第2話 石油化学工場の現場へ

文字数 3,328文字

昭和42年3月26日(月)
朝8時20分
工場行きの送迎バスに初めて乗り込んだ。
無表情の運転手が「おはようございます」といった。
「おはようございます」と大きな声で返した。運転手はびっくりしている。
そのあと、独身寮や社宅から続々と人が集まってバスに乗り込んできた。
運転手はオウムのように「おはようございます」を繰り返している。
次々と乗り込む人達は運転手さんの挨拶に返事をしていない。
どの人も無言で乗り込んで席に座って目をつむる。
学生服の私の姿をチラッと見るが無表情はそのままだ。


さっき運転手がびっくりしていたのは、私の挨拶が意外だったんだ。
明日からどうしようかなと思った。まるで作業服を着た囚人の送迎バスのようだ。
やっぱり私は挨拶しよう。そのうち運転手もなれるだろう。
バスは補助席以外が満席になるとバスが発車する。
次のバスがもう後ろに来ている。その次もその次も続々もバスが続いている。
修学旅行以外でこんなに同じバスが並んでいるのは初めてだった。
日本の高度成長の姿を見たような気がした。
私がその中の働きアリの一匹になったんだ。
この年は高卒の労働者が大量に採用された時代だった。
作家の堺屋太一がこの世代を「団塊の世代」と名を付けた。
朝の工場行きのバスの中ではニュースが流れていた。
「安保」のニュースが多かった。学生運動が盛んな時代だった。
早稲田大学の名前が頻繁に出てくる。
その大学の人気が下がれば入りやすくなると思って聞いていた。

今日はバスの窓から外の景色を見ながら行こうと思った。
周りの人はみんな目をつむっている。
学生服姿が二人いた。私と同じ新入社員のようだ。
二人ともキョロキョロとバスの窓から外を眺めている。
あれ、一人はどっかで見た顔だ。
高校のときの同級生、クラスは違ったが確か清水と言う名前だった。
あとで挨拶してみよう。

社宅を出発したバスは林を抜けた。林の中には所々に民家が見えた。
しばらくするとアスファルトでできた広い通りに出る。
15分くらい経過すると海が見えてきた。
目の前に千葉県の石油コンビナートの風景が広がった。
太平洋の海沿いに大きな工場が無数に建っている。
広大なこの一帯は全部埋立地だと会社案内に書いてあった。
その工場のすべてに大きな石油タンクが並んでいる。
工場の煙突からは煙や火が出ている。
緊張感と不安が増してきた。初めての光景だった。
爆発するんではないかと思うくらい煙突から火が噴出している。

すごい所に就職したものだ。道路沿いに工場の看板が見える。
みんな有名な会社だった。


「○○化学石油事業部千葉工場」「△△石油千葉工場」「◇◇興産石油化学事業部」
いくらどんな所でもいいとはいえ、ちょっと不安になってきた。
巨大なタンクがだんだん大きくなって見えてきた。

午前8時45分。
目的の就職先の工場に着いた。
工場に入るとゴーゴーと何かが音を立てていた。ドスン、ドスンと地響きもする。
バスを降りるとそこには総務の小池さんがいた。
以前就職案内で高校に来た時一度会った事がある。少し気持ちが安心した。

他の人達はみんな自分の職場へと散っていく。
バスが去るとそこには4人の男子が残っていた。
みんな幼い顔をしている。キョロキョロと工場の風景を見ている。
自分と一緒の新入社員だという事がすぐにわかった。
私は顔見知りの清水の所へ近づいていった。
「お前、清水じゃない?」
「あれ、早川だっけ?」
「うん、一緒だったんだ」
「へえ、早川もここへ。信じられねえな」
「清水はいつ来たん?」

二人とも群馬県出身だ。丸出しの群馬弁で話した。
「うん。昨日さあ、親父に送ってもらったんだよ」
「群馬から車でか?」
「そう、色々荷物があるんべ、だから車で運んでもらったんだよ」
「へえ、俺も昨日着いたんだよ、気が付かなかったな~」
「だけど、すげえな~この工場。恐ろしいようだな」
「俺もびくっくりしたよ。煙突から火が出ているんだもんな」

