第8話 千葉市栄町の繁華街へ

文字数 10,861文字

物はお金で買える。物が揃うと幸せな気分になってくる。
幸せはお金なのか。幸せと辛さは同居している。
辛さの中にも幸せがあり幸せの中にも辛さがある。
幸せという字は辛いという字に似ている。辛いという字に一本入ると“幸せ”になる。
その一本の棒はお金なのか。そんな筈はない。幸せとは何なのか?

賄いのおばさんのあの微笑みでも幸せな気分になる。
運転手さんに声をかけてもらうだけでも幸せになる。
清水とのたわいない会話でも幸せになる。
事務の宮原さんに「おはよう」といわれても幸せな気分になった。

寮に帰り畳の上に買ってきた靴下、靴、シャツ、カーデーガンを並べた。
これを身に付けて町の中を歩く自分の姿を想像した。
自分はもう貧乏人ではないんだと思えた。人は姿格好でその人の判断をする。
それはそれでやむを得ないことだ。

父ちゃんはいつも言っていた。
「男が恰好なんて気にするんじゃねえ。きれいに洗ってあればそれでいい」
それはそれで正しい気がする。
子供に体裁のいいものを買ってあげるお金のなかった事も事実だ。
兄ちゃんの着ているものは次の年には自分に回ってくる。
サイズもそれできちんとあっていた。
きれいに洗っても擦り切れていたり、色があせたりして格好が悪かった。
それでも親に新しいものを買ってくれとは言えなかった。
いつかは自分稼いで新しいものを買ってやると思っていた。

ささやかだがその望みが叶い始めている。こんなことでも幸せな気分になれた。
勉強も予定通り進んでいる。国語の参考書の黒い鉛筆の帯は2本目に入っている。
毎日の勉強も辛さを感じない。勉強をできるということが幸せだった。
幸せと辛さは同居している。「幸・辛」この一本の横棒は自分の意思かもしれない。

就寝予定の午前一時。覚えた詩をつぶやきながら眠りに就く。
・・・・・山のあなたの空遠く
・・・・・幸はひ住むと人のいふ。
・・・・・ああ、われひとと尋ゆきて、
・・・・・涙さしぐみ、かへりきぬ。
・・・・・山のあなたになほ遠く
・・・・・幸はひ住むと人のいふ。
・・・・・・・・・・・・カアル・ブッセ 『海潮音』より

4月末の土曜日

工場に行くのがなんだか気恥ずかしかった。
いつものぼうぼう頭から髪型は七三に分けていた。
床屋さんが適当にやったものだった。今日はいろいろな人から声をかけられた。
総務の小池係長から「いいね、今日はさっぱりしているね」
同期の市原は「どうしたん、色気づいちゃって」
伊藤係長は「おお、やっと床屋へ行ってきたか」
宮原さんは、「ウフフ・・・」って笑っていた。女の笑いはなんだかわからない。

工場は予定通り5時に終った。
運転手さんは「昨日は床屋だったんだ。それ似合うね」
声をかけてくれた。幸せな気分になった。
途中でズボンも取ってきた。姿かたちを整えることも幸せを感じる。

夕食を食べてお風呂に入って食堂で清水を待っていた。
賄いのおばちゃんが私を見て大きな声で冷やかした。
「あんたなかなかいいね、女が放っておかないよ、アハハハハ」
「昨日床屋へ行ったんです」
「いいカッコまでして、どっかいくの」
「友達と千葉まで行ってきます」
「悪い遊びを覚えちゃだめだよ」
「ええ、ちょっとどんな所か見てこようと思って」
「栄町だけは気をつけたほうがいいよ」
「なにかそこにあるんですか」
「悪い女が多いから、だまされないようにね」
「ああそうですか」
「帰りの電車の時間も見ておいたほうがいいよ」
「はい、11時なら千葉駅の下りはありますよね」
「そのくらいなら大丈夫だよ」
「あんた、だまされやすいタイプに見えるから気をつけたほうがいいよ」
「そうみえますか・・・」
おばちゃんは田舎者丸出しで子供っぽい私を心配してくれている。

