第11話 バスの中のできごと

文字数 5,250文字

上司の伊藤さんがやってきた。
「おお、早川、飲んでいるか」
「はい、飲んでいます」
「あんまり、飲みすぎんなよ」
「はい、らいじょうぶれす」
「お、もうロレツが回らなくなっているな」
好きで飲んだわけではない、騙されたのも同然だった。
知らない自分も悪かったが教えてくれない市原も悪い。

伊藤さんは片手に酒の一升瓶を持っている。透明容器に入った食べ物も持ってきた。
容器には漬物、から揚げ、ウインナ、卵焼きが入っていた。
そこには楊枝もさしてあり食べやすくなっていた。
伊藤さんは助手席を倒し市原の横に座った。
「二人とも、ゆっくりいこうや」
私と市原に紙コップを渡してくれた。
「ほれ、ゆっくり飲めや」
「はい先輩、ありがとうございます。遠慮なくゴチになります」
市原が二人分の返事をしてくれた。伊藤さんは一升瓶から酒を注いでくれた。
体がフワーッとしてなんだかどうでもよくなってきた。
気持ちもフワーッとして断る気力もなくなっていた。
自分の気持ちとは反対に酒を口に運んでしまう。
あんまりうまいとは感じなかったが手持無沙汰で飲んでしまう。
「早川、なかなかいけるな」
気も軽くなったが口も軽くなってきた。
「そうれすか、ありがろうごらいます」
酒を飲むと喜んでくれる。不思議なことだと思った。
酒を飲むのが気にならなくなってきた。もう通常の自分ではなかった。
酔ったあとの世界は現実の世界とは違っていた。

お調子者の一面も出始めた。
「伊藤さんちの娘、可愛いれすね・・・」
「あれあれ、お世辞も言えるんじゃねえか」
「お世辞じゃないすよ!可愛いれすよ・・・」
「嫁にあげようか」
「いいすね、僕、妹がいないんすよ」
「妹のほうがいいんか」
「初めから、お嫁さんじゃ恥ずかしいすよ」
「じゃあ、いいよ、妹にしても」
いつもは心の中だけの言葉なのだが、酒に酔うとみんな口から出てしまう。
気持ちがフワフワしている。
「名前なんれしたっけ」
「小夜子だよ、覚えておけよ」
「ちょっと吉永小百合に似ていますね」
「早川、おまえ、大分酔ってきたな」
「ほんとれすよ、可愛いすね・・・」
「もう一杯飲むか?」
「ありがろうございあす。あの子胸大きいれすね」
「お前娘のどこを見ていたんだよ、まだ俺とお風呂に入っているんだぞ」
「じゃあ伊藤さん、毎日あのおっぱいが見られるんれすか」
「だめだ、こいつ、もう頭が壊れている」
伊藤さんは優しく相手をしてくれる。バスの中にいることすらもわからなかった。

市原は別の所で飲んでいる。伊藤さんは私のことを面白がって相手をしている。
紙コップの中に酒がなくなると注いでくれる。何が何だか分からなくなってきた。
目の前には宮原さんの黒髪が揺れている。
この黒髪はもう宮原さんとは別の存在に見えてきた。何気なしに触ってしまった。
「あっやめて!、早川くんでしょ!」
「あ、これ、宮原さんのものなの、後ろにおちてるよ。落としもんらよ・・」
「早川君って、やな感じね!」
あれどっかで聞いたセリフと似ている。宮原さんはそれからずっとプンとしている。

オシッコがしたくなってきた。考えていなかった。
酒やビールがこんなに早く尿意を催すなんて思わなかった。
寮を出るときトイレに入ってこなかった。
酔って朦朧としているだけに尿意だけが気になってくる。
伊藤さんは別の仲間の所へ行って飲んでいる。
市原のゲラゲラ笑っている声が後ろのほうで聞こえる
酔いは醒めていない。フワーッとした意識が寝たり起きたりを繰り返している。
バスの振動で尿意がいっそう増してきている。
早く休憩所につかないか、それだけが気になってきた。
「おお、早川大丈夫か」
誰かが声をかけている。もう飲みたくない。寝たふりを続ける。

バスは歌謡曲を流し続けている。耳を疑った。信じられない歌が流れてきた。
♪おらは死んじまっただ、おらは死んじまっただ
♪おらは死んじまっただ、天国に行っただ

♪長い階段を、雲の階段をおらは登っただ、ふらふらと
♪おらは よたよたと、登り続けただ、やっと天国の門についただ

♪天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいし、ねぇちゃんはきれいだ
  わーっわーっわっわー

♪おらが死んだのは、ヨッパライ運転で・・・
  うーーーあーーー!! おらは死んじまっただ

♪おらは死んじまっただ、おらは死んじまっただ、天国に行っただ
♪だけど天国にゃ、こわいい神様が酒を取り上げて、いつも どなるんだ
 なぁおまえ、天国ちゅうとこはそんなに甘いもんやおまへんにゃー
    もっと まじめにやれーー!

