第8話 昔の初恋

文字数 1,052文字

 その美しい一目惚れした女性、沙希に恋人がいるということは早々に分かっていた。時々、恋人が車で学校帰りに迎えに来ていたからだ。
「じゃあ…ここで」と沙希が一樹に言う。
「また明日」と一樹が軽く手をあげる。
 その一瞬、沙希の瞳が揺れていた。一樹は微かに微笑んで校舎に戻った。レッスン室で練習を続ける。沙希の恋人がどういう人か分からないが、迎えにきていた車を見るだけで、それなりにステータスの高い人物だと分かった。それでも一樹は少しも負ける気がしなかった。
 ピアノの連弾をしているときはまるで恋人のように感じていたからだ。
 彼女の音に寄り添い、いいタイミングで音を響かせる。それは沙希にも十分届いていた。たまに悪戯をして、沙希の指に触れたりして、怒られるけれど、本気で怒っている様子じゃないのも分かる。音を奏でながら、こんなに溶け合う二人はそういない、と一樹は思っていた。
(早く僕のものにならないかなぁ)と本気で思っていた。

 若くて自信家だった一樹は絶対に手に入れられると思っていて、そのことに少しも疑いを持っていなかった。そして恋人になったときのことを考えると、鼻歌まで出そうになった。
「桜木君」と翌朝、声をかけられて、一樹は振り返ると沙希の友人がいた。
「何?」
「あのさ、沙希に恋人いるの知ってる?」
「知ってるけど…」
「じゃあ…私とピアノ弾かない?」
「え?」と思わず口に出してしまった。
 明らかに不機嫌そうな顔をする彼女に謝る言葉も出なかった。お互い変な空気のまま固まる。そこへ沙希が「おはよう」と声をかけた。
「おはよう」と一樹が返すと、沙希は面映そうな顔で微笑む
 その顔を見ると、絶対に自分に好意を持っているとしか思えない。
「真紀ちゃん、どうしたの?」と沙希が友達に聞く。
「何も」と言って、踵を返して去っていった。
「どうかした?」
「ううん。…君に恋人がいるからって言われた」
「あ…」と沙希は少し視線を逸らした。
「一緒に音楽してるだけなのにね」と一樹が言うと、「そ…そうね」とぎこちない様子で沙希は頷いた。
 一樹は微笑みながら、「一緒にレッスン室に行こう」と言った。
 何だか落ち着かない様子だったので、一樹は沙希にそっと近寄って「僕は好きだけどね」と言う。
 驚いたような顔で一樹を見る沙希を見て「気にしないから」と言った。
 光が木々の間からきらきら溢れる五月だった。沙希の鞄を取って、一樹は走り出す。沙希は「ちょっと」と慌てて追いかける。何も怖いものもなかった日々。生きてきて、初めて充足感を感じた時間だった。
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