第1話 四球王

文字数 10,253文字

 Mは悩んでいた。彼はあるプロ野球チームに運よく入団できたものの、成績はさっぱりだった。彼は下位指名なのでチームにいられるのはせいぜい3年。毎年有望な新人選手が入ってきて、彼らのプレーを見ているとため息しかでなかった。
 もちろんMだって有望な一人である、と言いたいところだが、実情は異なる。
 球団はドラフト会議で同姓同名の他校の選手を指名するつもりだったのだが、間違ってMを指名してしまった。Mは冗談半分でプロ志望届を出してみたものの、まさか自分が指名されるとは想像すらしていなかったので、球団から連絡があったときには驚いたし、大変に喜んだ。
 球団はMと契約を交わしたあとに間違いに気づいたが、時はすでに遅し、Mは晴れてプロ野球選手になってしまった。

「なんで僕は野球選手になったんだろう」
 Mは夜遅く寮に戻って自分の部屋に入ると、ふとつぶやいた。
 2軍での成績は打率1割にも満たない。彼はライトを守っているが、まともにフライも取れなければ、ピンチの場面での送球がわからなかった。プロとしてやっていくだけの素養が何もなかった。
 Mは今年が3年目だった。勝負の3年目だった。秋には戦力外通告になるのは目に見えている。
「どうせ今年でクビだし、やれるだけのことはやってみるか」
 Mはバットをもって一振り二振りしてみたが、やめた。
「無駄な努力だよなあ」
 Mは部屋を出て1階のロビーに降りた。誰もいなかった。ロビーの明かりは消えていて、自販機だけが光っていた。
 Mは3人掛けのソファに座ると、倒れこむようにしてうつぶせになった。
 目を閉じていると自販機のモーター音がジリジリジージーと聞こえてくる。
 するとロビー入口の両開きのガラスドアをコツコツと叩く音が聞こえてきた。
 Mは体を起こして見てみると、そこには白衣の中年男が立っていた。
 こんな時間になんだろう?
 Mが入口まで行くと、
「ドアを開けてもらえないかね」
 中年男はぶっきらぼうに言った。彼の顔は脂ぎっていて、メガネが顔の皮膚にめり込んでいた。
「どちらさまですか?」
「君に会いに来た」
「僕に用事ですか?」
「そうだ」
 Mは困ってしまった。
「ぐずぐずしてないで開けてくれ。君に大事な話があるんだ」
「どんなご用件でしょう。ここは寮ですから部外者の人を勝手に入れてはいけないんです」
「部外者? 君の重要なパートナーだ」
「僕はあなたのことを知りません。誰かと人違いされてるんじゃないですか?」
「君は人違いでプロの選手になったからそう思うんだろう」
 これはMにとって意外だった。というのもこの話は球団内部で内密にされていて、メディアにも知られていないことだったからだ。
「さあ、さっさと開けるんだ。大事な話なんだから」
 Mはその中年男に言われるままにドアのカギを開けた。
「で、なんのご用なんです」
「ここだと誰かに聞かれるとまずいから安心して話せる場所はないかね?」

 適当な場所が見当たらなかったので、Mは自分の部屋に案内した。
 中年男は部屋をぐるりと見渡してから座り込んだ。
「長い話じゃないですよね?」
 男は黙っていた。
「そもそもその白衣はなんですか? お医者さんですか? 僕は別に悪いところはないですよ」
 男は黙っている。
「話があるというから部屋に入れたのに、黙ってるなんてひどくないですか? 明日試合があるんですよ。早く寝ないといけないし」
「スタメンに入るわけじゃないだろう?」
 男はようやく口を開いた
「そうですけど、代打か守備で途中から出るかもしれないし」
「最近出てないじゃないか」
「見てるんですか?」
「見てるよ。しっかりとね。だからこうしてやってきた」
 男はMのバットを見つけるとグリップをしっかり握り、構えた。
 とても野球をやっているような構えではなかった。
 男はバットを壁に立てかけてからまた座ると、胸ポケットから名刺を出した。
 そこには

