第19話 人の言葉から心を守るワクチン

文字数 6,699文字

 日本の小さな医薬品メーカーである疾苦治製薬(はやくなおせいやく)のT社長は嘆いていた。
「日本のワクチン開発は欧米に比べると地球何周分も遅れてる」
「仕方ないですよ。被験者を集めるのが大変です。ふだんは、挑戦することは大事だ、とみんな言いますが、リスクは取りたくありません。それは自分以外の誰かであってほしいのです。だからワクチン開発は大事だと言っても、自分が被験者にはなりたくないのです。またもし何かあったときにはマスコミも国民も大騒ぎです。ものすごいバッシングの中で、すぐに中止に追い込まれてしまいます。失敗の追及に厳しい国民性ですよ。リスクを取ることがリスクです」と、ワクチン開発部長Kは応じた。
「人権のない国のほうが技術は進歩するね」
「国民が望んでいることですから」
「でも、そんなこと言ってたら前に進まない。ところで君らが開発しているワクチンは治験はできるのかね?」
 T社長は言った。
「さあどうでしょう。その前に厚生労働省が何というか」
 K部長は言った。
「手応えは?」
「ないですね」
「やっぱり…」
「画期的すぎるんですよ。どこの医薬品メーカーでも出していない究極のワクチンですから」
「たしかに。欧米が先に開発しているのであれば、多少の話はできるかもしれないが」
「前例がないと話に乗ってくれませんから」
「君らが開発したワクチンは肉体ではなくて心にアプローチするものだから、余計に難しいのかもしれない」
「実際には肉体へのアプローチですよ。肉体がなければ心は存在しませんから」
「そこも問題なんだよな。肉体がなくても魂があるという話とか出てくるとややこしくなるからな。なんとか治験できないものかね?」

 二人は黙ってしまった。
「そうだ。あの病院に行ったらどうだ? あそこだったらこっそり治験してくれるぞ」
「そうですね。行ってみましょう」

 K部長は自ら神名喜病院(みなよろこびょういん)に出向いた。
「ワクチン開発部長ですか。珍しいですねえ」と、H医師が言った。
「画期的なワクチンなんです。ですが治験できそうな病院がないのでこちらに伺ったのです」
「うちはみんなが喜んでくれることをモットーにしている病院ですからね。で、画期的というのはどんなワクチンなんですか?」
「ワクチンというのは病原体に対して免疫を作るものですけども、その病原体ですが、ウィルスであったり細菌であったりするわけです。でも私どもはですね、もっと違うところにアプローチしたんですね」
「それは何ですか?」
「言葉なんですよ」
「言葉?」
「ええ、人の言葉ですね。人が病気になるのはメンタルな部分が大きいと思うんですよ。ストレスを感じると体調不良になりますよね。そのストレスというのは風邪以上に万病の元だと思うのです。そしてその元となるものは人であり、言葉なんだと思うんですね。ならばこの言葉に対する免疫力をつけることで、このストレスを減らしていくことが大事だと考えるのです」
「言葉がウイルスとか病原体ですか」
「ええ、そうですね。ですから私たちは言葉に対して免疫をつけるためのワクチンを開発したわけです。どんな悪意ある言葉で罵られても免疫力をつけることで反応しなくなるのですね」
「それはすばらしいですね」
「ストレスを感じない健全な精神状態を保つことで、不幸感を抑制することができるのです。すると自然と幸福感だけが残るようになるわけですね」
「いいですね。そのワクチン試してみたいですね」
「本当ですか」
「そういうワクチンは大歓迎ですよ」

