第7話 初めての給料日と不安

文字数 8,773文字

明日は初めての給料日。自分の未来がそこにある。

入社して1ヶ月が経った。4月25日に初めての給料をもらった。
5時に終業のサイレンがなった時、伊藤主任から言われた。
「給料が出ているから事務所にいってみな」
「はい、誰の所へ行けばいいんですか」
「事務所の宮原さんに聞いてみな、同期だろ」
「はい、じゃあ行ってきます」

保全課の事務所には10人くらいの人がいた。
奥の大きい机に座っている人が芋生課長だった。
“いもう” 変わった苗字だったのでよく覚えている。
その芋生課長さんに声をかけて頂いた。
「失礼します、早川です」
「おお、早川君、仕事は慣れたかい」
「はい、伊藤主任から色々教えていただいています」
「初めての給料だったな、ご苦労さん」
「ありがとうございます」
「宮原さん、早川君に給料を渡してください」
宮原さんはもう何年もいるような事務員の雰囲気だった。
小さな金庫を鍵で開けて私の給料を出してくれた。
宮原さんとはコーラス部で一緒になるが、あまり口をきいたことはなかった。
「早川孝史さんですね、はい4月分の給料です」
「はい、ありがとうございます」
「明細が中に入っています。何かわらかない時は聞いてください」
「はい、わかりました」同期入社なのにずいぶん他人行儀だった。

給料を渡すときに宮原さんはニヤッと笑った。自分もつられてニヤッと笑い返した。
すると今度はウフフッと笑う。つられて私もエヘヘッと笑った。
女の笑顔は意味が分からない。
給料は茶色い封筒に入っていた。胸のポケットにしまって事務所を出た。
早く寮に帰って中身を見たかった。
初めての給料、これからの生活と未来を支える大事な給料だった。
ワクワクしながら5時半のバスに乗った。6時には独身寮に到着する。

今日も運転手さんが声をかけてくれた。
「今日は給料日だね」
「はいそうです」
「大事に使ったほうがいいよ」
「はいありがとうございます」

部屋に直行し急いで給料袋を開いた。予想した金額とはだいぶ違っていた。
明細を見る・・・・・・。その明細には気になる項目が載っていた。
給与明細書は細い帯状の紙だった。
基本給から始まり時間外手当、割増手当、深夜手当、住宅手当、交通手当等だった。
もう一つ気になったのが「危険手当」という項目だった。
支給額合計では29,000円だった。想像した金額を大きく上回っていた。
それから税金や健康保険、社会保険などが引かれていた。
住宅手当と交通費は支給金額と同額のものが引かれていた。
その他いくつかの控除項目があった。差し引き金額で約25,000円だった。
10円以下のお金は次の月に持ち越されるようになっていた。

初めて手にした聖徳太子の壱万円札が2枚。緑っぽい聖徳太子の千円札が5枚。
あとは板垣退助の百円札が何枚か入っていた。すべてしわのない新しいお札だった。
感動でしばらく眺めていた。壱万円札をこの手にしたのは初めてだった。
壱万円札の荘厳さを感じた。

なぜこんなにという気持ちでもう一度明細書を見た。
基本給が16000円 時間外手当も少しあった。
2番勤務の割増し手当てが2000円だった。
3番勤務の深夜手当てが4000円だった。
その横に「危険手当」という項目で6000円の明細があった。
特に危険な事はしていなかった。
伊藤さんの後について現場の修理を手伝っているだけの仕事だ。
確かに高圧コンプレッサーの轟音は不気味だった。原油の焼けた匂いも強烈だった。
ドラム缶以上の太さのパイプが曲がりくねっている所での仕事は怖かった。

この作業環境そのものが危険なのだろう。
そういえば作業服も静電気防止の生地が使われていた。
この仕事は爆発事故と隣りあわせなのかもしれない。
あの焦げたような臭気も体に悪いのかもしれない。
危険な環境で作業をしているんだなと実感した。
会社ってこんな事にも配慮してお金を払っている。
気前が言い訳ではなかった。危険の代償として支給しているのだった。
何があってもおかしくない危険な作業環境なのだ。

ここには長くはいない。来年の3月まで何も起こらなければよい。
運悪く爆発事故に遭遇したらそれは仕方のない事だった。
そのために給料の高い所をあえて選んだのだ。
何かを達成するためには何かを犠牲にしなければならなかった。
実際やっている作業は単純だった。勤務時間の半分以上が休憩室。
その間に本も読める。勉強もできる。2番勤務や3番勤務では仮眠もできる
高い給料と毎日がお正月のような食事が3食。冷暖房の効いた独身寮の一人部屋。
会社に来れば何人もの女の子がいる。
1番勤務の時の昼休みのコーラス部の練習は楽しかった、
お金を払ってもいいくらい楽しいひと時だった。
年上のお姉さんもいる。同期の女の子も、キャーキャー言って騒いでいる。
初めて体験した女性のいる環境。その存在を意識してしまう自分を反省していた。

