第10話 永遠と隙間

文字数 1,794文字

 沙希が恋人と別れて、一樹を選んでくれてからは寂しさも薄れて、幸せな時間だった。一樹の家から二人でよく通学した。

「素敵なお家ね」と沙希はいつも言ってくれる。
 沙希の家の方が大きいし、近代的だった。
「古いけど…庭の桜の木も気に入ってるんだ」と二人で縁側に並んでまだ蕾もついていない木を見上げた。
 そのまま沙希を抱き寄せてキスをする。沙希の長いまつ毛が揺れた。
「愛してる」
 沙希の白い肌が赤くなるのを見て、幸せな気持ちで彼女を抱いた。
「沙希。愛してる」
 何度繰り返しても足りない。
「私も」
 ずっと永遠に繋がっていたい、とそう願った。

 朝も、昼も、夜も、可能な限り一緒に過ごした。ピアノに関しては真摯な態度の沙希に一樹も感化されて練習に励んだ。同じ時間に学校の練習室をそれぞれ借りて練習する。もういいんじゃないか、と一樹が思っても、沙希は練習を続ける。負けず嫌いだから上達してきたんだろうな、と一樹は思った。
「もう、一樹はちょっとしか練習しなくて、どうしてそんなに弾けるのよー」と沙希にいつも言われる。
「してるよ。ちゃんと、朝夕、学校でも」
 綺麗な顔が怒る時、その顔は少し幼く見えて、可愛く思えた。
「うーん。次こそは一番になりたいのにー」
「そっかぁ。うーん。一番になるには…あまり意識しないことじゃない?」
 そう言うと、ますます可愛い怒り顔になる。
「もう、一樹はどうしてそんなに呑気なの」
「呑気かなぁ」

 一樹は相変わらずコンクールに出ることはなかったが、担当教授からそろそろ出ないかとは言われている。自分の音楽が誰かによって誰かと比較されることが嫌だった。それは趣味の範囲だと思っているからだ。

「一樹だって、コンクールでてみたらいいわよ。分かることがあるから」
「そうだね。教授からも言われてて。ちょっと出てみようかな」
「え? そうなの?」
「まぁ、本当は出たくないんだけど…。なんか仕方ないよね」と言うと、沙希は呆気に取られたような顔を見せた。
 国内コンクールの最終選考では「誰だ?」という雰囲気で見られた。
 試験会場と同じだな、と一樹は思いながら順番を待つ。呼び出されて舞台に上がる。照明が眩し過ぎて、客席が見えない。きっと沙希も来てくれているはずだった。そのことを考えると、心が跳ねる。
 ピアノの前に座ると、一樹は演奏を始めた。今まで誰がどんな演奏をしたか、とか、ほぼ聞いていなかった。自分が探してた作曲家の答えを紡いでいく。正確に音にして一枚の布を織り上げるようにして演奏をする。演奏が終えると綺麗な模様の布が出来上がるはずだ。作曲家が考えていたものに少しでも近づけただろうか。
 どのピアニストもそれぞれ違った糸で曲を織り上げる。その最終的に出来上がった布に順番なんてつけて欲しくはなかった。
 ただ広がる一枚の美しい布を作るように一樹は音を紡いでいった。
 結果は一位だった。

 国内のコンクールで一位になったことで、それまで無名だった一樹の名前が一気に知れ渡った。沙希も喜んでくれたが、思えばそれから距離ができた気がする。デートに誘っても「練習があるから」と断られたり、家にも滅多に来なくなった。
 ただ学校では一緒に連弾したり、お互いのピアノについて色々意見交換もすることは変わらない。
 小さなホールでの演奏する機会も設けられるようになった。音楽雑誌では「学生とは思えない表現力」と称された。
「留学しないんですか?」とインタビュアーに聞かれた。
「留学…今は…。いつかできたらいいですね」とその時は適当に答えていた。

 一樹は沙希から離れるつもりは全くなかった。沙希が専攻科に残るのなら、そうしようと思っていたし、もし沙希が留学するなら、一樹もついていこうと思っていた。そういえば、そんな話したことがなかったな、と思った。
「沙希…。卒業後はどうするの?」と聞いてみた。
「…多分、大学院に行こうかな。一樹は?」
「じゃあ、一緒に行こうかな」と言うと、沙希は少し真面目な顔をした。
「一樹は一樹に合った場所に行かないの?」
「合った場所?」
「海外…とか」
 沙希が何を考えているかさっぱり分からなかった。
「沙希と一緒にいたいんだけど?」
 喜んでもらえるかと思っていた。でも沙希は少しだけ微笑んでから、何かを言おうとして、そしてまた笑顔で何かを隠した。
 少しの違和感。それがちょっとずつ二人の隙間を広げていく。
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