 Mは大学生だった。彼には入学当初から付き合っている彼女がいた。Mは彼女のことをとても好きだったし、彼女も彼のことを好きだとずっと思っていた。
 ところが、たまたまLINEのグループで彼女の誤送信したメッセージから、同じグループの別の男と付き合っていることが分かってしまった。
 彼女は弁解していたが、浮気をしているのは明らかだった。
 Mは男を問い詰めた。男ははじめはしどろもどろなことを言ってごまかしていたが、途中から開き直って、
「うざいから、さっさと別れてくれない?」と、言われてしまった。
 彼女にどうなのかと訊いたら、
「もうMのことは好きじゃない」と、はっきり言われた。
 Mはすごくショックだったが、LINEのグループを抜けることはできなかった。その後のグループでの二人のやりとりが気になっていたからだ。だから見たくもないのにスマホの画面での言葉のやりとりを見ては傷ついていた。
 Mは泥沼の心理に陥っていた。
 やがて大学にも行けなくなってしまった。
 そんなときに、噂の神名喜病院(みなよろこびょういん)に行ってみることにした。

「Mさんは精神的なショックを受けてるわけですね」
 H医師はMの話を聞きながら、カルテに内容を打ち込んでいた。
「失恋のダメージだけではなくて、その後の言葉のダメージがありますから、それが症状を悪化させていると思うんですね」と、H医師は淡々と語った。
「いいお薬ありますか?」
「薬よりもですね。根本的に免疫力をつけていくことが大事だと思うんですよ。今当院では、人の言葉から心を守るワクチンを患者さんにお勧めしています」
「どんなワクチンなんですか?」
「まさに文字通りのワクチンです。人の感情は言葉によって喜んだり、悲しんだり、怒ったりしますよね。それに対する耐性を高めていこうということなんですよ。だから人から何を言われても感情がぶれることがなくなってくるんですね」
「それいいですね。でもそれは文字にも反応するんですか?」
「もちろんです。意味が分かる言葉に対して反応します」
「副作用はないんですか?」
「今、治験の段階ですが、肉体に異変が生じた症例は今のところありませんね」
「そうですか。それではそのワクチンをお願いします」

 こうしてMは人の言葉から心を守るワクチンの世界第1号になった。

 MはさっそくLINEのグループのやりとりの流れを見てみた。元カノと今の彼氏とのやりとりを見ても、それほどまでに感情が揺さぶられることはなかった。
 とても順調だった。大学にも通えるようになった。日々SNS上で展開されるような炎上話に対しても、気持ちに変化はなかった。
 体調に変調がきたしたかというと、それももない。何か特殊な症状が出たというのもない。まったく以前と変わらない体調だった。
 それどころか体調は良くなったような気がした。いろいろなストレスから解放された気がしたのだ。
 人の言葉を聞いたり見たりして、それが気持ちに及ぼしたあげく、いろいろな体調不良が出てくるのであれば、諸悪の根源は人の言葉なんじゃないかとすら思った。

 友だちのSにワクチンの話をした。
「へえ、そんなワクチンがあるんだ。で、効果はどうなの?」と、Sは半信半疑の顔をうかべていた。
「うん、すごくいいよ。緊張しないんだよね」
「いつも緊張してるの?」
「悪く言われたり、良いこと言われたりすると、緊張しない?」
「いやあ、ないなあ」
「感情が変化すると、肉体が変化して硬直すると思うんだ。それをぜんぶひっくるめて緊張って意味だよ」
「ああ、なるほどね。言われてみればね。いつも怒鳴られていたら緊張するのは分かるけど、良いこと言われて緊張するってのはちょっとわかんないけどね」
「感情の変化が肉体を消耗させるんだって言えばどう?」
「うん、それなら分かるな。笑い疲れみたいな。笑いすぎて顔の筋肉が疲れてくるようなもんか」
「そう。だから感情が揺さぶられるというのは良いことじゃないんだよ」
「映画見て感動したってのは悪いことになるのか?」
「そうだよ。だってそれによって肉体を消耗させるんだから」
「禅の世界だなあ」