7時少し前に食堂に清水がやってきた。
ベージュのスラックスに青のストライプのシャツ。
上にはブルーのジャケット、首にはアスコットタイを巻いていた。
清水はあんまり男前とはいえない。カッコはいいが顔に似合わない。
チンピラかお金持ちのぐうたら息子のようだ。だいぶお金をかけたに違いない。
「おお、じゃあそろそろ出かけるか」
「うん、いくか」
「早川、いくらもってきたん」
「財布の中に、6千円入っているよ」
「それだけありゃ、大丈夫だよ」
「清水はいくら持っているん」
「給料全部持ってきたよ」
「そんなにもって来てどうするん」
「何があるかわかんないからさ」
「何がって・・・・」
「行って見なけりゃわかんないよ」
「じゃあ、なにかあったら頼むな」
「何とかなるよ」

社宅前からバスに乗った。8時前に千葉駅に着いた。
寮から30分くらいだった。八幡宿から房総西線で四つめの駅だった。
浜野、蘇我、本千葉を過ぎて千葉駅に着いた。千葉駅前は見渡す限りの建物だった。
もうすぐ夜の8時だというのに町には人や車がいっぱいだ。
商店や飲み屋、食堂、会社の建物はまだ殆ど電気がついている。
数えなければ階数のわからないような高い建物が並んでいた。

ネオンがきらきら動いている。電気がパカパカ踊っている。
町中が食べ物の匂い、タバコの匂い。ゴミの臭いがする。
車から吐き出すガソリンの匂いも漂っていた。
足がすくんだ。世界が違うような気がした。
建物のジャングルのようだった。道路はアスファルトで出来ている。

田舎ではこの時刻は真っ暗だった。この時間に外に行くのは不良といわれた。
田舎では見渡す限り田んぼと畑だった。牛や馬がリヤカーをひいていた。
車はめったに通らなかった。道は砂利道が多かった。
ここは千葉の大都会。落差がありすぎる。
目の前の電信柱には「栄町」と書いてあった。
気持ちを落ちつかせたいのか、清水はタバコを吸い始めた。
行きかう人が振り向いていく。高校生がタバコを吸っているように見えるのだろう。
「清水、タバコをやめろよ」
「なあんで~」
「みんな見ているよ」
「そう思えるだけだよ」
「なあ、清水、帰ろうか」
「なあ~に、いってるん」
「ちょっと、世界が違うよ」
「ふざけんなよ、大丈夫だよ」
「ラーメンでも食べて帰ろうよ、俺がおごるからさ」
「ばあか、大丈夫だっちゅうの」
「大丈夫かなあ、ほんとに」
「杯一に行く前に、焼鳥屋で一杯引っ掛けるか」
「どっか知っている所があるん?」
「うん、前に先輩に連れて行ってもらった所に行くんべ」
「そこで、もう一回考えようよ」
「だめだよ、もうここまで来たんべな」
「どうしてもいくんか」
「ここまで来たんだよ、俺一人だって行くよ」

清水は「杯一」のある栄町の方向へ向かって歩き始めた。
賄いのおばちゃんが「気を付けろ」って言っていた所だ。
こんな所で迷子になったら大変だ。何が起こるかわからない。
清水の後をぴったりくっついて歩いていった。
左右に飲み屋が並んでいた。町中がザワザワしている。
大声で騒いでいる人もいた。男女の二人連れも多かった。

清水は栄町に向かって歩き出した。
赤いちょうちんに「焼鳥」と書いてある小さな飲み屋があった。
清水が店の様子を見て「ここだ」といいながら入っていった。
店の中は煙と焼き鳥の匂いと酒の匂いがいっぱいだった。
声が聞こえないほどうるさかった。
それぞれの席でみんな真剣な顔で議論をしている。
二人が座れるのはカウンターしかなかった。
右と左の人がちょっと椅子をずらしてくれた。
焼鳥屋に入るのも初めてだった。

