第14話 初めて家に帰省する

文字数 4,083文字

寮生活での勉強は進んでいる。
しかし合格するレベルまで到達するのかの不安が付きまとう。
比較するものがない。同じ参考書を10回繰り返す事を目標に決めている。
付録についている模擬テストは何回やっても満点になる。
すでに答えは知っている。それでも繰り返すしかなかった。
崩れてしまいそうなこの弱い意志を支えるには、応援してくれる人が必要だった。
夢のような目標を支え続けるには、誰か憧れる人が必要だった。
まだ見ぬ恋人の存在が必要だった。それは誰でもよかったのかも知れない。
ゴールで手を振って待っている人が必要だった。

明後日には田舎に帰る。この2日間でまとめて勉強しておこう。
食堂に伊藤小夜子が来ていた。賄いのお母さんいついて来たのだ。
先日バス旅行の見送りに来ていた時顔を合わせていた。
「こんにちは」と声をかけると「こんにちは・・・」とはにかむ。
伊藤小夜子の顔が赤く染まり始めるのがわかった。
私に興味でも持ったのかなと自惚れた気持ちになった。
伊藤小夜子は食堂のテレビを見ている。

寮ではいつも学生ズボンをはいていた。よそ行きのズボンは1本しかなかった。
夏休みの頃にはコーラス部の発表会が東京の神田公会堂で開催される。
黒っぽいスーツが必要になってきている。買わなければならなかった。
社会で生活するには思わぬ出費が多い。

月末の日曜日になると洋品屋さんが独身寮の食堂に出張販売に来る。
食堂の壁際にスーツと生地を並べていた。1万円から3万円の値札が付いていた。
いつかは買わなければならないものだった。決心しなければ買えない。
以前、清水から聞いた月賦販売の事を思い出した。

田舎には5千円持っていこうと決めていた。入学金に月1万円を貯金している。
スーツにあてる余裕がない。スーツの値段は現金で買える金額ではなかった。
スーツを見ていると中年男性の販売員が近づいてきた。
「4月に入社した方ですか」
「はい、そうです」
「一着いかがですか、これからは必要になりますよ」
「ええ・・・」
「これなんか似合うと思いますよ」
「そうですか・・・」
「こちらの生地から選べます」
「あのお~」
「はい、はい、何でしょうか」
「10回で分割して払う事はできますか」
「申し訳ございません、ええと、うちではやっていませんね」
「そうですか・・、じゃあ無理ですね」
「ちょっとお待ち下さい、責任者に聞いてみます」

電化製品等の高額商品で月賦販売制度ができたばかりだった。
まだ一般には浸透していなかった。画期的な販売方法だと思った。
販売員は食堂脇の電話からお店に電話していた。戻ってきた時はニコニコ顔だった。
「一割ほどお高くなりますが、10回払いでもいいそうです」
「一割高くなるんですか?」
「ええ、利子分だそうです」そういうことか。理解できた。
1回に1000円~2000円位なら払える。
「じゃあ、お願いします」
「それでは、生地を選んで下さい。それと採寸しますね」

一番安い1万円のものを選んだ。急にお金持ちになった気持ちになった。
こんな高いものを買って父ちゃんに怒られないかなという不安もあった。
「来週の日曜日にはお届けします」
「はい、お願いします」
「靴下と、ネクタイ一本サービスします」
「ほんとですか?」
「こちらからお選び下さい」
オマケが付いていた。ものすごく得した感じになった。
それから、オマケ付き商品に弱い性格になってしまったようだ。
買い物は幸せな気分になる。
スーツそのものより、それを着たときの自分を想像するのが楽しかった。
未来の生活を買った気がした。自分のステージがまた一つ上がった気持ちになれた。
今度の帰省には間に合わないが夏休みには着ていける。

 サンプルのスーツの上着を着たりネクタイを締めたりしている私の姿を
伊藤小夜子が見ている気がした。時々その視線が気になっていた。
それでも、年下の女の子は恋愛の対象にはならないような気がした。

5月6日 朝9時。
「鯛の浦」で買ったお土産を持って田舎に向かった。
社宅前からバスに乗って八幡宿へ行く。
八幡宿から房総西線に乗って千葉駅に着いた。
千葉駅から総武線に乗って秋葉原に出る。

父ちゃんや母ちゃんがどんな顔をして迎えてくれるか不安になってきた。
家にはまだ1回も連絡していなかった。手紙も出さなかった。
気持ちは家出だった。しばらく帰るつもりはなかった。

秋葉原から山手線に乗換えて上野に着いた。上野から高崎線に乗って熊谷で降りる。
そこからまたバスに乗り換えて群馬県の太田に向かう。
電車が熊谷に近づくに従い遠い過去に戻されるような気がしてきた。
熊谷に到着し太田行きのバスに乗った。
これからまたバスに乗って約1時間で田舎の家に着く。
田舎のうちは「西矢島」というバス停から歩いて5分の所にある。
千葉の社宅前を出発してからもう4時間以上経過した。

やっと這い出してきたのに、またつれ戻されてしまったような錯覚をした。
唯一の救いは明日には初恋の小中可南子に会える事だった。
バスが西矢島に着いたが降りられなかった。終点の太田駅まで行ってしまった。