1ヶ月の収入25,000円。その内から15,000円を歴史の本の間に挟んだ。
入学金の積み立てだ。7月には多少だがボーナスが出るといっていた。
12月には基本給の2~3ヶ月分の年末手当が出るといっていた。
来年の3月には入学金の25万に届きそうだ。

家には2ヶ月に1回帰る事にする。その時に1万円を持っていくことにしよう。
この5千円は数学の本の中に挟んでおこう。
毎月5千円を送るよりこの新しい1万円札を両親に見せてやりたい。
残った5千円が自由に使える事となる。これは国語の参考書に挟んでおいた。
5千円あれば服もズボンも買えそうだ。床屋にもいける。靴も買えそうだ。
月に一回くらいなら飲みに誘われても大丈夫だろう。

3月までの貧しい生活からたった1ヶ月で生活のレベルが急に上がってしまった。
家を出る決心一つで生活環境がガラリと変わってしまった。
未来は自分が思った時から始まっていく。そして現実になる。また未来の事を思う。
望む事は叶うこと。叶えるためには思い切りと覚悟が必要だ。

決めた事は実行も必要だ。偶然は期待できない。
必然の繰り返しを積み重ねなければ望んだ未来はやってこない。
生活環境は自分で変えなければ変わらない。
この給料で気持ちに余裕ができてきた。財布の中の8千円も手をつけていなかった。

次の日曜日には清水を誘って千葉にでも出てみよう。
あの千葉のキャバレー「杯一」といっていたな。
どんな所だろう。面白そうだ。金の力というのは恐ろしい。
思ってもいなかった考えも浮かんできてしまう。お金は人間に心の余裕を作る。
昨日よりもゆったりした気分になっている。

受験勉強は順調に進んでいる。煩わしさのない孤独な部屋は勉強に適していた。
勉強する以外はやることがない。
栞代わりに使っている壱万円札がいっそう学習意欲を駆り立てた。

勉強の合間には食堂に行ってお茶を飲む。お茶を飲みながら新聞や雑誌を見る。
勉強に疲れたら風呂に入って体を休める。24時間お風呂は沸いている。
想像していた以上に快適な場所だった。寮生活はお金もかからなかった。
買うものは特になかった。何か買いたいという欲ももともと持っていない。

不安なのは自分の学習方法で合格レベルに達するかだ。
模擬試験を受けるわけでもない。比較する人もいない。
参考書についている練習問題を繰り返すだけだった。
練習問題は何回かやれば当然100点になってしまう。
同じ練習問題をさらにまた繰り返すしかなかった。
同じ所を何回もやるのは飽きてくる。飽きても繰り返すしか方法はなかった。

目標のページまでいくと千円札が出てくるようにした。
勉強が飽きないようにする工夫も必要だ。終わったページの縁に鉛筆で印をつける。
その黒い帯が伸びてくる。進度が分かり張り合いが出てくる。

学習の合間には好きな詩集を読んでリラックスをする。
詩集を読むと初恋の人を思い出す。初恋の人を思い出して学習意欲を駆り立てた。
かっこいい人間になってから一度でもいいから会ってみたい。
「早川君、かっこいい」といわれてみたい。
社会に役立つとか、偉い人間になりたいとかは別世界の事だった。
ただひたすら貧乏の連鎖から抜け出して、生活のステージを上げてみたかった。
初恋の小中可南子と同じ世界に入って行きたかった。

5月には新入社員の歓迎会をかねて1泊2日の旅行がある。
宮原さんも出席するといっていた。宮原さんは現実に身近にいる。
事務所に行けばいつでも見られる人だった。初恋の人とはまた別の魅力があった。
こういう気持ちになる自分が情けなくなってくる。

賄いのおばさんの胸のふくらみにドキドキすることもある。
こんな自分を、中途半端に色気が付いたいやらしい人間だなあと思う。
島崎藤村や室生犀星はこういう男の煩悩をどうしていたのだろう。
藤村の詩集を読みながらつまんない事を考えていた。

今日は清水の部屋に遊びに行ってみよう。もうお風呂から上がっているだろう。
食堂に行って自動販売機からコーラとファンタオレンジを買った。
寮に来て一ヶ月。自動販売機にお金を入れたのは初めてだった。