ねぎま、手羽先、つくね、ひな皮 、はつ、かしら
白もつ、レバー、ハツ、砂肝、なんこつ、シロ
知らない名前は鳥の内臓のようだ。
焼く前の鳥肉の断片がトレーに入っている。
レバーなどは血の塊に見えた。もう見ただけで食欲がなくなった。
田舎では鳥の肉以外はみんな捨てるもんだった。
近所の農家で鳥を丸ごと捌くのを見た事がある。
羽根をむいて中の内臓は取り出して、穴を掘って埋めていた。
こんな腸や内臓を食べたらキチガイ扱いされそうだ。
「清水どうする」
「うん、ねぎ間と手羽先と、つくねにするか」
「そうだよ、あとは食べられないよ」
「早川は飲みもんどうする」
「清水はどうする」
「俺はビールだよ」
「ビールは苦くねえ?」
「それがうめいんだよ」
「おれ、オレンジジュースにするよ」
「ばあか、こんなとこで男がそんなもん頼んだら笑われるよ」
「じゃあビール飲んでみるよ」

清水が色々頼んでくれた。店のおじさんが「ヘーイ」といって笑っていた。
話が聞こえたのかもしれない。
「あのさあ、ビールってさあ、のどで飲むんだと」
「それじゃあ、味がわかんないじゃん」
「だから、いんだって」
清水の言っている事は訳がわかんない。先輩からの受け売りなのだ。
「そういえばさあ、こんなの田舎では食べなかんべ」
「うん捨てるよな」
「だからさあ、ホルモンっていうんだと」
「ホルモンって?」
「内臓の事だよ」
「先輩がさあ、キャバレーの姉ちゃんに話していたのを聞いたんだよ」
「英語でさあ、ホルモンてさ、内臓なんだって」
「ああそうなんだ」
「そしてさあ、あれ捨てるもんだろう」
「うん・・・」
「だから、放る物、ホルモンだって」
「へえ、キャバレーでそういう話をするんだ」
「そう、けっこうウケてたよ」
焼鳥とビールが来た。香ばしいあまいタレのいい香りがした。

これからキャバレー「杯一」へ向かうと思うと、不安で焼き鳥の味もわからない。
「どうする、やっぱり行くのか」
「ここまできたんだからさあ、もうその事はいうなよ」
「でも、ボラれたりしないかなあ」
「前にさあ、先輩ときた時、横に座ったおねえちゃんが名刺くれたんだよ」
「ええ、なあに、名刺持ってんの」
「うん、ほら、美香ちゃんっていうんだよ」
「ええ?知り合いになったん」
「うん、俺だけじゃねえよ、誰にでもやるんじゃねん」
清水は小さな名刺を見せてくれた。俄然安心した。清水には知っている人がいた。

清水の言うようにビールを舐めずに喉に流し込んでみた。
焼鳥と交互にするとビールの苦さが気にならなくなった。
「あれ、いけるんじゃん」
「うん、喉に流しこんでるんだよ」
「な、な、そうだろ、言ったとおりだんべ」
「うん、あのさ、その人は今日もいる?」
「うん、土曜日は必ずいるって」
「じゃあ、安心だな」
「うん、‘清水君また来てね’っていってたよ」
「なに、名前を教えたんだ」
「先輩が俺のこと、清水って呼ぶから誰だってわかるよ」
「あ、そういえば、どこからきたって聞かれたらどうする」
「寮があるとこがさあ、市原市だから市原からっていうか」
「あそうだな、なかなか機転が利くな」
「面接じゃあねんだから、こまかいことまで聞かれないよ」
「じゃあ早川、それ食べたらさ、そろそろ行ってみるか」
「うん、けっこう度胸がいるな」
「入っちゃえば何とかなるよ」

初めてビールを瓶1本飲んだ。
「タバコでも吸ってみるか」
「うん、吸ってみる」
清水はハイライトと銀色のライターを出した。
「へえ~、ライターまで買ったん」
「かっこいんべ」
「まいったなあ、ほんとに不良だよな」
「キャバレーのねえちゃんな、こういうライターで火をつけてくれるんだぞ」

“毒食わば皿まで”だという気持ちになってきた。
床屋でもらった1本は怖くて吸い込めなかった。
口の中でフカしただけだった。今回は度胸を決めて吸い込んでみた。
少し目が回る感じがした。体から力が抜けていった。
フワァ~としてしばらく動けなかった。気持ちと体がふらついている。

