第4話 秘められた計画を胸に

文字数 7,724文字

帰りのバスでは歌謡曲が流れていた。
「小指の思い出」「初恋の人」「ゆうべの秘密」等の歌が続けて流れていた。
運転手さんの趣味だったかもしれない。

家にも古いラジオがあったがよく聞こえなかった。
じっくりと歌謡曲を聴くのは初めてだった。
優しい感じの歌だった。フワーッとして心が惹かれる歌だった。
今まで歌謡曲を聞いたことはなかった。歌謡曲は私にとっては無駄なものだった。
女の人っていいなあと初めて感じた歌だった。
歌謡曲を聴くと村岡良子の顔を思い出した。
心だけの憧れの人よりも、涙ぐんで見送ってくれた村岡良子のほうが身近に感じた。
村岡良子がだんだん頭の中で大きくなっていく。

バスは午後6時に独身寮に着いた。すぐに食堂に行った。
そこには賄いの伊藤さんがいる。
「お願いしまあ~す」
「ああ、早川君ね。そこにあるよ」
「あの~、伊藤さんのお父さんて、保全課ですか?」
「そうだよ、なんで」
「明日から、その伊藤さんの下で仕事をやる事になったんです」
「へえ~、あそうかい、今日、父ちゃんが帰ってきたら聞いてみるよ」
「宜しくお願いします」
「ああ、いいよ、優しくするように言っておくよ」

夕食を食べ部屋に戻って寝巻きに着替えてお風呂に行った。
さあ今日から計画通りの受験勉強だ。本がいっぱい読める文学部に入りたい。
高校の国語の先生が早稲田大学の文学部の出身だった。魅力的な先生だった。
低い声で宮沢賢治の「雨にも負けず」等を朗読してくれた。
その作品の背景なども説明してくれた。うっとりと聞いていた。
背が高くて、渋い顔をしていて物腰が穏やかだった。
文学部へ入るならここしかないと決めていた。

こうして独身寮の一室で一人になってみると今までの色々な事が蘇ってくる。

自分の通う高校は太田の町から2~3km離れた田んぼの中にあった。
家から片道5~6kmを自転車で通った。
まさか昼間の高校にいけるとは思っていなかった。
姉ちゃんは中学を卒業して町工場の現場で働いている。
兄ちゃんは中学を卒業して近所の自動車修理工場に勤めた。
二人とも夜は定時制高校に行っていた。
自分も当然そうしなければならないと思っていた。
姉ちゃんも兄ちゃんもあんまり成績の事を話題にしなかった。
もともと家では勉強のことが話題に上る事はなかった。
父ちゃんも母ちゃんも小学校しか出ていない。
学校の成績というと言う事にあまり関心はなさそうだった。
誰もいない時に兄ちゃんや姉ちゃんの成績表を見た事がある。
370人中で最後に近い順番だった。どちらも勉強をする姿を見た事がなかった。

私が中学の1年の時、初めての中間テストでもらった成績表は驚く内容だった。
学年で362人中の7番、クラスで57人中の2番だった。
先生から成績表をもらった時は1桁間違いだと思った。
先生は次に待っている茂木君に「ほれ、こういう点を取れ」と言っていた。
着ている物も姿形もみすぼらしかった。とても利口そうには見えない中学生だった。
茂木君は「あいつは馬鹿か利巧わかんねえな」とみんなに言いふらしていた。
嬉しくなって家に帰って母ちゃんに褒めてもらおうと見せてみた。
「へえ~」とあんまり関心なさそうだった。
父ちゃんに見せても「だからって、本ばっかり読んでいるんじゃねえど」
「少しは母ちゃんの手伝いでもしろ」と怒られてしまった。

母ちゃんは私の成績表をいつもエプロンのポケットに入れていた。
近所の人が来ると自慢げに見せていた。親ってなんだかよくわからない。
この成績は中学校の3年間あまり変わる事はなかった。
いくら成績が良くても当然中学を卒業したらどこかへ就職と思っていた。