清水の部屋は205号室
「清水いる~」
ドアを開けた。
清水はタバコを吸いながら、ステレオを聞いていた。
「おお、入れよ」
「なに、それ、すげえな」
「こないだ、買ったんだよ、ビクターのステレオ」
「へえ~、高かっただろ」
「うん、月賦だよ」
「ゲップって何?」
「最初少し払って、後は毎月給料もらったら払うんだって」
「じゃあ、借りているっていうこと?」
「違うよ、買ったんだよ、自分のもんだよ」
「だって、お金払ってないんだろ」
「だ、か、ら、後から少しずつ払うんだよ」

月賦っていう制度ができ始めた頃だと思う。すごい事を考えた人間がいる。
普通はお金を貯めてから買う。それをわずかな頭金で売ってしまう。
そうすれば欲しい時に、欲しいものが手に入る。世の中には頭のいい人がいるもんだ。
人のアイデアっていうのはすごいんだなと衝撃に近いものを感じた。

ステレオでは、ブルーシャトウの歌が終わりかけていた。
「これ、いくらだったん?」
「28000円かな」
「ええ!給料よりも高いんだ」
「でも、毎月2000円だよ」
「そう考えると安いなあ」
「そうさ、けっこう給料入ったからな」
「いくらだった?」
「うん、手取り1万9千円だったかな」
「早川いくらだった?」
「2万円超えていたよ」
「うっそだい、なんで」
「なんかさ、危険手当っていうんが付いていたんだよ」
「あれ、俺だって付いてたよ。早川いくら?」
「6000円だよ」
「おれ、2000円」
「じゃあ、職場によって違うんだな」
「ま、いっか」
やはり保全係の仕事は危険と隣りあわせだった。

清水がレコード盤の針を持ち上げた。もう一度同じ歌をかけるようだ。
慎重にレコードの上に針を載せている。
「もりと~いずみに~かあこ~まれて~・・・・」
こころよい響きの歌が部屋中に回っていく。
少し畳が振動しているような気もした。
大きなスピーカーが左右に付いていた。
「すげえな、いい音だなあ」
「そうだろお~、買ってよかったよ」
「だけどよく思い切ったなあ」
「こないださ、千葉の“杯一”ってキャバレーへ行ったろ」
「そこへ来てたんだよ、ブルーコメッツっていうグループが」
「ええ、キャバレーにか」
「そうだよ、ショーをやってたんだよ」
「うっそう・・・」
「ばあか、ほんとだよ、ブルウシャトウっていう歌だよ」
「いい歌だな・・」
「感動しちゃったよ、初めて生で聞いたよ。すごい迫力だったよ」
「へえ~、おれも一度でいいから生で聞いてみたいな」
「そうか、早川と一度いってみるか」
「有名な人はめったに来ないけど、何かショーをやってるよ」
「けっこうお金かかるんだろう」
「こないだは、先輩が3千円払ってたよ」
「高いなあ~」

話が具体的になってきた。今の私なら払える。う~ん実現しそうだ。
思いは叶う。さらに目的を具体化させる。
「行ってみてえなあ~、どんなとこか」
「へえ~、真面目な早川でも興味があるんだ」
「そうじゃないけどさ、社会見学だよ」
「もしかしたら、女のおっぱいを覗きたいんだろう」
「ちがうよ、どんな所か見たいだけだよ」
「いいよ、今週の土曜日にでも行ってみるか」
話が具体的になってきた。お金が心を変え始めている。
「いくらくらい持っていけばいい」
「二人で3千円くらいかなあ、なんとかなるよ、割り勘でやれば」
「うん、連れてってくれる」
「うん、いいけど、早川は作業服しかもってねんだろ~」
「黒い学生ズボンと、ベージュのセーターがあるよ」
「それじゃいやだよ、恥ずかしくって一緒に行けねえよ」
「どうすればいい?」
「明日にでもさ、ズボンと上着と靴でも買っておけよ」
「うん、どこで買ったらいい」
「ここから20分くらい行った所に洋品屋があるよ」
「うん、いつかはな、買わなけりゃと思っていたんだ」
「あと、その頭伸びているぞ、床屋へ行ってこいよ」
「うん、床屋っていくら位かかるん」
「あれ、行った事がねん?」
「うん、家では母ちゃんがバリカンで刈っていたんだよ」
「へえ~、珍しいなあ、おめえんちは」
「千円で足りる?」
「そんなかかんねよ、300円だったかな」
「じゃあ、明日にでも行ってくるよ」

