第1話 春近し

文字数 788文字

 目の前に茶色い熊のぬいぐるみがある。学生の頃に遣っていた机の上に置いて、坂本桜はそれを眺めながら笑顔になる。ピアニストの桜木一樹と一緒に行ったドイツ旅行の思い出を思い出しながら幸せな気分に浸ってしまう。このぬいぐるみは今朝、一樹から送られたものだった。一緒に行った旅行先で買ったぬいぐるみだけれど、「荷物になるから」と一樹が買った本や楽譜と一緒に一旦、一樹の東京の家に送られた。そこから転送されたものだった。
「一樹さん…ありがとう」

 桜は一樹と一緒に帰国して、すぐに実家に戻った。実家は東京から遠いので、色々と考えて、やはり結婚を前提に同棲をしようかと考えている。
 海外での一樹の活躍を目の当たりにして、桜はなるべく一樹の近くで支えてあげたいと思ったのだ。

「桜ー」と下から母の呼ぶ声がして、桜は階下に降りていく。
「桜木さんから荷物届いてるわよ」
 小さな茶色い包みを渡される。中を確認すると、チョコレートやお菓子、そして熊のキーホルダーが入っている。
「あ…」
 ドイツでぬいぐるみを買った店に置いてあった小さな熊のキーホルダーだった。いつの間に買ったのだろう、と桜は思いながら手に取った。
「桜…。一樹さんと…どうするのか決めた?」
「うん。あの…」
「行くのね?」と母は分かっていたように言う。
 桜は荷物を抱きしめて、頷いた。手紙を読むと桜への両親へのプレゼントも入っているようだ。クッキーや海老煎餅がそうらしい。
「ふふふ。気を遣ってもらって悪いわね」と母が笑いながら受け取った。
「お母さん…。私…大丈夫かな?」
「大丈夫よ。あなたが選んだ人だし、私たちはまだ元気だから。何かあったら、いつでも戻ってきていいから。お父さんも喜ぶし」
 母はすぐにでも飛び出して行きたいと感じている娘の気持ちを知っていた。
「春…もうすぐ春になるわねぇ」と母は呟いた。
 風は冷たいが空の色が淡く霞んでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み