 こうした状態がしばらく続いたが、3ヶ月すぎたあたりから、少しずつ感情が動いているような気持ちがした。
 バイト先のコンビニでレジ打ちをやっているときに、公共料金の支払いの束をもってきた客がいて、その打ち込みに時間がかかってしまった。レジ打ちは彼一人だけだったので、後ろには長い列ができてしまった。
 彼はすごく焦っていた。やっと打ち終わって、その客が帰った後の高齢の男性客はすごく不機嫌な顔だった。
「待たせるなよ」
「申し訳ございません」
 Mがレジを打っているあいだ、その客はぶつぶつと文句を言い続けた。
 Mはこめかみにぴっと何かが走ったような気がした。
 その次の客は顔見知りのおばさんだった。
「しょうがないよね。一人しかいないんだからねえ」と、Mに同情を寄せた。
「申し訳ないです」
 Mは少し安らかな気持ちになった。
 バイトを終えて帰宅して、録画してあったテレビドラマを見た。
 Mと同じシチュエーションの恋愛ドラマだった。
 Mの脳裏にフラッシュバックした。元カノに言われたことを思い出した。心臓をチクリと突き刺すような痛みを感じた。顔が熱くなりこわばってきた。
 あきらかに前の状態に戻りつつあるようだった。

 Mは病院に行ってきた。
 担当のH医師はMの話を聞きながらカルテに書き込んでいった。
「ワクチンの効果が落ちてきているのかもしれませんね」
「落ちるんですか」
「そうですね」
「インフルエンザのワクチンみたいに、定期接種をしないといけないのでしょうか?」
「そこまではまだなんとも言いようがありませんね。大事なことはワクチンを打つことによって言葉に対する抗体ができてくるかどうかなんですよ」
「それは消えちゃうんですか」
「消えはしませんけども、弱くなりますよね。よってある程度の接種は必要になってくるかも知れません。また、ウイルスに変異種ってのがあるでしょう? 言葉もやはり同じで時ともに言葉は変化しますから、言葉にも変異種があると考えるのが自然だと思うんです。するとワクチンもそれに対応していかないといけない」
「定期的な接種は必要になってくるんですね」
「インフルと同じケースで考えるわけにはいかないんですけどね。というのもインフルのような通常のウイルスに対する免疫力は若い人のほうがありますよね。しかし言葉というウイルスに対する免疫力というのははっきりしない。若い人は免疫力はあまりないですよね。これが年を取ると免疫力が増していきます。人生経験が豊富になってですね、傷つくことを回避する方法を学んでいくわけですね。あと理性が強く働く人であれば、さらに回避できますね」
「でも、それは僕のイメージとは違いますね。年をとれば攻撃的な人が多い気がします」
「年を取れば1つの言葉の意味するところをより深化させて理解するようになります。些細な言葉から真意をくみとりやすくなるのですね。攻撃的な人が多いっていうのは言葉の意味の理解に対して理性の発達が追いついていないために感情を抑制しきれていないのが一因だと思います。とくに最近は、日々スマホで言葉の嵐を浴び続けて、即物的に反応することが理性の発達を妨げているのかもしれません。膨大な量の言葉のウイルスに感染し続けている状態ですね」
「僕の理性は働いていないんでしょうか」
「あなたはまだ若いですし、それに感性が豊かすぎるのかもしれません。ふつうであれば、人生経験によって免疫力を高めていくわけですが、最近の環境では難しくなっていますね。傷つけ合わないように互いに自己の言動を律していますよね。とくに最近の若い世代は真っ向から他人とぶつかりあった経験を積んでいません。だから些細なことでも傷つきやすくなっていると思いますね」
「ぼくらは免疫力はあまりないんですかね」
「子どものうちに体験しなければいけなかったことを回避してきたわけですから、今更言っても仕方ありません。ワクチンで免疫力を高めていくことがこれからの世代には大事になってくるんだろうと思います。Mさんの場合はもう一度ワクチンを打っておきましょう」
「お願いします」
「今度のワクチンはですね、さきほど言葉にも変異種があることを申し上げましたが、その変異種に対応済です。さらにフィルタリングをより強化させています。ネガティブな言葉に免疫力がつくように、つまり抗体がつくられるようになっていますが、ポジティブな言葉にはつくられないようになっています」