♪天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいし、ねぇちゃんはきれいだ
    わーっわーっわっわー

♪毎日酒を、おらは飲みつづけ、神様のことを、おらは忘れただ
    なぁおまえ、まだそんな事ばかりやってんのでっか、ほなら出てゆけーーー

♪そんなわけで、おらは追い出され、雲の階段を、降りて行っただ~~~
♪長い階段を、おらは降りただ、ちょっと ふみはずして・・・
♪おらの目が覚めた、畑のど真ん中、
♪♪♪おらは生きかえっただ、おらは生きかえっただ

まさか、これが歌謡曲。信じられない酒酔い運転の歌だ。
酔って朦朧としている自分には快い音楽だった。
この歌が終わる頃には休憩所に着かないかなと思いながら聞いていた。
だんだん膀胱が熱くなってきている。まだ我慢できるかもしれない。
さっき宮原澄子の髪を触った事が恥ずかしくなってきた。
少し酔いが覚め始めているのかもしれない。

バスはまだ止まる気配がない。もう膀胱が熱くてピクピクし始めている。
言えない。オシッコしたいなんて言えない。
まだ彼女になったわけではないが宮原澄子が前にいる。
あの黒髪はもう後ろにこぼれてこなかった。バスが広い通りを軽快に走っている。
時々薄目を開けて窓の外を見る。トラックや乗用車が音を立ててすれ違っていく。
バスが止まれるような所ではない。あと10分待ってみよう。
バスの歌謡曲が目安だ。1曲3~4分として、あと3曲待ってみよう。

周りでは小宴会が続いている。宮原澄子は先輩の千葉佐知子さんと話しをしている。
もう出発してから1時間以上経っている。みんなよく話が続くもんだと感心する。
歌謡曲は「恋のしずく」に変わった。決心してからの一曲目だった。
♪♪♪かたをぬらあす~、こいのしづうく~
尿意は限界に達しはじめている。3曲終わったら何か手を打とう。

2曲目 歌謡曲は「受験生ブルース」に変わった。
♪♪♪おいで皆さん 聞いとくれ~~
♪♪♪僕は悲しい 受験生~~
受験生はいいな。思い切り勉強ができる。私は隠れ受験生。誰にも話せない。
バスガイドさんがカセットテープを選曲しているようだ。
まさか自分の事を知るはずがない。

3曲目「高校3年生」だった。これが終わったら言って見ようと決心した。
もう足も動かせないほど膀胱が熱くなってきている。バスの振動でビリビリする。

♪♪♪赤い夕陽が 校舎をそめて~~
♪♪♪泣いた日もある 怨(うら)んだことも
♪♪♪甘く匂うよ 黒髪が~~
歌謡曲がこんな長いものだと思わなかった。まだ3番へ続く。長すぎる。
歌っている歌手が憎らしく思えてくる。
♪♪♪ああ 高校三年生 ぼくら
♪♪♪道はそれぞれ 別れても
♪♪♪越えて歌おう この歌を
曲が長すぎるよ。
やっと終わったようだ。
ガイドさんがカセット変える瞬間を狙った。
「すいませ~ん、ガイドさん」

みんなが振り向く。恥ずかしいなんて言ってはられない。
「休憩所はまだですか・・・」
ガイドさんは運転手に聞いている。
「オシッコ、漏れそうなんです」
「あと、15分くらいだそうです」
「待てそうにないんです」
また運転手さんに相談している。
「ここでは止められないそうです。もうちょっと待ってください」
もう限界に近いもっと早く言っておけばよかった。
「もうちょっと、我慢しろよ」市原が声をかけてきた。
「うん、でも・・・・」
周りの景色を見た。車の往来は少なくなってきている。
オシッコができそうな風景をさがした。もう漏れる限界まで来ている。