   未来先端愛技術創造研究所 

と、だけ書かれている。名前も住所も電話番号もない。Mは裏返してみたが何も書かれていない。
「これは名刺ですか?」
「じゃあ何だと思うのかね?」
 Mはこの男のつっかかるような言い方に腹が立った。今すぐにでも追い出したくなった。頭のいかれたファンだ。ただ下手な扱いをしようものなら身の危険もあるかもしれない。うまい方法はないものか?
「君は今、私のことを頭のいかれたファンだと思ったね。どうやって追い出そうかとか考えてるね」
 Mは目を丸くした。
 男は続けて言った。
「驚いたか? これはただの技術。私のこのメガネなんだが、君の脳波を感知して、君が思っていることを文字化してくれる代物なんだ。まだ試作品なんだが、だいぶ完成度があがってきた」
「研究者の方なんですか?」
「そんなもの名刺見ればわかるだろ!」
 Mは大きくため息をついた。
「ところで用件は何ですか?」
「実は君にあるものを装着してもらいたいのだ」
 男はバッグから小さなケースを取り出した。それを開けるとコンタクトレンズがあった。
「目は悪くないですよ」
「これはただのコンタクトレンズじゃない。野球のプレー用に開発された特殊なレンズだ」
「はあ」
「これをつけてバッターボックスに立ったとき、ピッチャーがボールを投げた瞬間にそれがストライクかボールかを判定してくれる。ボールに色がつく。緑がボール、赤がストライクだ」
「信じられないなあ」
「明日の試合で試してみればいい」
「出れるかわからないし」
「大丈夫だ。明日はスタメンだ」

 翌日Mが球場につくと、監督からスタメンで頑張ってくれと言われた。9番ライトだった。ピッチャーよりも下だったが、もともと結果は出していないし期待もされていないから仕方ない。スタメンに出られるだけでも十分。久しぶりだったので心が躍った。
 ユニフォームに着替えてから、例のコンタクトレンズをつけてみた。別に何の変化もなかった。

 試合が始まった。
 3回に1巡目の打席がまわった。
 Mはバッターボックスに立ちバットを構えて、ピッチャーを見た。
 ピッチャーはボールをグラブに抱えて投球フォームに入った。腕をしなららせて、ボールが指から放たれた瞬間、赤く光った。
 Mは茫然としていると、ボールはそのままキャッチャーミットにおさまった。ストライク。
 話は本当だった。
 2球目。ピッチャーがボールを投げた瞬間、そのボールは緑色に光った。Mは見送った。 ボール。
 これは本当だ。すごいぞ!
 Mはワクワクしてきた。
 3球目、赤、ストライク。4球目、緑、ボール。5球目、緑、ボール。
 カウントは3ボール2ストライクになった。
 Mはバットを構えた。
 6球目、緑。フォアボールだった。外角いっぱいのギリギリのボールだった。
 ピッチャーは判定に不服そうに、顔をしかめた。
 Mはゆっくりと一塁に向かった。
 2打席目もカウントが3ボール2ストライクになったが、最後が赤く光ったので、Mはバットを振ったが三振だった。
 3打席目はフォアボールで出塁した。
 4打席目はなかった。交代だった。前の回にフライを追いかけている途中、ボールを見失って落球したのが原因だと思った。
 ただこの日は十分な評価が得られた。監督はMに対してボールの見極めの良さをほめた。
 1打数0安打2四球。
 Mの出塁によってチャンスが広がり、得点に絡むことができた。
 Mがプロに入って以来初めて充実した試合だった。

 1か月が過ぎた。監督ははじめこそほめてくれたものの、最近は怪訝な面持ちになっていた。Mのこの1か月の成績は打率が077で、その内訳が26打数2安打12四球。どう評価すればいいのかわからなかったからだ。出塁の数だけみればすばらしいが、打率を見ればあまりにもお粗末だった。
 Mの打撃はきわめてシンプルだった。とにかく緑が4個光ることを期待した。つまり四球だ。けれどもそんなにうまく四球になるわけではない。2ストライクから次のボールが赤だった場合、見送るわけにはいかない。彼は仕方なくバットを振るが、面白いように当たらない。
 Mはまたスタメンから外れるようになった。

