第1話 青春、家を出て千葉へ

文字数 5,378文字


昭和42年3月26日 家出の朝
確か日曜日だったと思う。次の日が入社式だった。
千葉にある工場に向かう日だ。朝9時ごろだった。
「誰か女の子が外に来ているぞ」と母ちゃんに言われた。
「女の子なんか知らないよ」
「早く出てみろよ、じっと待っているぞ」
外には中学時代の同級生がいた。
汚い家の前にポツンとしていた。長い髪の子だった。手には薄い箱を持っていた。
びっくりした。あまり家が汚いので誰にも教えたことがなかった。


村岡良子と言う同級生だ。特に好きといった子ではなかった。
町の図書館で時々顔を合わせて会釈する程度だった。
高校時代の同級生に加藤という友人がいる。その加藤の友達だった。
時々加藤とその子の家に遊びに行った。小さな家だが豊かそうな家族だった。

その子が家の前にポツンと立っていた。寂しそうな顔をしていた。
目が赤くなっている。村岡良子は同級生の間では評判だった。
頭がよく静かだが可愛い顔をしていた。口をしっかり結び目はくるりとしていた。
鼻の右側に小さな黒いホクロがあった。
言う事はしっかりしていて、大人びた子だなあと思っていた。
いつも寂しそうな雰囲気を持った子だった。
「なに、どうしたん」
「これ、・・」
「なにこれ、・・」
「ワイシャツが入っている」
「俺に・・」
「そう、お母さんと選んだんです」
「いいのか・・」
プレゼントなんていうのは生まれて始めてだった。
実感が湧かない。村岡良子の気持ちが分からない。
「何で俺に・・」
「加藤君から聞いたの・・」
「俺の事を・・」
「今日千葉に出かけて行くって・・」
「何時に出るかは言っていなかったよ」
「だから、朝6時からあの橋の所で待っていたの・・」
「まいったなあ、もう3時間も経っているよ」
「思い切って玄関で声をかけようと思ったんだけど、できなかった」
「それで行ったり、来たりしていたんだ」
「手紙を下さい・・」
「ええ?」
「これ、私の住所です」
「わかった」
悪い感じはしなかった。一人ではないという気持ちが湧いてきた。
「手紙書くよ」
「うん・・・」
「時々帰ってくるつもりなんだ」
「お母さんも待っているって・・」
「あ、そうなんだ」

それから封筒に入ったカセットテープを1本渡された。
顔を赤らめて恥ずかしそうに渡してくれた。
「向こうにいったら聞いて下さい」
「なにこれ」
「私の声が入っているの、聞けば分かる・・・」
「あ、そう」
そのテープを学生服の内ポケットにしまった。

でも、そのテープを再生する道具がない。いまだにそのテープは聞いていない。
いつの間にかそのテープはどこかに無くなってしまった。
今でもその内容が何だったのか気になっている。
それを聞いていたなら、今頃運命が変わっていたかもしれない。

今年のお正月の時、友人の加藤に連れられ村岡良子の家に遊びに行った。
さっぱりした気さくなお母さんが歓待してくれた。
めったに食べた事のないお菓子や飲み物を頂いた。
コーラというアメリカからの飲み物も初めて飲んだ。
薬臭くてへんな味だったが甘さに勝てなかった。

それからは月に一度くらい遊びに行くようになった。
村岡良子は加藤と私が話す事を嬉しそうに聞いているだけだった。
「それからどうなったの」が口癖だった。
その村岡良子はひと仕事が終えたような顔で帰っていった・・・・。

明日から勤める会社は千葉県の海沿いの工業地帯の中にあった。
千葉県の八幡宿という所にその会社の寮があった。
明日からはそこに寝泊りする事となる。
会社から送られてきた案内書にその寮の地図が入っていた。
バスで熊谷駅まで1時間。熊谷駅から上野まで1時間。
上野から秋葉原を経由して千葉まで1時間。
千葉駅から房総西線に八幡宿まで30分。八幡宿から社宅前まで20~30分。
遠い所まで来てしまった。もう帰れない異国に来たような気分になってきた。

決心はいよいよ固くなってきた。不思議に不安はなかった。
家から出られた開放感もなかった。来年は大学に入るという気持ちだけが強かった。
仕事なんかなんでもいいんだ。どんな辛い仕事でも入学金さえ貯まればいい。

着いた所には2階建ての社宅が20棟以上あった。
周り一帯は林になっていた。広い林を造成してあった。
ゆったりとした静かな環境だった。
その社宅の入り口には日用雑貨を売っているお店があった。
遠い所に来た。もう後には引けない。