清水は横でニヤニヤしている。
ビールの酔いとタバコで気持ちと体がおかしくなってしまったようだ。
顔が火照ってきた。まぶたが少し落ちてきた。
「早川、そろそろ行くぞ」
「よ~し、そうするか」
少し気持ちが大きくなってきたようだった。
ビール2本、焼鳥10本で、600円位だった。二人で割り勘にした。
その焼鳥屋から2~300mの所に目的の戦場があった。
道行く人も気にならなくなっていた。
「清水、帰りは何時にする」
「今9時だから、11時には駅にいくか」
「そうだな、最終を見たら11時30分だったよ」
「そこまでなんないよ、1時間ちょっとじゃねん」
「なんかさ、最初に券を買うんだって」
「ええ、回数券を?」
「ちがうよ、ビールとか、食べ物とか来ると、切符みたいに切っていたんだよ」
「じゃあ、回数券じゃん」
「同じようなもんかな」
「だからそれが終わったら帰ればいいんだよ」

“杯一”という看板が見えてきた
緊張してきた。その建物は予想以上に大きいものだった。
3階建ての建物くらいあったと思う。近くの電柱と同じ高さだった。
白っぽい建物で1階の壁一面に「キャバレー・杯一」という看板がある。
2階の壁面は「キャバレー」と黄色いネオンが点滅している。
3階の壁面には“杯一”と赤いネオンが辺りを明るくしていた。
1文字、1文字は畳一畳よりも大きかった。
1階の入り口内は花輪がずらりと並んでいた。
三つ揃いのスーツを着たボーイが入り口に立っていた。

緊張感で酔いが覚めてしまった。別の世界がそこにある。何が起こるかわからない。
「恐怖心」と「好奇心」が心の中で行ったりきたりしている。
一歩勇気を出せば見た事のない世界に入っていける。
ここであきらめたら一生経験できないような気がした。
一人では絶対入って行けない。清水と一緒だからできる事だ。
清水の後についていく。清水も言葉少なくなっている。
緊張感と恐怖感で周りの雑踏が聞こえなくなっていた。
目は「杯一」の一点に絞られてきた。

店のボーイが近寄ってきた。清水の後ろにそっと隠れた。
現実が目の前にある。いよいよ後に引けなくなってきた。
清水の後ろで店のボーイとの会話を聞いた。
「お二人様ですか」
「はい、そうです」
清水の声が普段とは違う。よそいきの声だ。
「誰かご指名の子はいますか」
「ええと、美香さんはいますか」
清水は小さな名刺を差し出した。
「お客様、お目が高いですね、美香はうちの人気No1です」
「おねがいします」
「そちらの方は、誰かいますか」
「特にいません」
「では、ヘルプをお付けしますので」
「・・・・・ヘルプですか?」
「はい、こちらへどうぞ」

ボーイが先に歩いていって案内をした。
「清水、ナンバーワンなんか頼んだら高くなるよ」
「ばあか、全員がナンバーワンだよ」
「ヘルプってなあに?」
「良く知らないけど、前に先輩が小百合さんを指名した時にな」
「ヘルプって、助けて~だろう?」
「小百合さんのヘルプで俺んとこについた子が、美香ちゃんだったんだよ」
「じゃあ、先輩のお手伝いみたいなもんかな」
「うん、そういうことだろうな」

ボーイがドアを開けるとそこは本当に別世界だった。
薄暗い床に赤い絨毯が敷いてあった。高校の体育館のような広さだった。
正面にはステージがあり、スポットライトで浮かび上がっている。
ステージには楽器やマイクが並んでいる。
ステージでは従業員が忙しそうに準備をしている。
柔らかそうなビロード製のボックス席が一面に並んでいる。
豪華そうな赤いソファーだった。殆どのボックス席は先客で埋まっていた。
ソファーの間をボーイとホステスが動き回っていた。
場内には柔らかいBGMが流れている。
天井の所々にスポットライトがあり、床に光を当てていた。
スポットライトの筒状の光は、タバコの煙でゆらゆらと揺れている
清水はカウンターに行きセット券を買っている。清水は財布から3千円出している。