頭がぼうぼうと伸びていた。工場ではヘルメットをかぶるから気にしていなかった。
社宅の前には雑貨屋とクリーニング屋さん、その隣に床屋もあった。

ステレオではブルーシャトウが終わった。清水がレコードを変えている。
その姿を見ていながらある事を思いついた。
「清水さあ、ちょっと聞いていい?」
「なんだよ、何でも聞けよ」
「そのステレオさあ、カセットテープって聴ける?」
「聞けるんじゃねん!まだやった事ないけど」
「じゃあさ、部屋から持ってくるから、聴いていい」
「なにを持ってるん?」
「うん、ちょっと人から貰ったんがもんあるんだよ」
「じゃあ、持ってきてみろよ、説明書を読んでるから」

急いで部屋に行った。チャンスはこんな所にあった。
村岡良子から貰ったカセットテープが聴けるかもしれない。
なんだかドキドキしてきた。村岡良子は中学3年の時、清水と同じクラスだった。
清水に聞かれたくないなあ。背に腹は変えられない。どうしても聴いてみたい。
これで村岡良子が泣いていた原因が分かるかもしれない。
部屋に戻ってテープを持って清水の部屋に戻った。
「なんか、聴けそうだよ、この説明書を見ると」
「高いんだから壊すなよな」
「うん。説明書の通りやってみるよ」
説明書を見ながらテープを指定の位置に入れてみた。

テープが回らない。説明書を読むがわからない。
説明書ってわざとわからないように書いてある気がする。専門用語ばっかりだった。
「できねえな~、清水がやってみてくれる」
「ちょっと説明書を見せて」
「なんか規格が違うんじゃねん」
「これ押していいか清水?」
「へんなとこ押すなよな、高いんだから」
「わからないなあ、ここ押すって書いてあるけど」
「早川、このテープに何が入ってるん?」
「うん、ちょっと大事な録音なんだよ」
「回らないんだから、しょうがねえよ」
「清水、あと一回やってみていい?」
「う~ん、いいけど、壊すなよな」
「しかし、わかんねえな、機械物って」
「いいじゃんもう、たいしたもんじゃねんだろう」
「じゃあ、このボタンあと一回だけ」
「いいけどさあ、なあ、何が入ってるん?」
「コードの配線は大丈夫かなあ?」
「おれはレコードさえ聞ければいいんだから」
「しょうがないか、あきらめるよ」

他人のステレオなのでこれ以上試す事はできなかった。
テープはとうとう聴く事ができなかった。見えない力が村岡良子との糸を結ばない。
「じゃあ、土曜日にいったん寮へ帰ってきてからさ、食堂に7時でどお?」
「うん、いいよ、社宅前からバスで行くか」
「そうだな、それから八幡宿の駅から千葉まで国鉄だな」
「ちょっと千葉の町でぶらぶらして、9時ごろ行ってみるか」
「ほんとに大丈夫」
「なにが?」
「お金だよ」
「大丈夫だよ、おれがちょっと多めに持っていくよ」
「それとさ、田舎ものは馬鹿にされないかな」
「わかりゃしねえよ、群馬なんて言わなけりゃ」
「女の人が近くにくるん?」
「あったりめえじゃん、だから高いんだよ」
「となりに座るんか?」
「そうだよ」
「何を話したら、いんかな」
「そんなの、なんでもいいよ」
「話題がないよ」
「じゃあやめるか?そんなに心配なら」
「う~ん、行ってみたいな」
「じゃあ予定通りな」

清水だってきっと心配なんだ。清水の群馬弁は私よりひどい。
いいか、何とかなるか。いったん興味が湧くとやってみなけりゃ気持ちが悪い。
清水(しみず)と一緒に二人で行けば何とかなる。
清水(きよみず)の舞台から飛び降りたつもりで行ってみよう。
今日も楽しかった。人と話すとなんか気分がすきっとする。
息抜きって一人じゃできない。

<初めてのおしゃれ>

自分の部屋に帰ってしばらく考えた。国語の学習から始めたがなんか気になる。
見知らぬ女の人と2時間も話題があるだろうか。
話題になりそうな事をいくつか書き出してみた。
生まれはあんまり話したくない。会社の事は話さないほうがいい。
好きな小説や詩集の事はどうだろう。何を聞かれるんだろう。
趣味って一つもない。特技は特にない。運動は何もやっていない。
家族の事はあまり話したくない。ガールフレンドはいない。
何一つ会話になりそうな話題が見つからない。特徴のない人間だった。
嘘は言いたくない。
面接じゃないんだよ。もっと気楽でいいんだよ。

