第14話 新しい雪

文字数 2,779文字

 区役所で婚姻届けをもらって、なんだか嬉し恥ずかしい気持ちで桜はいっぱいになる。大切に紙を鞄にしまう。横にいる一樹が難しそうな顔をしている。不安そうな視線に気がついたのか、慌てて一樹は説明する。
「証人は山崎に書いてもらうとして…。桜の戸籍謄本はどうしようかな」
「あ。持ってきました」
「え?」
「だって結婚するつもりだったんで、ちゃんと用意してきました」と言って笑う。
「そう…なんだ」
「完璧です」と得意げなのがかわいい。
 かわいいのはいいのだけれど、一樹は出会って間も無いのに、本当にいいのだろうか、と思う。桜はまだ若いし、もっといい人がいるのではないか、とこの後に及んでそんなことを考えてしまう。つい難しい顔になってもう一度、確認することにした。
「本当に…いいの?」と一樹が聞くと「一樹さんこそ、私で本当にいいんですか?」と聞き返される。
「僕は桜がいてくれたら…」
「じゃあ、気にしないでください。私…すごく嬉しいんですから」
 そんな風に素直に言ってくれると、小さな不安を気にしていたのが馬鹿馬鹿しくなる。でもまだ心に引っ掛かりがあることも出てくる。
「お父さんに電話…」
「籍入れてからでいいですよ」
「あ…だから…お酒にあんなメッセージ書いてくれたんだ」
「え? 一樹さんは結婚する気はなかったですか?」と桜は目を大きくしている。
「いや、その…ビザの関係でしなければ…とは思ってたんだけど…。なんか大切なお嬢さんを頂くのに…勝手に手続きしていいのかな…って」
「頂く…私…頂かれるんですか?」と何だか桜は恥ずかしそうに聞き返してくる。
「頂きますけど…いいのかなって」と一樹は戸惑っているのに、桜は両手で口を押さえて嬉しそうに笑っている。
 結婚するって、どんな気持ちだったかな、と思うと、一樹はぼんやりぼやけた気持ちになる。

 前回の時は結婚当初からあまりいい顔はされなかった。妻はバレエを辞めているのに帰国せずにドイツにいて、日本人と、しかもピアニストなどという経済的に不安定な男性と結婚に彼女の両親は反対だった。
「自称ピアニストは海外にたくさんいる」と言われたことを覚えている。
 その言葉が突き刺さって、今までスルーしていたコンクールを受けて優勝したこともある。少しテレビに出たり、CDを出したのもこの頃で、ある意味、妻の両親のおかげとも言えなくない。それでも結局、一樹の父親が会社経営者だということで、納得していたようだった。その会社を継ぐのは一樹と半分だけ血縁のある弟だと言うのに、それでもそのおかげで結婚に了承を得ることができた。
 初めからそんなに嬉しいという気持ちや、ウキウキするような気持ちはなかった。日本に帰国して、妻の両親に挨拶後、役所で書類を提出して終わった。結婚式はしなかった。妻の両親は結婚式にこだわったが、一樹は日本で呼びたい人も友人もいなかったので、結婚式をする意味が分からなかったし、すぐにドイツに戻るスケジュールだった。
 そんなところも両親の不興を買ったのだが、「落ち着いたら」と言うことで適当に流れてしまった。
「写真くらい…撮ろうか」と妻に聞いたら両親の態度が悪いことを申し訳なく思ったのか首を横に振った。
 ただドイツに帰国して、写真を撮った。ブルーグレーのワンピースを着た妻と燕尾服を着てピアノの前で撮った写真が部屋にずっと飾られていた。ウエディングドレスを着せてあげればよかったかな、と一樹は少し後悔する。
『桜木君。ずっとこの写真飾っててね』
『え?』
『私のお気に入りなの』
『じゃあ、毎年撮る? 同じ服着て…少しずつ変化が分かるね』
『いやだ。桜木君が年下だからって』と言って、笑う妻。
(僕は…最善を尽くしたのだろうか…)と思っていたら、袖を引っ張られる。
「一樹さん?」
 笑っていた桜が心配そうにこっちを見ていた。
「あ…ごめん」
「こんなに用意周到で引いてしまいましたか」と真剣に聞く。
「…ううん。なんか覚悟できてなかったのは自分だったって。ビザのせいにして桜に結婚してもらおうと思ったりしてたけど…」
「キャンセルはなしですよ」
「しない。大切にするから…」
「でも戸籍はお家に置いてます。取りに行きますか?」
「そうだね。山崎の都合も確認したいし、ちょっと待って」
 こんなに急いで籍を入れるのも珍しいだろうな、と桜は自分で思った。特に何の記念日でもない冬の一日。でも何にもない日が特別になることが嬉しい、と桜は思った。

 元彼だった(まなぶ)と別れて、彼が事故死して、桜はその結果、ここにいる。不思議だと思った。彼が生きていて、そのまま結婚していたら、どうなっていただろう、と想像する。桜は外国に行くこともなかっただろうし、きっと小さなアパートで二人で喧嘩したり…と考えて、多分、喧嘩はしなかっただろうな、と思い返した。無口な彼は桜が何を言っても「うん」と頷くだけで、半分、聞いているような聞いていないような感じだった。きっと携帯をいじっている彼に一人で話しかけて、ため息をついているんだろう、と想像する。
 そして浮気をされるかもしれない。実際、何があったのか分からないけれど、後輩の女の子と付き合っていたのかもしれない。優しい人だったから、もしかしたら頼られて断れなかったのかもしれない。結局、何もわからないままだった。
「桜」
「あ…」
「どうかした? 山崎、喜んでくれて…。夜、家においでって言われたんだけど…」と柔らかい笑顔の一樹が目の前にいる。
「睦月さんも?」
「そう。二人で証人の欄に署名してくれるって…」
「嬉しいなぁ」と桜は言いながら、さっき考えていたことを遠くへ追いやった。
「じゃあ…ちょっと時間あるし、指輪、買いに行こうか」
「嬉しいです」
「こだわりとか…ある?」
「一樹さんと同じデザインがいいです。でもピアノ弾くのに邪魔になりませんか?」
「そうだね。弾く時は外すかもしれないし…」と言いながら区役所をでる。
 昼間になると雪は少し小さくなっているが、まだ降り続けているので傘を差す。
「今日中にここにまた戻ってこれるかな」
「婚姻届は時間外でも受け取ってくれるらしいから…」
「明日は流石に大学あるでしょ?」
「…あると思うけどね。今休んだ分、振替でレッスンしないといけないから…来週、再来週は忙しいかもね」と一樹が言う。
「でもなんだか今日中に行きたいです」
「じゃあ、頑張ろう。指輪買って、家に戻って…山崎の家に行って…区役所。やることたくさんだね」
「後、お茶もしたいです。指輪買った後…」と言って、桜は一樹の腕に体をつけた。
 傘を差しているので、斜めになった桜の傘から雪がこぼれた。白い道をゆっくり歩いて、駅に向かう。過去は消えることはないけれど、雪が降り続いて、全てを覆ってくれる。新しい時間を二人で作れるように、そんな思いを込めて、ゆっくり歩いた。
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