 夜、寮に戻って部屋に入ると、Mはつぶやいた。
「なんで僕は野球選手になったんだろう」
 Mはコンタクトレンズをつけてからやっと浮上しかかったのに、また元に戻ってしまった。
 1階のロビーに降りて、3人掛けソファにまた倒れるようにしてうつぶせになっていると、またコツコツとガラスドアが叩く音が聞こえた。振り向くとまた例の白衣の中年男だった。
 Mは今度はすぐにドアのほうに小走りで行って、すばやくカギを開けた。
「久しぶりだな。元気してたか」
「ええ、まあ元気です」と、元気なさそうにMは答えた。
 Mと中年男は部屋に入った。
 中年男は言った。
「最近またスタメン外れてるみたいだね」
「試合見てるんですか?」
「いつでも見てるよ」
「どこで見てるんですか?」
「それは言わない」
 Mがなぜそんな質問したのか。2軍の試合は観客席といっても草野球なみの設備しかないのでほとんどの客の顔が見えてしまう。この中年男が球場に来ているなら、すぐにわかるはずだが、それが一度もなかった。
「改良版を作ってきた」
 男はバッグからケースを取り出して開けた。なんの変わり映えのないコンタクトレンズだった。
「この改良版は君の弱点を補うものだ。君はそもそも打てない。というより打つセンスがゼロだ」
「そんなにはっきりおっしゃらなくても」
「でも当てることはできるだろう?」
「当たんないです。赤が光ってストライクがくるのはわかってるんですけど、それを当てるのは難しいです」
「ボールの軌道がわかればどうだ?」
「それだったらいけそうな気がします」
「この改良版はピッチャーがボールを投げた瞬間にボールの軌道がラインで表示される。どのポイントで打つべきか、そのポイントがライン上に光っているから、そのポイントを叩けばいい」
「すごい進化ですね」
「試してみるか?」
「でもスタメン外れちゃったし」
「大丈夫だ。明日からまたスタメンだ」

 次の日、男が言ったように、Mはスタメンだった。なぜあの男は自分がスタメンかどうか分かるんだろう、とMは不思議に思った。もしかしたら球団の関係者なのかなと思ったが、誰かに訊いてみるわけにもいかない。
 さて試合のほうはというと、この日は乱打戦だった。9番バッターのMでさえ5打席もまわってきた。結果は3打数2安打2四球。入団以来の最高の成績だった。一日に2安打も打てたことで監督やコーチは喜んだ。
「選球眼が磨かれて、打撃も向上したな」と、監督はべた褒めだった。

 それから1か月、Mの打撃は注目されるようになった。打率が389。その内訳は18打数7安打18四球。Mはめざましく成長した。
 しかし一軍から呼ばれることはなかった。なぜなら守備が致命的に下手だったからだ。

 夜、あの白衣の中年男がやってきた。というよりMが呼び寄せたというほうが適切だ。
 Mはいつものように1階ロビーの3人掛けソファにうつぶせになった。すると入口のガラスドアからコツコツと音がした。Mは起き上がって男を迎え入れた。
 Mは困ったときはそういった所作をすればいいと思っていたので、計画通りだった。
「だいぶ成長してきたじゃないか」
 部屋に入ると、男は言った。
「毎日が楽しいですよ」
「なんか用があるんだろう?」
「そうです」
「わかってる。今までのコンタクトレンズは打撃だけに特化していたが、新しい機能として守備にも対応できるように改良を加えた」
「どんなですか?」
「君の守備位置はライトだよな」
「そうです」
「ピッチャーがボールを投げたとき、バッターが打つかどうかを即座に判断して、ボールがどんな軌道で飛んで、どの地点で落ちるかをグラウンド上に光らせる仕様になっている」
「じゃあ僕はその光っている場所まで走っていけばいいんですね」
「そうだ。フライが取れない理由は、バッターが打った後の初動の鈍さと打球を追いながら走ることができないことの2つだ。あらかじめ落下地点がわかっていれば、打球を見る必要がない。落下地点まで全力で走っていって、そこで立ち止まって楽々捕球できるだろう?」
「そうですね!」
「試してみるか?」
「もちろんですよ!」

