第51話 インフルエンザ

文字数 2,269文字

 桜が風邪をひいた。熱が高くて、病院に行こうか、というけれど「寝ていたい」というので、二階に一人で寝ているが、辛そうだった。おかゆをなんとか作ってみる。レシピ検索をして、やってみるがうまくできるか分からない。
「風邪がうつったら困るので」と桜は一階のソファで寝ようとしたが、慌てて、一樹は二階に押しとどめて、自分が一階のソファで寝た。

 桜がここに来た当初はここでずっと寝ていたんだな、と思うと不思議な気持ちになる。あのベランダから落ちて、何もかも諦めたような目をしていた。その目に覚えがあったから、一樹は心に残ったのかもしれない。
 足が痛そうなのに、早く出て行けと言わんばかりの態度で、本当に申し訳なかった、と今なら思うけれど、あの時は本当に厄介ごとに巻き込まれたような気持ちだった。
「それがどうして…」と呟きながら一樹は思い出し笑いをした。

 トーストのおかわりにおずおずとお皿を差し出してきたこと。一樹の元妻はバレリーナだったから極端に食べなかった。食べるところを見ても、なんだか苦行のように感じていそうだった。それが桜はトーストのおかわりをぺろりと平らげ、もしかしたら三枚くらい食べたのかなって思うほどだった。変な話、その食べっぷりに癒されていたところがある。餌付けをしていたように思われるかもしれないけれど、その食べっぷりが傷を治してくれていた。
「美味しかったぁ」とニコッと笑う笑顔も可愛かった。
 そう思うと、桜は一体、いつ自分のことを好きになってくれたのか、少しも分からない。愛想もない、冷たくした相手だというのに。お粥を炊いている鍋が沸騰したから、慌てて火を小さくする。
「あまりにもひどかったら病院に連れて行こう」と一樹は体温計を片手に二階に上がった。
 ベッドの中で丸く縮こまっている桜がいる。
「桜…。やっぱり病院行こう」
「…か…ずき…さん」
「タクシー呼ぶから」
「…は…い」と言って、のろのろと体を動かす。

 近くの内科がネットで予約を取れるというので、ネット予約をした。お粥の火を消して、タクシーを呼ぶ。すぐに来てくれた。近距離だったの診察の間も待ってもらうことにした。結局、インフルエンザだった。薬をもらって、帰る。すごく苦しそうだった。
「あ、お粥作ったから」
「一樹さんが?」
「そう…。うまくできてるかは…わからないけど」
「うれ…しい」
 弱った桜をソファに座らせて、お粥を運ぶ。
「食べてみて」とスプーンで口元に運ぶと、素直に口を開ける。
 すっかり冷めていたけれど、美味しいと言ってくれる。でも辛いのか、それ以上食べれそうにない。薬を飲ませて、二階に連れて行く。いつもよく食べる桜が全然食べないと不安に駆られてしまう。
「桜…」
「大…丈夫」と言って、眠りに落ちた。
 息が荒いし、顔も赤い。薬が効いてくれればいいのだが、と一樹は思いながら、下に降りた。残った冷えたお粥を食べてみると、少しも美味しくなかった。その日、一日、ピアノを三十分弾くと、桜の様子を見に行った。

 翌日、目が覚めると、桜がぼんやり台所に立っていた。
「桜?」
「一樹さん、昨日はありがとうございます」
「大丈夫なの?」
「…ましになりました。一樹さんのお粥のおかげです」
「お粥…あんまりうまくできなかったけど」
「あんなもんですよ?」と言いながら、ふらふらしている。
「…まだ寝てて。昨日のお粥でよければ…冷蔵庫の中に」と言うと、桜は冷蔵庫からお粥の鍋を取り出して、温め直した。
 そこに卵を割って入れる。
「…へぇ。美味しそうだな」
「後…中華スープの素を入れるといいんですよ」と粉状のスープの素を鍋に振り入れた。
「ところで桜、熱は?」
「熱は三八度ですけど…お腹が空いて、ふらふらなんです」
 それを聞いて、一樹はようやくいつもの桜のような気がして安心した。
「早く元気にならないと、三十分に一回は二階に来るから、練習にならないでしょ?」
「あ…」
「でも、嬉しかったです。一樹さん…優しいなぁって思って」
「優しい?」
「はい。ずっと優しいですよ」
「ずっと? でも最初は意地悪じゃなかった?」
「最初だけです。だって、それは変な人、変なとこから来たら、誰だって疑うじゃないですか。それなのにトーストお代わりさせてくれたし。優しい人だなって思いました」
「…それで好きになってくれたの」
「はい。優しくて、格好良くて、ピアノ弾けて…。嫌いになんかならないでしょう?」
「そう…かな」
 一樹はなぜか照れてしまう。
「でも私には届かない人だと思ってました。だから…びっくりしました」
「そんな驚くことかな」
「一樹さんはもっと素敵な人と…って」と言って、お粥を止める。
 一樹の分も桜はよそってくれた。
「あ、美味しい」
「ねぎがあったらいいんですけど、流石に刻む元気はなかったです」
「ごめん。僕がすればよかった」
「いいんです。一樹さんが作ってくれたお粥ですから」と桜はまだ目がとろんとした顔で話す。
「薬飲んで寝て」
「また三十分おきにきますか? 一時間おきにしてください」
「分かった」
 それで一時間おきになったけれど、最後は四十五分おきくらいになったから、桜も笑ってしまった。
「熱、大分良くなりましたよ。明日は多分、元気になります」
「じゃあ、今日まで下で寝るから」
「ダメですよ。後、三日は」
「同じ家にいるのに、すごく遠くなって寂しい」と一樹が言うので、桜は目を大きくした。
「私は一樹さんがこんなに構ってくれて…すごく嬉しいです」
 お互いの感覚の違いが分かった瞬間だった。順調に桜はよくなり、隔離は後三日で良くなった。
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