父ちゃんは自転車に商品を積んで小さな商店に売り歩く行商をしていた。
朝、暗いうちから出かけ8時頃帰って来て小銭を数えていた。
母ちゃんはいつも色々な内職をしていた。
家には高校にやれるだけの余裕がない事ははっきりわかっていた。
昼間の高校に行ってみたいという事を話題にはできなかった。

中学3年生の時、担任の先生が家に来て母ちゃんと話し合っていた。
その日の夜、父ちゃんと母ちゃんが私の事で言い争っていた。
先生が私の高校の進学を薦めてくれたようだった。
母ちゃんが「あたしが内職をがんばればいいんだろ~」がかすかに聞こえてきた。
しばらくして、父ちゃんから「アルバイトをすれば高校へ行っていい」と言われた。

その時、何か人生が変わりそうだなという気持ちがした。
自分だけが昼間の高校に行かせてもらった。
高校は3時ごろには終わる。姉ちゃんや兄ちゃんは夜の7時頃まで働いている。
申し訳ない気持ちだった。自分だけが楽をするのが後ろめたい気がしていた。
それで近所の鉄工所へアルバイトを探しに行った。
鉄工所は母ちゃんの内職先だった。鉄工所の社長は快くアルバイトをさせてくれた。

高校の土曜日は午前中で終わる。鉄工場へ行く前に町の本屋さんに寄った。
高校2年の頃になると将来のことが気になってきた。
漠然と大学にでも行って見たいなという夢が芽生え始めていた。
この貧乏な生活の繰り返しは、このままだと親子代々永遠に続くような気がした。
この運命の連鎖をどこかで断ち切りたいと思い始めていた。
大学へ行けばもしかしたら変わるかもしれない。
もし大学に行くとすれば、私立でもいいから有名な所へ行ってみたかった。
国立大学なんか夢の夢、自分の世界ではない。もともと眼中になかった。

季節になると本屋には大学の入試要綱や大学毎の受験対策の本も並んでいた。
入学金、授業料の一番安い所を探した。早稲田大学の文学部が一番安かった。
それでも入学金25万、授業料、前期6万、後期6万だった。
(今から40年位前、当時の25万は今の100万位になるだろう)
毎月の授業料はアルバイトをすれば何とかなる。
しかし、入学金だけは最初に準備しなければどうにもならない。
どこかに勤めて月に1万円ずつ貯めてもできない金額だ。

家にいてはできない。家では自分の思い通りには行かない。
だんだん妄想が広がり、家を出なければ自由にならないと思い始めた。
親には言えない。相談する友達もいない。自分なりに色々方法を考えた。
妄想は現実の形になって変化して行く。
・・・家出して独身寮のある会社に勤める。
・・・夜、受験勉強をしながら給料を貯める。
・・・それを入学金にすれば大学にいける。
そうだ、入学金は何年かかけて自分で貯めようと決心した。
これしかないと妄想が行動に変わっていった。

妄想が、希望に変わり
希望は、目標に変わり
目標が、決心になり
決心は、行動になり
行動は、現実に変わる
今、それが現実となって独身寮の一室にいる。

昭和42年3月27日
さっき食堂で夕食も済ませた。うまかった。腹いっぱい食べた。
賄いの伊藤さんも私にニコニコしてくれる。その度に幸せな気分になった。
温かい白米、具のいっぱい入った味噌汁。肉入りコロッケ、野菜いっぱいのサラダ。
きゅうりとナスの漬物、それも薄味だった。
今まで食べた事のないようなものばかりだった。
家の漬物はしょっぱくて、たくあん2枚もあればご飯が食べられた。
幸せが急にやってきたような気がした。
こんなうまいものを残す人がいる。残飯入れに捨てる光景が信じられなかった。

たった二日前の貧しい生活から急に天国のような世界へ来た。
運命の不思議さを感じた。
「家を出よう」とした決心が生活をガラリと変えた。
運命って自分で決められると思い始めた。

