第56話 明日の予約

文字数 1,442文字

 一樹が歯を磨いていると、桜が後ろから抱き付いてきた。
「一樹さん…」
「どうした?」
「このお家、私大好きです」
「うん」
「ドイツ…行ってる間はどうするんですか?」
「時々、お掃除はお願いしてるから…」
「そうですか…」
「桜はドイツ行きたくない?」
「そんなことないです。でもこのお家、大好きです」と言いながら離れない。
「桜…。ごめん」
「ごめんじゃないです。ただなんとなく寂しくなっただけです。私が折ってしまった桜に蕾がついてました。たくさん…」
「春が近いからね。うがいするからちょっとだけ離れて」と言うと、手が離される。
 さっきまであった温もりが消えた分だけ寒さを感じた。うがいをして口を濯ぐ。律儀に大人しく待っている桜が可愛くて仕方がない。
「桜が咲いて、ちゃんと散るまではここにいるし…。次、また咲くまでに戻ってこよう」
「…はい」
「それと…子どものこともちゃんと考えるから…」
「子ども?」
「そう。赤ちゃん」
 赤ちゃん…と桜は口だけで声は出さずに繰り返した。嬉しさと恥ずかしさとで手で頰を押さえる。
「じゃあ、寝ようか」と一緒に二階へ上がった。
 ベッドに二人で入ると、すぐに桜が腕を巻き付けてくる。
「風邪、もう完璧に治りました」
「長くて…僕が何だか辛かった」
「…私も…です」
 柔らかく微笑む一樹に桜がキスをする。
「赤ちゃんできたら…。やっぱりちょっと忙しくなっちゃいますか?」
「うーん。なるのかな」
「一樹さんに構ってもらえなくなったり…」
「桜が構ってくれなくなるんじゃないの?」
「うーん」と桜が唸って、一樹の胸に頭を乗せた。
 一樹の心臓が鳴る音を聞くのが桜は好きだった。こうしてちゃんと生きてるのだ、と感じることができる。鼓動一つ一つに血液が流れて、一樹の全身に栄養が運ばれ、と想像すると全てが愛おしく感じる。
「桜…」
「また一樹さんの心臓の音、聞いてました」
「止まってない?」
「止まってないです。ちゃんと働いてます」
「良かった。桜が近くにいるから…息が止まりそうだ」
「えー?」と言いながらくすくす笑う。
 体を引き寄せられて「愛してる」と言われる。幸せで仕方がない。桜も「私も」と言って、腕を首に絡ませる。甘い夜の時間を久しぶりにゆっくりと過ごした。身体中にキスをされて、幸せで涙がこぼれそうになる。一樹の肩に桜もキスをする。
「明日の朝、一樹さんが横にいるの」
「ん?」
「すごく嬉しい」
「今朝も横にいたけど?」
「今朝も嬉しかったです。毎日、毎日、目が覚めて一樹さんがいるの…幸せ」
 思い切り一樹に抱きしめられた。
「ありがとう」
「えー? こちらこそ…ありがとうございます」と笑って、抱きしめ返す。
「桜は天からの贈り物だって…思ってるから」
「大袈裟です。でも一樹さんの方が神様のギフト…かも」とまた笑う。
 一樹の才能は桜にとっては手の届かないような、そんな貴重な才能を近くで感じられる特権を感じると同時に、支えなければという使命感もあった。
「だって…空から落ちてきたから」と一樹が言う。
「あ、ほんと。落ちましたね」

 月の綺麗な夜に。
 空から落ちてきた。
 そんな桜に救われた、と一樹は心から感謝した。

 あの時も一人でピアノを弾いていた。毎日のルーティーンをしていた時だった。ついこの間のことだけど、ふと懐かしく感じた。桜の言うように、明日、目が覚めて、隣にいてることが幸せで、楽しみだ。

「明日の一樹さんを予約しましたから」と桜が言って、また唇を肩につける。
 そして二人の吐息が熱を帯びて、夜は更けていった。
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