太田駅のバス停前のお店でオレンジジュースを飲んだ。
財布には真新しい5千円が入っている。家に持ってきたものだ。
一ヶ月も家を空けると帰りづらい。なんていって帰っていいか言葉が思いつかない。
一ヶ月も連絡しないで父ちゃんに怒られるような気がしてきた。

太田駅から3時発の熊谷行きのバスに乗った。
途中に「飯田」というバス停がある。
そのバス停のすぐそばに高校時代の友人加藤の家があった。
そうだ先に加藤の家に行こう。どうせ怒られるなら夜になってから帰ろうと思った。
怒られる時間が短いほうがいい。口答えや言い訳は父ちゃんには通用しない。

「飯田」のバス停で降りた。加藤の家に着いた。
「こんちは~」
家には加藤の弟の久志がいた。顔見知りだ。中学2年生。
「あ、早川君だ、どしたん」
久志は私を早川君と呼ぶ。早川君が敬称だと思って呼んでいる。
そのままにしておいた。
「あんちゃん、いる?」
「今、竹内工務店に行っているんだよ、呼んで来るよ、待ってて」
久志は3軒先の竹内工務店に走っていった。すぐに、兄ちゃんを連れて帰ってきた。
「おお、もう来る頃かと思っていたよ」
「加藤、仕事だったんか?」
「うん、仕事はいつでもいいんだよ」
「今、大丈夫か」
「まあ、あがれや」

坊主頭だった頭は角刈りにしていた。大工の見習いをしている。
一ヶ月で、少し大人びた顔になっていた。
「早川、元気そうだなあ、おめえだいぶ太ったな」
「そうかい、寮の食事がお代わりできるんだよ」
「へえ~、いい所に入ったな」
「うん、今のところ天国みたいだよ」
「家には寄ってきたん?」
「まだ、これからだよ」
「じゃあ、おれがあとで車で送ってやるよ」
「あれ、免許とったん」
「うん、車がなけりゃ仕事にならないんだよ」
「そうか、工務店って建築関係の仕事なんだろ」
「そうだよ、小型トラックで材木を運ぶんだよ」

加藤はもう工務店で役に立っている。自分とは違う運命を進んでいる。
「いよいよ明日だな・・」
「なにが?」
「何がじゃねえよ」
「ああ、あれか」
会話は過去からの続きになっている。あれ、これでお互いに判断できる。
初恋の小中可南子に会える。加藤が橋渡しをした。
ここから小中可南子の家まではいくらも距離がない。
緊張感が体を走り回った。初恋の人に会うのがいよいよ現実のものとなる。
「いっぱい飲むか?」
「昼間からか?」
「今日はまだ連休だよ」
「じゃあ、そうするか」
加藤は台所に行ってウイスキーの角瓶とコップを2個持ってきた。
いよいよ小中可南子の話しが聞けそうだ。

5時頃に加藤の母ちゃんが戻ってきた。
「あら、早川君来ていたんだ」
「あ、どうも、お邪魔しています」
「ずいぶんいい男になったね、髪もそろってきたね」
お世辞を言ってくれた。それから台所に行って野菜の天ぷらを揚げてくれた。
「さっき、良子ちゃんのお母さんに会ってきたんだけどね」
「ああ、そうなんですか」
「早川君に会えるのを楽しみにしているよ」
「ええ、明日行ってみるつもりです」
「良子ちゃんが嬉しそうにウキウキしていたよ」
「そうですか・・・」
「良子ちゃんのお母さん、早川君をだいぶ気に入っているみたいだよ」
「そうなんですか」

小中可南子、村岡良子。どう対応していいかわからない。
どちらもまだ身近な存在ではなかった。
恋人になって欲しいという意識は生まれていなかった。
生活レベルが低い家庭に育ったので恋愛なんて夢のような話だった。
まだ自分は女の人と付き合えるレベルではない。
お金もない、着るものもない、時間もない。遊びに来てもらえるような家でもない。
両親も貧乏そのもののみすぼらしい恰好をしている。声もガサツな声で品が悪い。

小中加奈子をちょっと姿が見られるだけで充分だった。
少し声を聞くことができればいい程度の思いだった。
今は憧れの人のままでいいような気がする。
1年勉強して4年間大学に行って国語の先生となれば恥ずかしくない。
やっとそれで準備が整うのだと思っている。

「早川、明日ここに来いよ」
「うん、8時までには来るよ」
「それから、村岡さんちまで歩いていこう」
「そうだな」
「早川どっちにする」
「どっちって?」
「小中か、村岡だよ」
「別にそんな意識はないよ」
「無理すんなよ、小中だろ」
「いいよ、決めなくったって、まだ彼女っていうわけじゃないんだから」
「そうだな、別にいいか」
「それより、加藤は村岡さんだろ」
「小さい頃から知っているんで、そんな気持ちはないよ」
「じゃあ、なるようになるしかないな」
「あんまり意識しないようにしよう」
簡単な打ち合わせは終わった。

夜8時頃加藤は小型トラックで送ってくれた。加藤も私の家に上がったことはない。
近くの橋の所まで送ってくれた。
「ここでいいよ」
「じゃあ、明日8時な」
「おーけー」

家では父ちゃんから何を言われるかわからない。恐怖だった。
悪いことは何もしていないのに怒られる。
父ちゃんは子供を怒るのが親の威厳だと思っている。
そんな家から早く抜け出したい気持ちもあったんだ。

覚悟して思い切らなければ足が動かない。
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