独身寮は3階建てだった。入り口には100人くらいの下駄箱が並んでいる。
入るとすぐ左側は大きな食堂なっている。賄いのおばさんが2~3人働いていた。
時刻は午後の4時ごろだった。今日の夕食が気になっていた。
近くに食堂らしきものはない。いつも私は腹が減っている。
「おばさん。今日、僕の夕食あるんですか」
「おばさんじゃないよ。あんた名前なんてえの」
「今日からお世話になる、早川って言います」
「ああ聞いているよ、そこに名札が付いているだろう」
「じゃあ、これ食べていいんですか」
「あんた、かわいい顔をしているね、おばさんじゃないからね」
おばさんに可愛いなんて言われたのは初めてだった。
悪い気はしないけど気持ちが悪い。
「すいません。何ていえばいいんですか」
「いいよ別に、お茶は自分でそこの薬缶からついで飲むんだよ」
「はい、湯飲み茶碗はこれでいいんですか」
「どれでも好きなのを使っていいよ、湯飲み茶碗は自分で持ってきてもいいよ」

黄色いブリキのお膳には早川孝史というプラスチックの名札が載っていた。
煮魚とキャベツの入ったサラダ、ひじきとごぼうがお膳に載っていた。
ご飯は白米で大きな電気炊飯ジャーに入っていた。
自分で丼ぶりに盛って食べる方式だ。味噌汁もほうれん草と油揚げが入っていた。
これも大きな鍋から自分で適当に盛っていいようになっていた。

信じられなかった。今まで腹いっぱいご飯なんて食べた事がなかった。
それも真っ白な白米だった。家では1年に一回あるかないかの食事がここにあった。
これが毎日か。おばさんにお世辞の一つでも言わなけりゃ罰が当たる。
「すいません。お替りしていいんですか」
「いいよ、好きなだけ食べて」
「おばさん。あ、すいません、なんて呼んだらいいんですか」
「これ見りゃわかるだろ」
白いエプロンの胸に伊藤という名札が付いていた。
「伊藤さん、宜しくお願いします」
「あんた真面目そうだね、困ったら何でもいいな」
「ありがとうございます」
「うちのとうちゃん、保全課の伊藤っていうんだよ」
「そうですか、宜しくお願いします」
「食べ終わったら、ここの台の上に置いておくんだよ」
「はい、わかりました」

食堂にはひっきりなしに作業服を着た工員が出入りしていた。
食堂のおばさんは丸顔で人懐っこい顔をしていた。
悪い人ではないみたいだ。なかなかお世辞が言えなかった。
食べる物でこんなに幸せな気持ちになれる。
食事を作っている賄いのおばさんが尊敬できた。

私の部屋は1階の127号室だった。
机と椅子が窓際にポツンと1台置いてあった。
窓の外は林になっていた。部屋には家から送っておいた布団が届いていた。

雑貨屋で蛍光灯スタンドを買ってきた。
家では廊下の片隅にミカン箱を置き机代わりにしていた。
5ワットの蛍光灯を上から紐で吊るし勉強していた。
中学までは目はよかった。この裸電球にしてからだんだんと視力が落ちてきた。
蛍光灯スタンドは夢だった。ここに着いたらすぐに買おうと思っていた。
社宅の前にある雑貨屋で生まれて始めて大きな買い物をした。
1200円だった。財布には8000円ほど入っていた。
高校のときにアルバイトをして貯めた大事なお金だった。
店のおばさんにお金を渡す時少しためらいがあった。
だまされてお金を取られてしまったような錯覚をした。


これで今日から勉強ができる。
蛍光灯スタンドは真昼のように机を照らしてくれた。
高校のときの教科書と何冊かの参考書を机の上に並べた。
村岡良子から渡されたカセットテープも机の上に置いた。
再生する道具がないのでそのままにしておいた。

トイレや洗面所がどこにあるのか建物の中を歩き回った。
屋上に上がるとそこは広い洗濯物干し場になっていた。
そこから見える景色は東西南北すべてが林だった。
あっちこっちで林を造成している。
高度成長時代で、その林にも建設中の建物がいくつもあった。


工場は3交替制になっているので寮のお風呂は常に沸かしてあった。
20人以上は入れる大きなお風呂だった。
食事も好きな時間に食べられるようになっている。
食堂ではいつもお茶が飲めるようになっていた。
テレビもあり新聞もあった。食堂脇の小さな図書室には一通りの本が並んでいた。
読み終わった単行本や雑誌も置いてあった。
これがみんなただで読めると思うと嬉しくなってきた。
天国のような所だった。