次のバス、次のバスからも同じような新入社員が降りてくる。
9時近くなるとその数は20名を超えていた。
私服や学生服様々だ。大人っぽい者もいれば中学生ではないかと思われる人もいた。
9時になると工場全体に大きなサイレンが鳴った。
それに合わせて総務の小池さんがみんなに声をかけた。
「はあい!こちらに集まって下さい」
「今から食堂に行きます」
みんな小池さんのあとについていく。
小池さんは総務課の係長で新入社員の採用担当者だ。
背が小さく小太りしている。厚いレンズの丸いメガネをかけている。
2年浪人して東大に入ったと聞いていた。
総勢で男子の新入社員は22~3名だった。

小池係長の引率で工場内を見学した。工場の騒音でほとんど説明は聞こえなかった。

昼近くになり、食堂へ行くと女子の新入社員も20名以上いた。
なんだかドキドキしてきた。
高校は男子校だったので女子を見るのは慣れていなかった。
こんなにいっぱいの女子を目の前にするのは初めてだった。
どうしても目がチラチラと女子のほうに行ってしまう。
好みのタイプの女子が何人かいた。

食堂はかなり広かった。200名位は入れるだろう。
いつも同級生の清水の傍にいた。清水のおかげで不安が半分くらいになっていた。
他に総務の担当者2名がいた。注意事項や安全衛生の冊子を配っている。
灰色の作業服を着た工員がそれぞれの机の前に色々と配り始めた。
私の目の前には灰色の作業服上下2着、鉄の入った安全靴一足等だった。
それに黄色いヘルメットが置かれた。さらに緊張感が増してくる。

前のほうには5~6名の作業服姿の人達がこっちを向いて座っている。
被っているヘルメットは白と黄色。ヘルメットにはグルリと黒い線が入っていた。
階級と職場を表す線だろう。総務の小池係長のヘルメットは白に1本線。
前に座っている人のヘルメットは2本線や色の違った線もあった。
小池係長の紹介で各職場の責任者から歓迎の挨拶や職場の紹介があった。
やっぱり1本線は係長、2本線は課長だった。
総務等の事務部門が白いヘルメット。現場部門が黄色いヘルメットだった。
白いヘルメットに緑の2本線は工場長だった。見るからに威厳がある。

先月までの甘っちょろい高校生活が終わった。
いよいよ社会へ出たんだなという気持ちになってきた。
恐ろしい所に来てしまったという後悔もあった。
もっと真剣に考えて選べばよかったと反省した。
ただ、寮生活ができるという一点だけで決めてしまったのだ。

午前中は食堂で注意事項や就業規則等の説明を受けた。
昼食の件、安全衛生の規則、工場の基礎知識、給与や残業の事。
文化クラブや運動クラブ等説明してくれた。
配属先の職場の発表もあった。自分の所属は保全課保全係という所だった。
清水は別の生産部生産管理課という職場だった。

12時きっかりにお昼のサイレンが鳴る。
お昼はこの食堂で食べた。また不安が一つ消えた。お昼も支給されるのだ。
独身寮の時と同じスタイルだった。これで朝昼晩の食事の心配はなくなった
黄色いブリキのトレーに、ベージュのプラスティックのお皿やどんぶりだった。
おかずはお新香を含め5品程載っていた。

午後からは配属先の職場に行く。時間が経つごとに不安はいっそう増してきた。
食堂の一角では女の子達がザワザワとさざめいている
男子のほうをチラチラ眺め品定めをしているように見えた。
自分の気持ちが浮き足立ってきている。
「なに、女ばっかり見ているん」
「ちがうよ、そうじゃないよ」
キョロキョロと落ち着かない自分を清水に冷やかされた。

午後1時にまた工場全体にサイレンが響き渡った。
ドカドカとヘルメット姿の工員が食堂に入ってきた。
新入社員達はいっせいに決められたテーブルに座った。
入ってきた工員のヘルメットには線はなかった。
着ている作業服もちょっと薄汚れていた。
工員は新入社員の名前を呼び始めた。
呼ばれた新入社員はその工員の後に続いて食堂から去って行く。

「保全課、保全係、宮原澄子さん、市原憲次君、早川孝史君」
3人はテーブルから立ち上がりその工員の後についていった。
現場が近くなるほど地響きが大きくなっていく。
ドスン、ドスン、ドスン、ドスン、・・・・・・・・、

体が小刻みに震えている。
心臓の鼓動も震えている
不安は増々広がっていく。
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