 次の日の試合、Mは3番ライトだった。打撃面では首脳陣の信頼を勝ち取っていたが、この日は守備で活躍した。
 どういうわけか知らないが、この日はライト方向のボールがやたらと多く、Mは縦横無尽にグラウンドを走り回った。本来ならヒットだったりツーベースだったりするところが、全部ライトフライとして、Mは処理することができた。
 ピッチャーがボールを投げた瞬間に芝生の上の落下地点が光ると、彼は全力で走った。そしてそこで難なく捕球するという今までのプロ野球では見られなかった、ありえない守備を見せた。
 試合が終わると、監督コーチから絶大な賛辞がMに贈られた。
 この日の守備は一軍の首脳陣にもすぐに伝わった。彼らはこの映像を何度も見返した。完璧な推測であらかじめ走って動いて、打球を目で追わないで捕球するという斬新なスタイルに驚嘆した。
 しかし、それでも彼は1軍に呼ばれることはなかった。というのも1軍の外野手3人はゴールデングラブ賞を取り続けている守備の名手であるばかりでなく、それぞれの打撃力が球界随一だったからだ。ホームラン王、首位打者、トリプルスリー。鉄壁といってもいい。
 Mは打率が向上したといっても、ボールにバットが当てられるようになっただけで、技術的には何ら向上していなかった。ホームランを飛ばせるだけの長打力はまったくといっていいほどなかった。また守備についても確かに捕球の精度は上がったが、送球が遅かった。一言でいえばプロの選手として肉体レベルが圧倒的に劣っていたのだ。コンタクトレンズの限界だった。

 夜、寮に戻り部屋に入ると、Mはため息をついた。
「ああ、やっぱり無理だなあ」
 Mは肩を落とした。
 床に転がっているバットを手に取り、一振り二振りするとやめてしまった。
「無駄な努力だよな」
 彼は一階のロビーに降りて、またいつものようにソファの上でうつぶせになった。
 するとまたいつものように例の白衣の中年男がやってきた。
「何か用かね?」
「一軍に上がれそうもないんです」
「それは私ができる範囲を超えてるね」
「改良版は作ってるんですか?」
「もちろんだ。ただ一軍に上がってから活用できるものなんだ。上に上がってもらわないと実験は進まない」
「そこが壁なんですよ」
「この球団の外野の層は厚いからね。厳しいだろうけど実力で這い上がるしかないな。今、一軍のセンターを守っているKはベテランだし成績も最近下降気味だから、いずれチャンスはあるだろう」
「Kさんはうちの球団の看板選手ですよ。というか球界のスーパースターです。数々の歴代記録を塗り替えてきた人が少々成績が下がったからといって、レギュラーから外れるわけないじゃないですか。あの人は絶対ですよ」
「どんなに優れた選手だっていつかは終わるものだよ」
「いつかって言われても、待てませんよ。僕は今年で3年目です。いつクビになってもおかしくないんですから」
「Kだってはじめの3年くらいはそんなもんだったぞ。今、君は2軍で実績が上がってるから大丈夫だ」
「というか、早く一軍に上がりたいんです。いっぱいいるお客さんの前でヒーローインタビューを受けてみたいんです」
「そもそも練習してないだろう」
「だって必要ないでしょう。このレンズさえあれば」
「まったく仕方のやつだ。何とかしよう」