入社式が終わり職場の雰囲気も分かった。仕事の内容も分かった。
休憩室に待機していて現場から呼ばれたら伊藤さんの後についていく。
こんな遊びみたいな仕事で給料がもらえるのが不思議な気がした。
三交替の勤務体制で、1番勤務、2番勤務、3番勤務とあった。
夕方6時から始まる2番勤務には割り増し手当てが付くといっていた。
深夜2時から始まる3番勤務には深夜手当が付くと説明があった。
それが1週間交替で回ってくる。
勤務時間が何番になっても寮にいる時間はおんなじだ。
12時間が自分の時間。あとは受験勉強に専念すればいいんだ。

さあ、そろそろ午後7時を過ぎた。今日は数学から始める。
「早川いる~~~」
部屋の外から同郷の清水の声が聞こえた。まいったなあ。予想外だった。
部屋には鍵はかけていない。清水がさっさと入ってきた。
清水は手に缶コーラを2本持っている。真っ赤な色の缶だった。
「もう、夕飯食べたん」
「今食べてきたよ」
「これからどうするん」
「うん、特にないから、本でも読むかな」
二人でたたみの上に座った。
「ほら、コーラ飲めよ」
「サンキュウ~」
「社宅の前の雑貨屋があるんべ、何でも売っているよな」
「おれも、このスタンドあそこで買ったんだよ」
「何でスタンドなんか買ったん」
「本読むのに必要だんべ」
「新聞、雑誌読むのにスタンドいるん?」
「ああそうか、そういえば部屋の電気は明るいな」
「そうだよ、部屋の蛍光灯で充分だよ」
「失敗したなあ~」

そういえばかなり部屋の中は明るい。
家では廊下の隅っこに木箱を置いて、5wの電球を紐で吊るして勉強していた。
蛍光灯スタンドはその頃からの夢だった。買ったことに悔いはなかった。
実家でこんなものを買ったらすぐに父ちゃんに怒られる。
「親に断らずに勝手に物を買うんじゃねえ、返してこい」と間違いなく言われる。
家では殆ど望んだことは叶わなかった。家を出て初めて自分の意志で望みを叶えた。
自分の人生を歩み始めた気分が味わえた。

「タバコでも吸う・・」
清水はポケットから「ルナ」という白い箱のタバコを出してきた。
小さなマッチ箱も取り出した。
「清水、タバコなんか吸うんか」
「なに、早川、吸っていねんか」
「親父に一本吸わせてもらったけど、辛くてまずかったよ」
「なんていうタバコ?」
「若葉って書いてあったよ」
「ばあか、一番安いタバコじゃん、辛いに決まっているよ」
「なに、タバコにも味があるん?」
「あたりめえじゃん!吸った事がねえん?」
「興味もないよ・・」
「これ吸ってみろよ、うめえから」
「いいよ、おれは」
清水はタバコに火をつけた。
スーッと息を吸って、フーッと吐き出した。
白い煙が部屋中に廻っていった。天井を向いてうまそうに吸っている。
「どう、おまえんとこの職場にかわいい子いたん?」
「まだ、よくわかんねえよ」
「早川、おめえんとこに入った、宮原さんって可愛くねえ?」
「まだよく見てないよ」
「俺んとこのさあ、一緒に入った斉藤、口やかましくって」
「あの子か、ちょっと背の高い。結構美人だったじゃん」
「そうでもないよ、お前んとこの宮原のほうがいいよ」
早くもライバルが出現した。
「たいしたことはないと思うけどな。清水はああゆんが好きなんだ」

清水が部屋にやってくるのは計算外だった。計画に余裕がない。
ぎっしり詰まりすぎている。二人とも遠い群馬の田舎からやってきたんだ。
部屋に遊びに来るのは当たり前。清水がいれば自分も少し心強い。
勉強時間は減ってしまうが仲良くしよう。
「あのさあ、早川さ、こんどさあ、日曜日に千葉でも行ってみね~」
「うん、もうちょっとこの付近の様子見てみるよ」
「じゃあさ、いつかさ、飲みに行ってみるか?」
「飲み行くって?」
「酒だよ」
「飲んだ事ないよ」
「早川、真面目だなあ」
「清水が不良なんだよ」
「ばあか、こんなの誰でもやってるよ」
「俺はいいよ」