明日は工場の入社式。
工場の送迎バスが8時ごろ迎えに来る。

しばらくしてまた三階建ての独身寮を歩き回った。
外に回って全体も眺めた。自分が1年お世話になる建物だ。
大きな3階建てだった。自分が小さい人間に見えた。
建物の中に戻り各階を見て回る。
2階3階は廊下を挟んで右左に15部屋あった。
301・302・303・・・・と並んでいる。
食堂にはあれだけ人がいたのに廊下には誰もいなかった。
3交替の勤めで寝ている人が多いのだろう。

30分くらいで部屋に戻った。
六畳一間に押入れが付いている。自分一人の部屋は初めてだった。
電気代も気にしなくてよさそうだ。雨漏りしないのは最高に嬉しかった。



田舎の自宅は雨の度に雨漏りがした。
部屋の中はバケツやタライ、洗面器がいっぱいに並んでいた。
雨の日は本当にいやだった。

布団の荷物の紐をとき押し入れに入れた。
手提げ鞄に詰めてきた本を整理した。
受験科目は「国語」「数学」「日本史」の3科目に絞っておいた。
高校の教科書と何冊かの参考書で10冊にも満たなかった。
あとは、古本屋で1冊10円で買ってきた単行本だった。
室生犀星、若山牧水、石川啄木 、島崎藤村 、高村光太郎
中原中也、萩原朔太郎 、宮沢賢治 など10冊くらいだった。

勉強後に詩や短歌を読んで気持ちを休める。
小説も好きだが長い文章は疲れて休憩にならない。
詩や短歌はスッキリしていて気持ちが休まる。
特に室生犀星は好きだった。頭に情景が思い浮かんで気持ちが癒された。
次の科目に入る前の休憩時間に利用する。

大学ノートを取出し学習計画を立て始める。
朝は7時に起床する。寮の前に8時ごろ送迎バスが着く。
工場が5時に終わる。工場の庭から午後5時半にバスが出る。
独身寮の前には午後6時に到着する。夕飯食べてお風呂に入って7時頃になる。

そうすると、夕方7時から翌朝8時までの12時間が自由に使える計算となる。
睡眠時間は6時間に決めた。学習時間を6時間に決め計画を立てた。
各科目を2時間で合計6時間。夜中の1時には就寝できる。
日曜日はその倍の12時間学習に当てた。遅れた所を日曜日に挽回する。
誰も気にする人がいない、何にもわずらわしい雑事がない。
計画通りに学習が進むと。1科目に月60時間。10ヶ月で600時間。
これだけあれば1日2~3行くらい暗記したって何とかなる。
1冊を10回繰り返す事にした。

学習方法も方針を決めた。
大事な所には鉛筆で丸く囲む。まるで囲んだ所は暗記する。
暗記したらその丸を消しゴムで消して下線に変える。
その重要度によって一重線、二重線、三重線で区別する。
一目で重要な所がわかるようにした。
そのページが暗記できたらそのページのフチを鉛筆で黒く塗る。
上のほうから1ページごとに塗っていく。
本の縁は黒い部分がだんだん増えていくのでどこまで進んだかがわかる。
10回繰り返した頃には本の縁に10本の帯ができる。
計画は計画通りに進んでいく事に面白さがあり張り合いが出る。
それが目に見えるようにしておくと安心できる。

不安はあせりを生む。あせりは頭を空回りさせる。それを避けるための方法だった。
分からない部分があっても誰も聞く人はいない。自分で解決するしかない。
そのためには同じ所を何回もやるしかなかった。

工場に行くのに着ていくものは学生服しかなかった。
恥ずかしいとは思わなかった。好きな人がいるわけでもない。気にする人もいない。
いつもポケットには単行本を一冊入れておいた。
行き返りのバスの中では詩や短歌の好きな部分を暗記した。

室生犀星が好きだった。
・・・・ふるさとは遠きにありて思ふもの
・・・・そして悲しくうたふもの
・・・・よしや
・・・・うらぶれて異土の乞食となるとても
・・・・帰るところにあるまじや
・・・・ひとり都のゆふぐれに
・・・・ふるさとおもひ泪ぐむ
・・・・そのこころもて
・・・・遠きみやこにかへらばや
・・・・遠きみやこにかへらばや

意味はよくわからないが言葉の響きが快い。
孤独な環境の自分をしみじみと感じることができた。
これを読むとなぜか村岡良子を思い出す。

大学ノートに学習計画を書き終えた。
それで12時を過ぎた。その日はそれで就寝した。
どこにでも寝られる性格なのでぐっすり眠れた。

朝7時になると部屋にある小さなスピーカーから目覚ましのベルが鳴る。
管理人が部屋ごとにベルを鳴らしてくれる。
管理人室には3交代の出勤時間が一覧表になっている。
工場からの送迎バスが来るとベルが鳴る。時間を気にする煩わしさはなかった。

環境は人を変えて行く。
自らが環境を選ばなければ変わらない。

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