第30話 僅かな別離

文字数 2,215文字

  桜は母と一緒に店の後片付けをしていると、父親が降りてきた。
「風呂用意したから…」と母に先に入るように言う。
「あらあら。いいのかしら」と言いながら、上に母が上がっていった。
「ちょっと桜に話があるから」と言って、大きな鍋を壁にかけようとしていた桜を手伝う。
「話って?」
「うん。まぁ…。そろそろ帰りなさい」と言って、たわしを手にする。
「え?」
「俺のこと気にしてここにいなくていい。桜の気持ちは分かるから」と背中を向けて流しを洗い出す。
「お父さん…。でも」
「寂しいけど…。そう言うもんだよ。俺もお母さんと結婚した時、そうだったんだから。一緒になれてすごく嬉しかった」
 初めて聞く話に桜は目を丸くした。
「お母さんは本当は違う人が好きだったんだ…。でもまぁ…上手くいかなくて…それで俺と一緒になったから。それでも…俺は嬉しかった」
 母からそんなこと一度も聞いたことがなかった。
「お前たちが好き同士なのも分かってる。だから…帰りなさい」
 こっちを振り向くことなく随分長い間、流しを洗っている。
「もちろん…。ここもお前の家だから」
 おぶってもらった背中が小さく見える。お祭りにも連れて行ってくれた。日曜も仕事だったけれど、夕方、一緒に公園で遊んでくれた。何より大切にしてくれていたのを桜は分かっている。
「お父さん…ありがとう」
「桜は…大切な宝物だから…幸せになって欲しい」
 ずっと後ろ向いたまま言われる言葉が胸に響く。
「本当に…ありが…とう」と涙をこぼしながら、言う。
「もう…分かった…から」と鼻声だったので、桜は慌てて二階に上がった。
 ティッシュペーパーを取って、自分も拭いて、父親のところまで持って戻る。キッチンペーパーで豪快に鼻を咬んでいた。思わず桜も笑ってしまい、父親も笑い出す。でも笑いながら、二人ともぽろぽろ涙を零した。
 シャッターの下りたお弁当屋から笑い声が響く夜だった。

 一樹が朝、家を出ようとした時に携帯が鳴る。警察からだった。
「昨日はありがとうございました。家族からの証言があって、どうやら…仰ってくださった通り、事故で亡くなった川口学さんとお付き合いされていたようですね。その原因を奥様だと思い込んでいるようで…」
「はあ…。やっぱり」
「それで…まぁ、不起訴になるかと思うんです。抱きついた行為と…六センチの刃のカッターナイフ所持ですけど」
「分かりました。弁護士に相談して接近禁止お願いするしかないですね。…相手の親御さんと連絡を取ろうかと思います」
「すみません。どうか、そう言う事で…」
 電話を切って、ため息をつく。一樹は憂鬱な気分になった。どうして浮気された桜がこんなに逆恨みされなければいけないんだ、と怒りすら覚える。苛立ちつつも、一樹は学校でなんとか補講を終えて、事務手続きをしに行く。入り口に持田先生が立っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。桜木先生…。お辞めになるんですね」
「あ、そうです。…文化祭の時はお世話になりました」
「ああ。あれ…。びっくりしましたよ。本番の転けっぷりと言ったら…」と笑いを堪える。
 あの時は、演奏前に野口琳が楽屋に来て、一樹を襲おうとしたところに桜が間に入って大変だった。事が収まって、すぐの舞台だったので、一樹の演奏はなんとか弾けたという程度のレベルだった。
「本当にすみません」
「まぁ…。面白かったからいいですけど」と言いながら、肩を叩いて「頑張って下さい。またいつか一緒に演奏しましょう」と言ってくれた。
「はい。またいつか」と言って、事務に入ろうとした時、持田先生が言う。
「謝恩会で何かしましょうか?」
「…ぜひ」と気がついたら返事をしていた。
 あまり人と関わりたくないと思っていたのに、自分が少し変わったような気がする。

 夕方前に家に帰る。今年は寒くて、雪の降る日が多い。曇り空を急いで帰る。今日は一度家に帰って、夜から山崎と飲みに行く予定だった。バレンタインのチャリティーコンサートをすると言うのでその話もあった。人気歌手も参加したいと言ってくれている。チャリティコンサートではやはりクラシックよりアニメ曲のアレンジが人気なので、その選曲も含めて話し合う。

 家に帰ると中に人の気配がして、一樹は思わず身構えた。鍵はかかっていたが、開けて入る。すると奥から走ってくる足音がする。
「あ」と思った瞬間、桜の顔が見えた。
「お帰りなさい」と飛びつかれた。
「桜…。どうして」
「だって用事は済んだから…早く帰りなさいって。お父さんが」
「え?」
「私も早く一樹さんに会いたくて」
「だって…しばらく実家にいた方がいいって」と一樹は柔らかな甘い匂いがすぐそこにあることに眩暈を覚えた。
「大丈夫です。今度は蹴りを入れます」
「けり? …弁護士入れて話す予定だから…」
「えー。そうなんですか?」
「うん。警察では限界があるからね」
「…心神喪失…」
「有罪にはできないみたいだ」
「でも…そこまで学のこと好きだったって…。すごいと思います。私は…そこまでじゃなかった」
 抱きつきながら、一樹の顔を見て「でも一樹さんだったら…そうなるかも」と言う。
「うーん。事故に合わないように気をつけるから」と言って、桜を抱き上げる。
「わ。降ろしてください」
「おかえり」と強く抱き締める。
「ただいま…です」
「帰って来てくれて…ありがとう。ずっと待ってた」
「私も会いたかったです」
 一週間も満たない別離だったのに、永遠に思えた。
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