 次の日球場に着いて、いつものように試合前の練習をしていると、監督から呼び出された。
「M、おめでとう! 一軍昇格だ。さっそく夕方からの試合に備えてくれ」
「今日から出られるんですか?」
「それは分からないけど、たぶんベンチ入りすると思う」
 Mは嬉しさいっぱいに一軍の選手たちが待つグラウンドへすぐに向かった。
 一軍は雰囲気が全然違った。どの選手もレベルが高い。こんなところでやっていけるんだろうか、と不安がよぎったが、自分はこのコンタクトレンズがあるから大丈夫だ、とMは自分に言い聞かせた。
 そもそもなぜMが昇格したのか。それは外野手Kの突然の体調不良が原因だった。
 Mはこの日スタメンで一軍デビューした。彼はライトを守り、ライトだった選手がセンターにまわった。監督が慣れたポジションで試しに使ってみようという意図だった。
 この日の成績は2打数0安打2四球だった。2度出塁したことでまずまずだったといっていい。
 けれどもMにはこの0安打が重くのしかかった。1安打することが無理だとはっきりとわかったからだ。当てることはできてもヒットは到底無理だった。
 また守備においても難題が出てきた。確かに捕球は優れていても送球が稚拙だった。まずどこに投げればいいのかわかっていないし、投げたとしても本当にスポーツをやってるのかと思われてもおかしくないくらい弱い肩だった。
 5試合スタメンで使ってもらえたが、成績は何とも評価しがたいものだった。
 12打数0安打11四球。打率は0だ。
 首脳陣は頭を抱えた。選球眼だけで野球をやっているMを使い続けるべきか悩んだ。二軍ではヒットにすることはできても一軍のピッチャー相手にそれが通じるわけがなく、この先も打てないのは明らかだった。だから代打起用はできないし、また送球に難があるから守備要員としても微妙だった。これだけバランスの悪すぎる選手は扱いづらかった。
 ただ外野手Kの長期離脱は確定的で、場合によっては引退もありうるという深刻な話になっていた。次世代の外野手としてMを育てていかないといけない。入団3年目の選手としては極めて有望な選手だから我慢して使い続けることになった。

 夜、寮に帰り部屋に入るとMはつぶやいた。
「僕はこのまま一軍では打てないんだろうな」
 Mは自分の腕をつまんでみた。とてもプロ野球選手の体とは思えなかった。かといって肉体改造に励むことにはまったくと言っていいほど関心がなかった。KはMとは違い筋肉隆々ですばらしいバッターだった。三振は多かったが当たったときは遠くに飛んだ。三振かホームラン。MはKにあこがれていたが、自分の情けない肉体を見ると無理だとあきらめていた。
 Mは1階のロビーに降りて、いつものようにソファでうつぶせになった。
 白衣の中年男がいつものようにやってきた。
「改良版ができたぞ」
「本当ですか。じゃあKさんみたいにホームランをいっぱい打てるようになるんですか?」
「それはできるわけがない。君は努力してないんだから」
「努力よりもコスパです。無駄な努力をしたくないんです」
「大きな成功をおさめた人はあれこれ試して、いろいろ失敗しながら成功をつかみとるんだよ」
「もっと効率よくやりたいんです」
「まったく仕方のないやつだ。で、新しい改良版なんだが、今回はメジャーアップデートになってる。一つは通信機能を搭載している。これによって逐一データの更新が行われる。これによって精度が上がっていくわけだ」
「いいですね!」
「ただもう一つの機能。これが果たしてどうかと」
「それは何です?」
「かなりリスクの高い話になるんだが、改良版のコンタクトレンズは角膜に接着する仕組みになっている。つまり一度装着すると一生外すことができないんだ」
「…はあ」
「なぜそういう仕組みにしたかというと、このコンタクトレンズがナノサイズの神経線維を増殖させて脳に直結するようにプログラムされているからなんだ。これによってこのレンズに脳の代替機能をもたせることができる」
「なんか難しくて意味がわかりません」
「人の活動は脳の働きによって制御されているのは分かるよね。その働きの一部をレンズに担わせるということだ。それは野球のプレーに限定したものだが」
「つまりそのレンズが野球脳みたいなものになるんですか?」
「そうだ。今まで君が打席に立ったとき、緑ならボールだから見送り、赤ならストライクだから打つという判断を、君がしてきた。これからはその判断を君がする必要はない。それはレンズが勝手にやってくれる。レンズが判断し、その情報が脳に送られ、脳から肉体に伝達され、体が勝手に見送ったり打ったりしてくれる」
「じゃあ僕はバッターボックスに立っているだけでいいんですね。何もしなくてもホームラン打てるんですね」
「だからそれは無理だ。その肉体でどうやってホームランを打つんだ。脳からの指令があってもそれを実現できる肉体をもっていなかったら不可能だ。で、どうする? つけてみるか?」
「う~ん。打ったとしてもそれはヒットになるかどうかはわからないんですよね」
「それは肉体レベルの問題だ」
「レベルが低すぎるとどうなるんですか」
「当てるだけでいっぱいいっぱいだから内野ゴロだろう」
「意味ないじゃないですか」
「わかった。じゃあこうしよう。君は肉体改造をしたくない。一切の努力をしたくない。それなら、あえて打ち損じするようなコマンド機能を追加しよう。通信機能をつけたから自動アップデートで対応できる。君は何も考えなくていい」
「打ち損じですか?」
「大丈夫だ。きちんと成績が残せるようにコントロールする」