こんな自分に清水の会話もだんだんも途切れてくる。
「早川、お風呂でも入ってみるか」
「さっき、入ってきたよ」
「そうか、じゃあ、また来るよな」
「うん・・・」
「タバコを吸いたくなったら、部屋に来いよ」
「うん・・・」

やっぱり一人にはなりきれない。この状況を受け入れるしかない。
勉強ばかりでは生きている価値がない。
食堂のおばさんも何の縁もゆかりもない自分に微笑んでくれる。
総務の小池さんも子供のような自分を色々面倒見てくれている。
清水は同郷の自分を友達として受け入れている。

1週間後には新入社員の歓迎会がある。5月には職場の慰安旅行もあるようだ。
それも1泊2日のバス旅行だ。同じ保全係の市原という友達もできそうだ。
トロリとした目の宮原澄子とも仲良くなって見たい。
宮原澄子には異性としての女性を感じていた。

あの村岡良子には女の優しさを感じた。
太田へ帰ってきたら家に遊びに来て欲しいと言っていた。
お母さんも待っていると言っていた。
家から出たとたんに異性に興味を持つようになった。
心の中の何かが解放された気がする。

貧乏な家から抜け出した途端に別の世界があった。
それもいっぺんにまとまって幸せがやってきた。
勉強ばかりでは生きている資格がないように感じた。
自分の事だけを考えていたのが恥ずかしくなってきた。
ゴミのような自分にみんな優しく接してくれる。
人の思いやりが感じられるようになってきている。

数学の予定時間はすでに過ぎていた。国語の参考書から学習を始めた。
まだ時間はある。あせる事はない。計画は途中で見直せばいい。
遅れていたらまた計画を立て直せばいい。自分は人の思いやりの中で生きている。
自分の事だけを完璧にできるはずがない。

深夜11時、もう一度お風呂に行った。先にいた見知らぬ先輩に声をかけられた。
「今度入った新入社員かい?」
「はい。保全係に入った早川といいます」
「205号の年重(とししげ)です」
「127号です。宜しくお願いします」
「あんた、いい体をしているな、何か運動でもやっていたんかい」
「いいえ、特に」
「うらやましいな」
「そうですか・・・」

先輩もそんなに太っているわけでもない。
173cm、56kg。中肉中背の体形と言える。特に運動はしていない。
小学生の頃から20m以上離れたお風呂桶に水を入れる。
手こぎの井戸から水を汲んで100回以上も往復していた。
片道5~6kmの距離を毎日高校まで自転車で通っていた。
朝昼晩の食事はいつも腹いっぱいになることはなかった。
当然無駄な脂肪は付いていなかった。それが健康な体を作ってきたようだ。
貧乏がこの体を強靭にしてくれた。今でも病気に縁がない。
風呂から帰ったら夜の12時だった。あと1時間国語の勉強をしておこう。

父ちゃんがよく言っていた。
「うまいもんを食べているやつは、長生きできねえよ」
長生きできなくてもいいから、ご飯がいっぱい食べたかった。
その父ちゃんは93歳まで生きた。亡くなる間際まで言っていた。
「ボーナスもらったんだろう、金持ってこい」

出社2日目の朝だった。
玄関の郵便受けに手紙が届いていた。村岡良子からだった。
そのまま作業服のポケットにたたみこんでバスに乗り込んだ。
運転手さんはいつもの無表情な「おはようございます」と言う。
自分は元気に「おはようございます」と応えた
運転手さんがニヤッと笑った。自分もニコッと笑った。
運転手さんは私が席についてからも、バックミラーで時々こっちを見ている。
何かいい事をしたような気がした。
ほんの小さな挨拶でも人の気持ちが動くんだなと感じた時だった。