ボーイが席に案内してくれた。ステージから遠い所だった。
そのボックス席は4人席だった。清水と私は相向かいに座った。
「お飲み物は何にしますか」
「とりあえず、ビール!」
「お客様はどうしますか」
「お、同じもの」
「少々お待ち下さい」
ボーイはかっこよく立ち去った。清水はタバコに火をつけている。
「清水、いくらだった」
「セットで三千円だよ」
「じゃあ、千五百円な」
「あとでいいよ、かっこ悪いから財布なんか出すなよ」
「じゃあ、帰りに払うかんな」
「それよりさ、あんまり群馬弁だすなよな」
「清水のほうがずっとすっげえど」
「それとさあ、俺、美香ちゃんに二十歳って言ってあるからな」
「なに、まだ18歳だろう」
「法律では酒も煙草も二十歳からなんだよ」
「じゃあおれもか」
「そうだな、早川も同級生だからな」
「干支で聞かれたら困るなあ」
「聞かれはしないよ」
「ねえ、うし、とら、うう・・・・いぬ、い」
「清水、イノシシだよ」
「おめえ、頭いいな」
「こんなん、普通だよ」
清水は変なところで感心する。

酔いはとっくに覚めていた。女の人が二人こちらに向かってくる。
派手な歌手のような衣装だった。うわさ通り胸元は広くあいているドレスだった。
手には小物バックを持っている。二人共スタイルはよかった。
姿や恰好は着るものや化粧でそれなりに装っている。
それでも村岡良子や小中加奈子と比べるとはるかに見劣りがする。
宮原澄子と比べると、う~ん、いい勝負だろう。
先入観のせいか二人には大人の女の雰囲気があった。

人はそれぞれ顔かたちの体裁は違う。
それは止むを得ないことだ。問題はそのあとの人間性だ。
何分か話すとその人の心の顔が出てくる。
心の顔のほうが見た目の体裁よりも大切だと思う。

優しい顔よりも、優しい心。
面白い顔よりも、面白い人。
怖い顔していても、いい人は多い。
優しい顔をしていても、怖い人もいる。

ホステスの二人が席に着いた。緊張感は最高潮に達した。
喉に溜まったつばが飲み込めなかった。入社試験で自分の順番が来た気分だ。
「あ~ら、清水さん久しぶり」
美香さんが清水の横に座った。薄いブルーのドレスだった。化粧の匂いが漂う。
「この子、ヘルプの亜里沙ちゃんね、よろしくね」
私の横に座った亜里沙さんは薄茶のドレスに赤いブーケを胸に付けていた。
前に座った美香さんの軟らかい胸の膨らみに目がいってしまった。
美香さんが私の視線に気が付いたようだ。恥ずかしい。もうだめだ。
「ウフフ、こちら、清水さんの同級生?」
「そう、同じ高校、クラスは違うけど」
「私、美香で~す、よろしく」
「早川です・・・・」
「ここ初めて?」
「そうです・・・」
「今、二十歳なの?」
「そうです・・・」
緊張して気の効いた言葉が出ない。そんな余裕はない。頭の中は真っ白だった。

40年後の今の私には多少の茶目っ気がある。
これは長い人生の間で、世渡りの一つとして身に付けたものだ。
いまだに本物ではないが時々営業で使用する。茶目っ気は会話を和やかにする。

「あ、清水さん、なんか頼んだ?」
「受付で、二人分をセットで頼んだよ」
「じゃあもうすぐ来るね」
遠くに見えるステージの横には大きなテレビがあった。
テレビでは、歌番組が流れていた。さっきのボーイがやってきた。
手にはビールとピーナッツ等、乾き物を運んできた。
テーブルにコップやビールを並べていった。
「じゃあ、乾杯しましょうか」

未知の世界のドラマがはじまった。極楽の宴が開始された。
美香さんは清水にビールを注ぎ、亜里沙さんは私のコップにビールを注いだ。
清水は美香さんにビールを注ぎ始めた。
自分も清水の真似をして亜里沙さんにビールを注いだ。
手が震えてコップのフチにカチカチ当たってしまった。恥ずかしかった。
「それじゃあ乾杯、よろしくお願いしまあ~す」
美香さんが仕切り役になっていた。
もうビールは飲みたくなかった。少し口につけてテーブルに置いた。
話す事がない。隣の亜里沙さんも話しかけてこない。

