第22話  幸せな時間

文字数 2,406文字

 休日の朝はベッドから出れなくなってしまう。目が覚めて、愛する人が側にいることが嬉しくて、桜はずっと一樹の体に頭を近づけている。桜が起きたことをなぜか一樹はすぐに気がつくみたいで、一樹も目を開ける。
 おはようを言う前に抱きしめられる。
 桜も思い切り抱きしめ返して、幸せな朝を実感していく。桜の素肌を一樹の指が辿って、お互い気持ちがどうしても抑えきれなくなる。そのまま愛し合うのだけれど、朝はカーテンから漏れる光で薄ら明るいのが桜は恥ずかしい。
「一樹さん…」と息が上がったまま呼ぶ。
「何?」
「どうして…朝…なんですか?」
「別に朝じゃなくても、昼でも夜でもいつでも構わないけど…夜はすぐ寝ちゃうから」と一樹が笑いながら桜のおでこにキスをする。
「…昼」と桜は顔を赤くする。
「桜が可愛いから…僕は別にいつでもいいから」とくすくす笑う。
 桜は夜に起きていられるように努力しようと思ったけれど、でも朝でも幸せなことには変わりなかった。手を回すと大きな背中がある。
「一樹さん…大好き」
 そう言われることに慣れないない一樹は何よりも嬉しかった。
「でも…お腹空きました」と桜が言うので、「そんな気がしてた」と一樹も言う。
 それなのに、桜は背中に置いた手を動かさない。
「桜」
「お腹空いてるんですけど、まだこのままがいいくて…それで…悩んでるんです」
 時々、敬語が抜けるようになったのも一樹は嬉しかった。
「じゃあ…お姫様抱っこしようか?」
「え?」と手が緩む。
 一樹が起き上がって、桜を抱き上げようとすると、足をジタバタ動かす。
「一樹さん、裸。二人とも」と言うけど、一樹は笑いながら「誰もいないのに?」とまたベッドの上に下ろした。
「着替えてから…ちょっとだけお願いします」
 そう言うことを素直に言うのも本当に可愛くて、一樹はそのまま抱きしめる。そんなことをしていると、朝が昼に変わっていった。
「昼から練習したいから…早めにランチ食べに行って、夜は家でゆっくりしよう」と一樹が言うので、桜はずっと叶えたかったことを言ってみた。
「ランチ食べた後、少し歩いて一緒にスーパーに行って欲しいんです。一緒にスーパーに行くのが夢で」
「え? スーパー?」と一樹はちょっと不思議そうな顔をしたが、桜のお願いだから頷いた。
 桜はずっと夫婦でスーパーに行くと言うことに憧れていた。実家はお弁当屋さんなので、業者による仕入れで、あまりスーパーに行くことがない。余程、急に調味料が切れたとか、お菓子や飲み物、日用品を買うくらいしか行かなかった。
「本当ですか? 今日はクリームシチューしてもいいですか?」
「うずら卵入りの?」
「はい」と嬉しそうだった。

 ランチも早めに行ったお陰で、すぐに席につけた。可愛いカフェなのに、出てくる料理はフランス料理だという。牛の頬肉の赤ワイン煮込み、鶏肉のトマトソース煮込み、豚ローストのマスタードソースから選べた。桜も一樹も牛頬肉にした。ほろほろと柔らかく煮込まれていて、ソースまで美味しい。
 公園に隣接しているので、寒くない日はテラス席も気持ちよさそうだった。寒い日だったからテラスにはビニールカーテンがされて、ストーブが置かれている。
「ストーブいいなぁ…」と桜が言う。
「どうして?」
「その上でおでんを煮込んだり…焼き芋焼いたりできるからです」
 思わず一樹は笑ってしまう。ストーブの用途から外れていて、しかもそれが全部食べることにつながっていたからだ。笑いながら「買おうか?」と言うと、嬉しそうに笑う。「でもいいです。一樹さんのお家…いないことが多くなるから…」
「桜、本当にありがとう。ドイツまでついてきてくれて」
「こちらこそ…。連れて行ってくれて」
 ずっと穏やかな時間が流れる。カフェを後にして、スーパーに向かう。念願の夫婦でのスーパーでお買い物だ。特にそんなにたくさん買うものはないけれど、カートを押す。カートを一緒に押すと言うのも夢だった。
「桜? これ…これでいいの?」
「えっと」と言って、周りをキョロキョロ見渡す。
 二人でカートを押してる人は誰もいなかった。
「なんか、押しづらいから…僕が押すね」と一樹が押す。
「うーん」と想像していたのは少し違っていた。
「それで何買うの?」
「シチューに入れる具材です」
 野菜売り場で野菜を選ぶ。真剣な顔で桜は手にとって形を確かめたりしてかごに入れる。その横顔を一樹は見ているだけで幸せだった。スーパーに行く楽しみが何なのか分からなかったけど、今の一樹には分かる気がした。
「桜…晩御飯以外にもお菓子も買っていいし…」と言うと、一瞬、嬉しそうな顔をしつつ、口を引き締める。
「お菓子食べたら、ご飯たくさん食べられないからダメです」
 桜が何を言っても、一樹はもう可愛いとしか感じられなくなっていて、相当頭がおかしいと自覚する。
「…でも…一樹さんが食べたいなら…買ってもいいですけど」とおずおずと言うので、一樹は「まぁ…食べたいかな」と言ってから「あ、でも桜のご飯を美味しく食べたいから我慢しようかな」と言った。その間も桜の表情がくるくる変わる。
 最終的には少し残念そうな顔で、でもちょっと微笑んで、お菓子売り場は素通りした。
 ゆっくり時間をかけた買い物が終わって、スーパーを出る。
「ちょっと重たいですけど…、歩いて帰りましょう」
「寒くない?」と言って、一樹は桜の持っているものを取る。
「…大丈夫です」と言って、取り返そうとするから「これはピアニストの筋トレになる」と言って、渡さない。
 仕方なさそうに桜は一樹の腕をとって歩く。
 柔らかい暖かさが腕に伝わる。
「今日はありがとうございます。夫婦でスーパーに行く夢を叶えてくれて」
「僕も楽しかった。そんなに行かないし…桜と行くと…どこでも楽しいね」
「私も」と桜は体をくっつける。
 一緒に行って、一緒に歩いて、一緒に帰る。幸せでふわふわした帰り道だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み