第52話 想いを残す

文字数 1,927文字

 ある朝、朝食の片付けを終えた桜がにこにこしながら、一樹に近づいてきた。ピアノを弾いてる時は滅多に近づいて来ないのに、なぜかそろりそろりと近寄ってくる。
「何?」
「まだ何も言ってないのに…。でもお願いがあります」
「うん。だから、何?」
「えっと。良い感じの曲無いですか? 例えば恋人に愛を伝える曲」
「え? 恋人?」
「あ、できれば誰でも聞いたことのあるようなメジャーな曲で…」
「メジャーな曲…。たくさんあるけど…。恋人って何?」
「えっとずっと一緒にいるんだけど、改めて…『好き』って言いたい、みたいな」
 桜が言ってることが今ひとつ分からない。
「ずっと一緒にいて、『好き』って言いたいのと、曲と関係あるの?」と一樹が言うと、桜はちょっと口を尖らせた。
「もういいです。練習続けてください」
「ちょっと…待って。ちゃんと協力したいから。それに誰の話か…気になる」
「え? 気になりますか?」
「気になる」
「だって…一樹さん、そんなの気にしそうにないから」
「他の人なら気にならないけど。なんで桜が恋人に愛を伝える曲を探してるのかは気になる」
「あ、私じゃないです。あの…睦月さんです」
「え? 睦月さ…」と一樹は驚いて、桜を見た。
 桜は「違いますよー。えっと、山﨑さんに。ですよ?」と慌てて顔の前で手を振った。
 一樹はシューマン、リスト編曲の「献呈」を弾く。シューマンが妻クララとの結婚式前日に彼女に贈った歌曲集をリストがピアノ曲に編曲したものだ。
「素敵。一樹さん大好き。でもこれはちょっと誰もが知ってる感じじゃないので」とあっさり却下された。
 結局、リストの「愛の夢」が選ばれた。
「これ、録音させてください」
 どこで録音したら一番いいか、何度か確かめて、桜は録音をした。一生懸命になっている姿が可愛いので協力することにする。でも一樹は睦月がそんなふうに山﨑を思っているなんて思いもしなかった。もちろん山﨑本人も気が付かなかっただろう。
 この録音が何に使われるか知らないけれど、いい結果になって欲しい、と思った。
「やっぱり一樹さんのピアノ素敵。独り占めしちゃった」と言いながら桜は微笑む。
「今のは睦月さん用だから…。桜のためだけに『献呈』弾くよ」と言うと、慌てて、また録音を始める。
 桜はシューマンが妻の結婚式前日に歌曲集を作曲して贈るなんて、すごくロマンティックなことをしたんだなぁ、と思うとこの曲がより一層美しく響く。
(素敵な贈り物だな…)と桜は思った。
 その後の困難な人生はわからないけれど、その瞬間の煌めきが詰まったような美しい曲だ。
(ちょっと羨ましい)と桜はちらっと一樹を見た。
 でもこうして自分のためだけに演奏してくれるというのが嬉しくて、それだけで幸せだと思った。こんな素敵な曲があるなんて知らなかったし、その背景も知れたから余計に心に残る。曲が終わったので、ボタンを押して録音を止めた。
「一樹さん、ありがとうございます。大好き」と言って、頰にお礼のキスをする。
 一樹の手が大きいから鍵盤も楽々に押せるのだろうか、と桜は手のひらを重ねる。重ねるとまるで子どもの手のように見えた。
「小さいね」
「一樹さんのが大きいんです」と言って指の長さも比べる。
「可愛い指」
「これって、ピアノ弾いてたら、こんなになるんですか?」
「多少はあるかもね。でもどうしても骨格の問題もあるから…。外国の血が入っているから…ちょっと有利だったかな」と言って、笑う。
 薄い茶色い目、髪、そして長い指も遠くの国の遺伝子だ。
「お母さんってどこのハーフとか聞いてないんですか?」
「聞いたことないし、どこでどうしてるのか教えてもらったこともない」
「知りたくないですか?」
「もう今更かな。正直、これ以上、知り合いを作りたくない」と少し顔を背ける。
「私も友達少ないから…」と桜は困ったような顔をする。
「付き合いは狭い方がいいよ」と一樹が言うので、桜はちょっと笑った。
「じゃあ、頑張ってくれたご褒美に、お昼はデザートつけちゃいます」と桜が嬉しそうに言うので、一樹は思わず手を口に当てて吹き出すのを我慢した。
「あ、一樹さんはデザートいらないですか? 何か一品、作りましょうか?」
「いい、いいから。お昼、ちょっと遅くなっていいなら…外食しよう。待ってて」
「はい。じゃあ、洗濯物干したり、休憩したり、掃除機かけたりして…終わったら、二階で漫画読んでますね」と言って走って、行った。
 その様子が愛おしくて、睦月がどうやって曲を使って山﨑に愛を伝えるのかは分からないが、そういう気持ちは理解できると思った。結婚式前にクララに曲を贈ったシューマンのように。何か今の気持ちを形にして残して置きたいという気持ちは誰にでもある。
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