今日からは直接職場に直行だ。
総務の小池係長に「おはようございます」と声をかける。
「おお、お早う、作業服が似合うね」とお世辞が帰ってくる。
昨日の待合室へ行くともう何人も先に来ていた。
「おお、早川か、今日から俺と一緒だよ」
伊藤主任から声をかけられた。
「お願いします」
「母ちゃんから聞いたよ、食事を残さず舐めるように食べるんだって」
「ええ、いつも優しくしていただいています」
「あんたのお皿には、醤油のカスも残っていないって笑ってたよ」
「そうですか・・」
家では食べ終わると茶碗にお湯を注いで飲んでいた。
「よく挨拶するし、今時、珍しい若者だってよ」
「そうですか、ありがとうございます」
ここでも日頃の貧乏が役立ったようだ。人間何が幸いするか分からない。

12時のサイレンがなって市原と一緒に食堂に行った。
二人で食べているテーブルに、総務の小池係長がニコニコしながら近づいてきた。
「いよ!ご両人、調子はどうだい」
「ええ、まだ仕事らしい仕事ってないんですよ」
市原が大人びた応対をする。
「保全係はそうだよな。ところでさ」
「はいなんですか、先輩気持ち悪いですね、ニヤニヤしちゃって」
「コーラス部に入ってくれない、二人供」
「ええ、なんですか、それ」
「おれ、コーラス部のマネージャーなんだよ」
クラブ活動の勧誘だった。小池係長は履歴書を見ているから何でも知っている。
二人がブラスバンドだったのを見て誘ってきたのだ。
「僕はいいけど、早川どうする?」
「俺はいいよ、歌なんか歌ったこともないし」
「先輩!練習は何時ごろするんですか」
「昼休み、食事のあとだよ」
「場所はどこですか」
「総務の建物の屋上に集まるんだよ」
「へえ、女もいるんですよね」
「かわいいんばっかりだよ」
「興味ありますね~」
世渡りがうまいのか世間ずれしてるのか、市原は流れるような会話で応対ができる。

「早川くんも、どうだい」
「歌なんか歌った事がないですけど」どうも私はまだ根がネガティブだ。
「いいんだよ、楽しむだけで」
「う~ん、明日まで考えていいですか」
「いいよ、そういえば、宮原さんも入ったよ」

一瞬ドキッとした。私の心の中を見られたように感じた。
小池係長は入社式の時、私が宮原さんのほうに時々見ていた事を見破っていた。
「い、いつからですか・・・」
「今からでもいいよ、もうみんないると思うよ」
「早川、面白そうだから行ってみようよ」市原君が誘ってくる。
「早川君って、人気あるんだね」小池係長も畳み込んでくる。
「なんですか人気って」
「女の子から言われてきたんだよ」
「早川君を誘ってくれませんかって」
「うそでしょ、そんな」
「ほんとだよ、もうみんな屋上で待っているよ」
「宮原さんもいるんですか」口が滑ってしまった。
「そうだよ、じゃあ、行こうか」
やっぱり2浪でも東大出身は機転がきくし、勧誘もうまい。
あっというまに乗せられてコーラス部に入ってしまった。

屋上に3人で上っていった。もうすでに屋上には20人近い男女がいた。
3人が顔を出すと拍手と、キャーッという歓声が上がった。
別世界だった。貧乏を抜けて人生のステージが一つ上がったような感覚がした。
その集団の中には宮原さんの姿もあった。目は相変わらずトロンとしている。
作業服の胸ポケットには村岡良子からの手紙がある。まだ封を開けていない。
目前には宮原さんの姿がある。彼女でもない村岡良子に後ろめたい気持ちがした。

コーラス部の練習は月水金の週3日間だった。
それからは昼休みに屋上に行く事が楽しみになってきた。
女の人が周りにいるとあたりの空気の匂いまで違ってくる。
この感覚は今まで味わった事のないものだった。
練習後の会話も楽しかった。何回か先輩や、女の子達から誘われた。
「今度みんなでお茶でも飲みに行かない」快い響きだった。
今は作業服しか持っていない。寮には学生服があるがこれも役に立たない。
財布の中に8千円入っているが、これを使う勇気はまだなかった。
「都合が悪いので、また・・・」といって断るしかなかった。
心の中では女の人と話ができるなんて信じられない気持ちだった。

この工場に就職したのは目的が違う。
人には言えない秘められた計画を進めなければならない。
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