怖い人はいないだろうな。小林旭の映画なんかで見た事あるが
ああいう所ではよく男同士の喧嘩が起こる。
清水がいるから何とかなるか。いや、あいつは人が良いが頼りにならない。
やっぱり自分がしっかりしなければならない。

国語の学習が進まない。栞にしている千円札まであと3ページ。
受験勉強もおろそかにできない。

次の日 工場から帰って作業服のまま床屋にいった。
「どうしますか」
「ええと・・・」
「左から分けますか」
「・・・?はい、そうしてください」
「もみあげ、どうしますか」
「・・・・?」
「バリカンにしますか?鋏みにしますか?」
「すみません、初めてなんで適当にして下さい」

床屋のルールがよくわからない。何か価格が違うのだろうか。
「最近来たんですか」
「はいそうです」
「生まれはどちらですか」
「群馬の太田という所です」
「あの、中島飛行機のあるところですか」
「ええ、そうです」
「仕事のほうはどうですか」
「・・・・ええまあまあです」色々探ってくる。
あまり聞かれるのが嫌だったので、ちょっと離れた隙に目を瞑って寝たふりをした。
目を瞑り乍ら考えた。この床屋のおじさんみたいに気軽に話せば会話になりそうだ。
頭がさっぱりした。気持ちがよかった。
「たばこは、吸いますか」
「はい、ちょっとだけ」
青い箱のハイライトを出し一本渡された。福助の絵柄のマッチで火をつけてくれた。
なんだか大人になったような錯覚をした。
床屋のおじさんは帰り際に「ありがとうございました」といってニヤッと笑った。
田舎者が丸出しだったに違いない。

次の日は工場のバスを途中で降りた。バスは所々で人を降ろしていく。
「今日は珍しいね、買い物かい?」
「ええ、そうです」
運転手さんが声をかけてくれた。八幡宿という町だった。薬屋さん、本屋さん。
魚屋さんなど色々並んでいた。その中に洋品店もあった。靴屋さんもあった。
店頭には靴や下駄が並べてあった。特価って貼ってある靴を手に取った。
サイズも合ったので230円で買った。
茶色っぽい合成皮革の靴だった。皮ではないが体裁はよかった。

洋品店は入りづらかった。ガラスの窓の中にはいっぱい並んでいるのが見える
入っていく勇気が出ない。お金は持ってきた。
洋品店の前を行ったりきたり。中にお客は誰もいない。
もう一度あっちこっちを探してみた。他にはなさそうだった。

またさっきの洋品店の前に来た。2~3人お客がはいっていた。
チャンスと思い勇気を出して入って行った。いったん店に入ると少し落ち着いた。
安くて体裁のいい物を探した。茶色い市松模様のズボンを手にした。
「お決まりですか」
知らないうちにお店のおねえさんが後ろにいた。
「は、はいお願いします」
「サイズを測りましょうか?」
「ええ、お願いします」
試着室でそのズボンにはき替えた。おねえさんが股下の長さを測ってくれた。
足が臭くないかどうか心配だった。屈んでズボンの長さを調整してくれた。
「足臭くないですか」
「大丈夫ですよ、慣れていますから」
やっぱり臭いんだ。靴下は2足しか持っていなかった。

「お急ぎでしたら、明日までに直しておきます」
「はい、お願いします」
「他に何か?」
「あと上に着るものを何か」
「じゃあこのズボンに合わせましょう」
「お願いします」
「ほかには、なにか」
「靴下はありますか」
「はい、奥のほうにあります、どうぞ」

靴下のコーナーに案内してくれた。お姉さんはけっこうかわいい顔をしていた。
優しく応対してくれた。この頃女の人がよく見える。人間が堕落してしまった。
洋品屋さんに入ったのは初めてだった。草色のカーデーガンも買った。
お店のおねえさんが選んでくれたものだった。ズボンに合ったベルトも勧められた。
断れなかった。今の黒い皮ベルトはもう3年以上も使っていた。
くたびれて、しわがあり、ささくれ立っていた。
一つ買うとそれに併せて次から次へと必要になってくる。
お金ってこうやって少なくなっていく。全部で2千円近くかかった。
チーンという音とともに2千円がレジの中に吸い込まれていった。

たった一ヶ月前までは財布には2~3百円しか入ってなかった。
新しい靴も新しい靴下も、新しいシャツも親の情けを待つしかなかった。
今こうして靴やズボンの装いも揃ってきた。
この薄汚れた財布の中にまだ何枚もの新しい千円札が入っている。

お金は気持ちにゆとりができる。豊かさとはお金だろうか。

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