第25話 まっくろくろすけ

文字数 1,780文字

 サンドイッチを食べながら「それで…その恵さんとは会えたんですか」と桜は聞いた。
「会えたよ。大学の…三回の頃に出たコンクールで」
「へぇ」と桜は目を大きくしている。
「今は違う大学で教えてる」
「そうなんですね。コンクールでは一樹さんが勝ったんですか?」
「そう…だけど。桜は? どんな学生だったの?」
「私ですか? 真っ黒でした」
「真っ黒?」と聞いて思わず一樹は心配した。
「真っ黒に日焼けして、ずっと外で遊んでました。遊んでばっかりで…。あ、後、小学校の頃は生き物係してましたよ。ニワトリとウサギの世話とか」
 想像しただけで、一樹はなんだか微笑んでしまう。小さい桜が小動物の世話をしている姿が目に浮かぶ。
「中学校のクラブは…家庭科部に入って、お菓子作って、ちょっと肌色がマシになりました」
「今、白いのにね」
「そんなに外で遊ぶことないから? ずっと近くの神社で遊んでたり…あ。そういうえば、秋になると日が暮れるの早いでしょ?」
「うん」
「それで遊んでたら大人に怒られるんです」
 都会ではないと言っていたから、地域の人たちとの関わりが深いんだろう、と一樹は思った。愛を家族からも地域の人からも受けて育った桜は自身も愛情溢れる女性に育った。
「そっか」
「一樹さんは怒られたりしなかったんですか?」
「うーん。ずっとピアノ練習してたから…。さぼっても他にやることなかったし…。ゲーム的な感覚もあったしね。エチュードはどれだけ早く指が回るかとか、ノーミスでどこまで弾けるかとか」
 桜は一樹少年が一人でピアノに向かっているのを想像すると、胸が痛んだ。広い部屋で一人でピアノで自己完結した遊びを考えたのだろうか、と思うと真っ黒になるまで遊んでいた桜とは違い過ぎる。
「…一樹さん。その時に私がいたら…一人にさせないのに」
「え? その時って、桜、何歳?」
「えっと、まだ…生まれてないかも…です」
 十四歳も年が違うとそうなる。二人で沈黙した後、同時に笑い出す。
「じゃあ、私が真っ黒だった時…一樹さん大学生?」
「うん。そう…そこからイギリス行ってた頃かな」
「わー。私が真っ黒になって、遊んでた時、一樹さんはイギリス行ってたんだ」と桜は驚く。
 イギリスの音大に通っていた時、まさか真っ黒にして遊んでいた女の子と結婚するなんて思いもしなかっただろうし、その逆もそうだ。
「えー、本当に私で良いんですか?」と桜は思わず聞いてしまう。
 あまりの生き方の違いに、自分がふさわしいのか、と疑問になる。
「桜の方こそ…。まだ若いのに」
「一樹さんが良いんです。私…生まれてきてよかったって、なんか今日、初めて思ったかも」と言って笑う。
「え?」
「一樹さんに会えて、好きになって…おまけに結婚までして、嬉しい」
「そんな…」と言ったけれど、本当に幸せそうな笑顔を見せてくれるから、一樹の心がまた暖かくなる。
 だから「生まれてきてくれて、ありがとう」と言った。
「明日から帰るの嫌だー」と桜が言うので、一樹も「辛いなぁ」と言った。
 そんなことを口に出せるようになるとは一樹も思っていなかった。ゆっくりとお昼を食べて、約束通り散歩に行く。雪は降っていなかったけれど、冷たい空気が頬を刺す。
「一樹さん。私のことマフラーでぐるぐる巻きにしてコンビニに言った夜のこと…覚えてますか?」
 初めて二人で避妊具を買いに行った日だった。
「忘れられないよ」
「えへへ。変な女だと思いましたか?」
「ううん。嬉しかった」
 桜は歩きながら時々ジャンプしたりしている。
「私…結構、ドキドキしてました」
「…そっか。じゃ、一緒だね」
 照れ隠しの笑顔を見せられて、一樹は胸が止まりそうになった。冬の昼間の光は黄色くて、暖かい。空気は寒いけれど、日差しが柔らかで幸せに感じられる。桜が一樹のポケットに手を入れてきた。
「神様って…いるんだな」
「神様?」
「そう実感するのはバッハを弾いている時と…桜を見ている時」
「え?」
 奇跡だと思った。長い人生、こんなに胸が温かく感じたことはない。側にくっついてくれる小さな温もりを手に入れる日が来るなんて思ってなかった。
「一樹さんより若いのに?」
「桜は神様がくれたプレゼントだって思ってる」
 不思議そうな顔をして、そして桜は一樹の手を掴んで、またポケットの中に入れる。その温もりを大切に離さないように、一樹も手をそっと繋いだ。

 
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