第37話 喧嘩

文字数 2,472文字

 芽依が作ってくれた花束はラナンキュラスとクリスマスローズが入っていた。可愛くて、幸せな気分になる。
「素敵な一日を」とメッセージが書かれてある。
 芽依の優しさが溢れるような文字だった。
「桜、疲れた?」と一樹に聞かれる。
「一樹さんの方が…。私は立ってるだけだったから」と言って、ブーケを解く。
 花瓶を一樹に出してもらって、花を入れる。茎が長いのでハサミで切って揃えた。可愛い花が部屋を明るくさせてくれる。一樹がコーヒーを淹れていた。
「美味しいブラウニー食べようかなって思って」と笑いかけてくれる。
 桜は立ち上がって、台所に行った。
「どうしたの?」
「え?」
「ちょっと元気ないから」
 一樹に言われて、桜は体をもたせかける。
「嫉妬」
「嫉妬?」
「しました」
「嫉妬してくれたの?」
「はい。だって私が頑張っても入り込めない世界だったから。でもごめんなさい。お仕事なのに…」
「いいよ。ちょっと嬉しいし」と言って、桜の髪にキスをする。
「ピアノ弾けたり、歌、歌えたり、ずるいです」と言ってることがわがままだと思いながら桜は口にする。
「歌は歌ってないけど、ごめん」と素直に謝ってくれる一樹に桜はさらになんとも言えない腹立ちを覚える。
「もう、謝らなくていいです」と怒った声で言ってしまう。
 すると一樹は思わず笑ってしまって、桜はびっくりする。
「なんで笑うんですか?」
「可愛いから」と即答して笑う。
「もー」と桜は頬を膨らませて、一樹の体から離れようとしたら、逆にぎゅっと抱きしめられた。
「好きでいてくれて、本当に嬉しい」
「もう、嬉しいとかないですから」と顔を顰める。
「嫉妬してくれて、嬉しいけど?」
「私は嫌なんです」と言って、桜は唇を尖らせる。
「僕も嫉妬した。なんか若い人に囲まれてて…」
「え?」と桜は一樹を見上げる。
「僕だって、不安になる。桜は若いし、可愛いから」
「そんな人…たくさんいます」と桜は頬を膨らませながら呟く。
「たくさんいるいけど、桜は一人だから。お願いだから…側にいて欲しい」
「側にいてるじゃないですか。でも曲を作ってたなんて知らないし、それに…。やっぱり私には入れない世界があるみたいだし」と言って、やっぱりただのわがままを言ってると分かるのに、止められない。
「曲?」
「はい。あの…今日の曲です」
「あ、あれかぁ。すぐ出来ちゃったから…。スタジオで五分で作って…。だから家ではやらなかったんだけど」と一樹にとってはそんなに大したことのないように思っていたらしい。
「曲作れるとか知らなかったです。だから驚いて」
「尊敬してくれた?」
 なんだか今日は何もかもが腹立だしい。何より桜が怒っているのさえ、一樹が嬉しそうなのも、気に触る。
「今日はお風呂一人で入るんですからね」と桜が言っても、一樹は笑いながら「それは残念だな」と言うのだった。
「もう」と軽く体を押して離そうとしても、全然力も敵わない。
「桜…。ごめん。不安にさせて。曲も他にも作ってる」と真面目に言われる。
「え?」
「一緒にアルバム作ることになったから…。でも嫌だったら…」
 今更断れないのも分かってるし、そんなことをして欲しいわけじゃない。
「どんなことしてるのか教えてください。知らないから不安になります」
「分かった。本当にごめん」
「謝らないでください。私が…勝手に」と言って、一樹の体に顔を埋める。
 嫉妬なんて一番醜い気持ちなのに、と桜は嫌な気持ちになる。別に一樹を疑っているわけでもないのだけれど、他の女の人と一緒にいるのを見て、嫌な気持ちが抑えられなかった。自分の小ささも嫌になる。
「…桜。お風呂は?」
「今日は一人で入ります」と言うと、腕が解かれた。
「じゃあ、美味しくブラウニー頂くね」と一樹が言った。
「ごめんなさい」と桜が謝ると、一樹がブラウニーを小さく切って、フォークに差す。
 目の前に出されるので、桜は口に入れた。甘くて濃厚なチョコの香りがする。
「美味しい?」と聞かれたので、自分で作ったのに桜は頷く。
 せっかく作ったブラウニーだから一樹には美味しく食べて欲しくなる。背伸びをして一樹の頬にキスをした。こんなことで仲直りできるのかわからなかったが、桜は精一杯の気持ちで、唇をつけて離した。一樹が再び桜を抱きしめて、キスをした。
「ほんとだ。美味しい」と一樹が愛おしそうな顔で桜を見る。
「本物はもっと美味しいのに」と恥ずかしくなった桜が言うから、また一樹は抱きしめながら笑った。
「一緒に食べてくれる?」と額をつけて、聞く。
「…はい」
「お風呂は?」とまだ額をつけたまま聞く。
「…別で」
 吹き出すのを我慢して、一樹は体を離した。そして桜を椅子に座らせてコーヒーをコップに注いだ。そして二階に上がって、すぐに降りてくる。
「ハッピーバレンタイン」と一樹が小さな箱をくれた。
 三つ並んだダイヤのネックレスだった。
「え?」
「婚約指輪も渡してなかったから」
「そんな…」
「それはまた今度、見に行こう」
「え? だってもう結婚したから…」
「そう。だからごめんね」
 桜は本当に困った顔で、そのネックレスを眺めた。一樹がそれを取って、桜の後ろに回ってつける。
「似合ってるよ」
「あの…鏡見て来ていいですか?」と桜は急いで洗面台に向かった。
 三つのダイヤが横並びで光っている。ずっとつけていられるシンプルなデザインだ。きらきら輝くダイヤに見惚れていると、一樹が来た。
「気に入った?」
「はい。とっても。…ありがとうございます」と言いながら指でダイヤに触れる。
「後ね…。結婚の曲も作ってるから…」
「結婚の曲?」
「そう。桜と結婚して幸せだなぁって曲」と言いながら一樹が笑う。
 だからあのシンガーが結婚のことを知ってたのか、と桜は納得した。
「…楽しみにしてて」と後ろから抱きしめて、耳にキスをする。
「…はい」と言いながら、桜は一樹の方を向き直って、腕を首に巻きつけた。
「で、お風呂は?」
「一緒です」
 一樹は安心したように笑うと、桜を抱き上げた。チョコのかかったブラウニーが少しだけ切り取られて、二人が戻ってくるの静かに待っていた。
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