコードをさらに更新していた。
 あるレースで「ダウン!ダウン!ダウン!」と、後方から聞こえた気がした。
 Mは気のせいだろうと思ったが、そのせいでレースに集中できなかった。

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