 それからMはネガティブ感情がなくなってきた。悪意のある言葉、攻撃的な言葉に対して反応しなくなってきた。それだけでなく、悲しい、寂しい、つらいなどに関連した言葉に対しても反応しなくなった。
 Mは幸福感に満たされるようになってきた。
「こんなにすばらしいワクチンがもっともっと広まればいいよね」
 MはSに言った。
「でもさ、副作用とか怖くない?」
「全然ないよ。だって言葉に対するワクチンだよ」
「注射するんだろう? 体に抗体ができるんだろう?」
「心に抗体ができるんだよ」
「意味がわかんないなあ。心にどうやって抗体をつくるんだ? 体に抗体ができるから、それが心に作用するんだろう?」
「どうなんだろうなあ」
「脳に抗体ができるんじゃない?」
「どうなんだろうね」
「大丈夫?」

 Mはその後ワクチンの効力が切れてくると、若干の不幸感を感じるようになった。それじたいはいつものことだったが、それよりも不可解な現象が起こった。それまで幸福感を感じていた言葉に不幸感を感じるようになったのだ。
 Mはバイト先のコンビニで、常連の顔見知りのおばさんが言った言葉にネガティブに反応してしまった。
「いつも明るく元気で楽しそうに仕事してるよね」と、おばさんは言った。
「そうですかあ」と、Mはやや不機嫌そうに応じた。
 おばさんは少し驚いた顔をした。
 おばさんが帰った後、Mはふと考え込んでしまった。明るく元気で楽しそうにってどういう意味だろう。僕はべつにそういうふうに振る舞ってるわけじゃないのに、そう思われるのは何か別の意味があるのではないか、能天気で仕事をしているね、という意味の皮肉なのではないか、と彼は捉えてしまった。
 またあるとき、大学のゼミでの発表のとき、
「よく調べてきちんと筋立てているね。さらに肉付けしていったらもっと良くなるよ」と、教授にほめられた。
 これについても、言いたいことは後半の部分であって、肉付けしていったらもっと良くなる、つまり肉付けされていない今は悪いということを言いたいんだ、と捉えた。これはマイナスな評価なんだと。
 そうやって一つ一つの言葉がネガティブな言葉に変わっていった。これが不幸感を増させている原因だった。

 H医師に相談した。
「言葉は包丁みたいなもんなんですよ。料理することもできれば人を殺めることもできます。言葉を発するときは受けとる側のことを考えて選択しなければいけない、とよく言われますが、事実上不可能です。受けとる側がどんな解釈するのか分かりません。また言った人に対して好意的かそうでないかでも変わってしまいます。すべての人にポジティブな意味を提供することはできません。これはどんなに素晴らしい言葉であってもです。受けとる側の解釈によって真逆になることはザラでしょう。あなたの場合は感受性が強すぎるのと言葉の解釈が広がりすぎるのです。だから素直な良い言葉ですらネガティブに変換してしまうことが出てくる」
「どうすればいいでしょう」
「やはり免疫力がまだまだ弱いんだと思います。ワクチンを打ち続けることで、そうした言葉に対して反応しないようにしていくことですね」

 その後、Mはワクチンを打ち続けた。彼は言葉に対する免疫力が高まったおかげで、ありとあらゆる言葉に感情をもたなくなってきた。
 バイト先のコンビニで、常連の顔見知りのおばさんがふと言った。
「最近、元気ないね」と、おばさんは言った。
「そうですか」と、Mは無機質に応じた。
 友だちのSが言った。
「最近、魂が抜けたような顔になってるね」
「そうかなあ」
「なんというかなあ、心ここにあらず、みたいな」
「あると思うよ」
「ワクチン打ちすぎて、仏になっちゃったんじゃない?」
「死んでないよ」
 Mは一通りの受け答えはしていた。しかしそこにはなんの抑揚もない、心電図が横線一本に流れるような声だった。
 SはMから感情を感じとることができなかった。

 Mの両親も我が子の変化を心配した。Mを脳神経外科に連れて行った。
「意味は理解しているようだけど、そこにとどまっているだけですね。聴力や視力が失われているわけではないし、受け答えも適切だと思います。行動に問題があるわけではないです。脳波を見てみますと大脳辺縁系にまったく反応が見られない。つまり感情がまったく反応していない。それ以外だけで機能しているといえます」

 Mは幸福感を感じているのだろうか?








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