目のやり場がない。前には胸の大きく開いた美香さんのドレス。
横には亜里沙さんの膨らんだ胸が視界に入る。
ステージの横の大型テレビを見るには遠すぎる。
清水は美香さんと話し始めた。一度来ているから多少の共通の話題がある。
美香さんは30歳前後だろう。隣の亜里沙さんは20歳位かもしれない。
亜里沙さんにはまだあどけなさがあった。ほんとに話す事がない。
「どうぞ」といって亜里沙さんがビールを注ぐ。
「はい、すみません」といってビールを口につける。
胸の膨らみに目が行かないようにした。

何にも話す事を思いつかない。お店の女の人から話しかけてくれると思っていた。
それにお客が答えながら会話をすると思っていた。
その繰り返しで楽しい時間が過ぎていくと思っていた。
あまかった。何も話題を準備してこなかった。
亜里沙さんについては何も知らない。何も聞くことがない。何から話すか考える。

人は考えすぎると臆病になる。言葉を選ぼうとするから無口になってしまう。
選び終わったときはそのチャンスは去っている。
会話は状況と同時進行していかなければならない。

美香さんと清水は楽しそうに会話している。
「清水君、次は何を飲む、」
「う~んと、チューハイもらうかな」
清水さんから、清水君になっている。仲が進展した事を表している。
「早川は、次どうする?」
「お、俺も同じもの・・・・」
「亜里沙さんのチューはイイ?」
「・・・なに、なに、何のこと」
ダジャレに気が付いたが受けて立つ言葉がでなかった。

美香さんがテーブルの上のマッチを擦った。ボーっと燃えたマッチを上にかざした。
美香さんのマッチの合図でボーイが飛んできた。
「はい、何にしましょう」
「チューハイ2つと、清水君、私カカオフィーズもらっていい」
「うんいいよ、あと、ポテト二つ頼むか」
「亜里沙さん、何かもらう?」
「ええと、じゃあ、レモンハイ頂いていいですか?」
亜里沙さんは私に聞いてきた
「し、清水どうする」
「いいに決まっているよ、じゃあ、それも一つね」
美香さんはセット券から何枚かを切り取ってボーイに渡した。

清水は私にコップを差し出してダジャレを言った。
「レモンハイの、入れもん、はい」
美香さんが腹を抱えて笑いだした。
亜里沙さんもつられてクスクス笑い出した。
私もやっと苦笑いくらいはできたが、自分だけが取り残されてしまった。
清水は、陽気に話している。たった1回の経験がこれだけ差をつけてしまう。
亜里沙さんと何も話す事がない。もうここから逃げ出したくなってきた。
まだ心の通じていない若い男女に会話はなかった。

夢のように楽しい事があると思っていた。このとき私に茶目っ気があったらな。
もっと楽しい時間が過ごせたかもしれない。
美香さんが助け舟を出してきた。
「なあに、二人とも黙っているの」
清水も心配になってきたみたいだ。
「早川、どうしたん、酔っちゃんたんか」
清水と美香さんの会話は軽快に続く。
「この子ね、まだ入って1週間なのよ」
「あ、新入社員なんか」
「しばらく私のヘルプしているんだけどね」
「ああ、そうなんだ」
「まだ、お客さんとうまく話せないのよ」
「じゃあ、まだ初心者なんだ」
「こういう子を好きなお客さんもけっこう多いのよ」
「早川も、こういうところ初めてだよな」
「うん・・・・」
「初心者同士でいんじゃない」
話のない1時間は長~く感じる。場違いな感じで何もすることがない。
この場から早く立ち去りたい気持ちになっていた。

そんな時会場に大きな音が響き渡った。
会場全体に大きな音量でショータイムのアナウンスが始まった。
ステージで何か始まりそうだ。救われた。これで話がなくても時間が潰せる。

近くにボーイが寄ってきた。亜里沙さんがボーイに何か耳元で囁かれていた。
他のお客から指名がかかったようだ。
「ちょっと失礼します」
亜里沙さんも救われたように立ち去っていった。