 その後のMの活躍は目覚ましいものだった。彼は一番ライトのレギュラーを完全につかんだ。球団を代表する選手として名を連ねることになった。
 その新しいレンズは、赤く光ったボールはすべてカットされてファールになるという仕様だった。だから球数を重ねれば、いずれ緑が4度光って四球にしかならなくなる。ピッチャーには勝ち目がなかった。
 ただこうした打撃スタイルは球界関係者からもファンからも当初いい反応がなかった。打つことがないとはっきりわかっている以上、そこには勝負というものがなかったし、何よりも卑怯な印象を与えた。
 最初のころピッチャーはMの打撃スタイル(とはいっても打撃をしていないんだが)にいら立った。球数稼ぎにみられて、死球狙いのボールが投げ込まれることもあった。また打撃の意志のなさから審判からもたびたび警告を受けた。
 だが度重なるバージョンアップによって、こうした問題も改善されてきた。ファールや見送りをMが演技的な所作をするようにプログラムを改変した。これによって、ピッチャーやキャッチャーそして審判に対し、心理的にネガティブな印象を与えないようにしていった。
 またMのスタイルが定着することによって、相手チームは申告敬遠をするようになった。投げても無駄だからだ。だから彼が打席に立てば自動的に1塁に行けるようになっていった。またファンもこの連続四球がどこまで続くのかに関心が移っていき、奇妙な盛り上がりを見せてきた。
 その年の彼の一軍の成績は12打数0安打446四球。新しいコンタクトレンズを装着してからの彼の成績は0打数0安打435四球。完璧だった。

 シーズンが終わり、彼はMVPに選出された。あまりにも特殊な記録であり賛否両論渦巻いたが、ホームラン王でもなく、首位打者でもなく、四球王を一躍世間に広めた初めてのスターになった。
 Mはテレビの特集番組の中でこう語った。

「打者の価値とは打つことである。野球の歴史が始まって以来、そう信じられていました。しかしこれは部分的に正しく、部分的に誤りです。打つことだけに価値を持たせるべきではないのです。大事なことは出塁することです。チームの得点力を上げて勝利の確率を高めるには、出塁の回数がいかに多いかによって左右されるのです。またピッチャーに球数を投げさせることによって相手チームの継投プランにダメージを与えることができます。これらによって戦況を有利に運ぶことができるのです。
 出塁をするのに最もコスパの高い方法は何か? それは四球です。この新しい野手像を僕は見せることができたと思います。
 打つ練習をするだけではなく、ストライクかボールかを見極める練習をすることがもっとも重要なのです。見極めることを極めることです。
 また意識的に四球を選ぶことによって、心理的・肉体的負担を小さくさせることができます。ケガのリスクを大きく減らすことができます。今まで選手寿命は40歳が限界でした。僕はもっともっと長く野球界で活躍できることをみなさまにお約束しますし、また自分自身に期待したいですね」

 Mの功績は海外でも広く知れ渡り、有名な海外雑誌で表紙を飾った。彼は野球界の革命児だと。
 この年の暮れにはMは球団と10年10億円の総額100億円の大型契約を勝ち取った。彼の絶頂のピークだったといっていいかもしれない。

 一方で球団には不幸な話が飛び込んできた。10年前に10年契約を結んで今年が最終年だったKの訃報が伝えられた。KはMと同じく3年目からブレイクし、4年目から10年間ホームラン新記録を毎年更新し続け、巨人の王が持つ通算本塁打記録まであと数本まで迫っていた。今年の記録更新は誰の目から見ても明らかだった。このニュースが流れたとき全国の野球ファンはひどく悲しんだ。
 担当の医師の話によれば、急性の眼球機能障害が起こり、脳に何かしらの影響を与え、。それが脳障害につながったものと考えられるが詳細はまだわからない、とメディアが伝えていた。
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