バンドが始まり会場にジャズの演奏が響き渡った。
トランペット、トロンボーン、アルトサキソホーン。
エレキギター、ドラム、ピアノ等ジャズバンドの演奏が賑やかに始まった。
殆どは聴いた事がない曲だった。私はブラスバンドの行進曲しか知らない。
音量の迫力は最高だった。派手なステージ衣装の女の人が歌い始めた。
10人くらいのダンサーがレオタード姿で踊り始めた。
ステージを見ている人はいない。それでも一曲終わる毎に大きな拍手が起こった。
隣に誰もいない私はステージの生演奏を楽しんでいる振りをしていた。
美香さんが時々ビールを注いでくれた。
「早川さんは、どういう女の人が好みなの?」
「う~ん、特にありません・・・・」
「こいつね、勉強ばっかりしているんだよ」
「ああ、そうなんだ、真面目な方なんですね」
「ま、ジメジメしているけどね」
二人はまた大笑い。やっと私も気が付いて、にが笑いをした。

こういう所にも準備が必要だった。会話は能力だった。会話力ともいえるだろう。
私には会話力がない。明るさがない。負けた。清水には勝てない。
ここでは歴史の話題よりダジャレのネタのほうがいい。
楽しさは黙っていてはやってこなかった。
自分から作らなければならなかった。お金で楽しさは買えなかった。
こちらから楽しくしなければならなかった。
楽しい人には寄って来る。寂しい人からは去っていく。

まだ私はこういう所へ来る人間ではない。
人生のステージが違っている。自分にはまだ力が足りなかった。
女の子を楽しませる会話もなかった。仕事にまだ慣れない不安だらけの新人の子に
優しい言葉をかけてやれる心の余裕もなかった。

一つの優しい言葉で安心する人がいる。たった一回の相槌で救われる人もいる。
まだ私は自分の事だけで精一杯な人間だった。
相手に気を使いながら、気軽に会話する気持ちが欠けていた。
美香さんのはからいで、私の隣に入れ替わり立ち替わり、何人かの女の人が座った。
美香さんは私に気を使ってくれていた。
こういう所は自分には合わないと決めたら、気持ちが落ち着いてきた。
これが最後になるだろうと場内をしばらく眺め回した。

ステージの前の踊り場では何人もの人が肩を抱き合い踊っている。
音楽に合わせてチークダンスを踊る亜里沙さんの姿を見た。
踊っている相手は金縁のメガネをかけた中年の男だった。
亜里沙さんはうれしそうな顔をしていた。
少しだがヤキモチが焼けた。会話のない人間からは人は去って行く。
状況と同時進行する会話力は人生を左右する。
会話力は経験で獲得していく。いつの日か自分も身につけなければならない。

「おお、そろそろ時間だな、もう行こうか」
「うん、そうするか」
美香さんは出口まで送ってくれた。右手は清水の腕にからませている。
「清水君、また来てね、待ってるね」
私のほうには、左目でウィンクをした。美香さんは最後の営業も忘れていない。
意外に1500円が惜しいとは思わなかった。こういう使い方もあることを知った。

千葉駅発11時03分の電車に乗った。
「面白くなかったん」
「面白かったよ」
「どお、おっぱい見えたろう」
「うん、ちょこっとな」
「早川、ああいう所は合わないみてえだな」
「そんなことはないよ、初めてだからだよ」
「でも、いい経験したろう」
「そうだな、清水がいなけりゃ一生いけなかったよ」
「帰ったらお風呂にでも入るか」
「そうだな・・・」

11時半ごろ八幡宿の駅に着いた。
夜遊びは初めてだった。八幡宿の駅を降りてタクシーに乗った。
タクシーも初めてだった。寮には12時前に着いた。
だいぶ料金がかかると思ったが160円くらいだった。
タクシー代は清水が払った。
「行きたくなったらまた言えよ」
「うん・・・・」
「たばこが吸いたくなったら部屋に来いよ」
「うん・・・・」

勉強よりも大事なものがこの言葉の中にあった。
人と人とは思いやりの会話でつながっている。
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