チャンスは必ずやって来る。前方に山が見てきた。あたりは草むらになってきた。
「すいませ~ん、降ろしてください」
「もう少し我慢できませんか」
「もうだめです」
みんながゲラゲラ笑い始めた。
運転手さんもガイドさんも迷惑そうな顔をしているのがわかった。

「すいません。なんとか、お願いしま~す」
困ったガイドさんは、運転手さんに相談している。

その時、一番前に座っている芋生課長さんが一言いってくれた。
「運転手さん、止めてあげて下さい」
「は、ハイ」
ゆっくりとバスは止まった。
運転手さんは芋生さんを課長とは知らない筈だ。
それでも言葉に力がある。言葉に決定権を持っている。
急いで外に降りた。
もう恥ずかしいなんていう気は無くなっていた。
死ぬか生きるかの境地だった。
山のほうに向かって思い切りオシッコを放った。
こんな開放感を味わったのは初めてだった。

あ、あ、あ、あ、ずるい。7~8人降りきて、連れションを始めた。
あああ~あ、芋生課長さんも一緒だ。
言いだしっぺにさせられた。犠牲になる人が必要だったのだ。
遠くの山に向かって一斉におしっこをしている。

スッキリしたらバスに戻るのが恥ずかしくなってきた。
振り向くとバスの窓から宮原澄子の声がした。
「早川君、こっち向いて」
手にはカメラを持っている。
「えへへ~」
「ウフフ・・・」
宮原のカメラの前でポーズを取った。いったん恥をかくと後が気楽になるようだ。
ズボンの前が少し濡れていたが、恥ずかしいという気持ちが無くなっていた。


バスに戻るとガイドさんが「おつかれさまでした」と言った。
運転手さんに「すいませんでした」とお礼をする。
運転手さんは「ごくろうさまでした」と言った。
意味はわからないが、取り敢えず一件落着した。

篠原先輩が「ばかか、おまえ、オシッコたかし」と冷やかしてくる。
車内の酔っ払いから、“オシッコたかし”のコールが続いた。
職場のみんなと急に親しくなれたような気分がした。
宮原澄子まで一緒になって声を出している。
もうこの子とは終わったなと思った。社内恋愛の夢は消え去った。

オシッコをしていた最後の一人がバスに乗り込んだ。
バスは何事もなかったようにスタートした。
ガイドさんは、歌謡曲のカセットテープを準備している。

加山雄三の「君といつまでも」が流れ始めた。すがすがしい気持ちになった。
こんなに歌謡曲っていいものなんかと思った。
「君といつまでも」この歌もいいな。最初に頭に浮かんだのは小中可南子。
次に浮かんだのは村岡良子。しばらくして伊藤小夜子が初登場した。
それぞれを比較して思い浮かべていた。
「早川、なにニヤニヤしてるんだよ」
市原の顔は真っ赤になっていた。
この不良はもう出来上がってる。
「うん、うん、うん、ほら伊藤さんが呼んでいるぞ」
「お前もこっちへ来いよ」

歌謡曲は「長い髪の少女」が流れ始めた。
♪♪♪長い髪の少女 孤独な瞳
♪♪♪後ろ姿悲し 恋の終わり
~~~トゥルル トゥルル トゥル
~~~トゥルル トゥルル トゥル・・・
ガイドさんの選曲が的を射ている。私の心を知っているような気がした。
この時の聴いた歌は今でも思い出せる。40年後のカラオケの持ち歌となっている。
思い出は心の中にいつまでも生き続けている。

オシッコ騒動後バスは10分くらいで休憩所に着いた。
このたった10分が我慢できなかった。もしかしたら我慢できたかもしれなかった。
そうすれば恥をかかないですんだ。でも漏らしたらもっと大変な事になっていた。
着替えは持っていなかった。

オシッコ騒動から雰囲気が一変した。
他人行儀だった人達が仲間のように気軽に声をかけ始めてくれた。
真面目な人間には近づきにくい。声をかける隙がない。

人は相手の態度で変わる。優しくなったり、冷たくなったりする。
「オシッコたかしぃ」は集団に溶け込む大きなきっかけを作った。
酒も飲まない、タバコも吸わない。いつもおとなしくて本ばっかり読んでいる。
こんな自分に入り込む隙がなかったようだ。
人の話題になる。人に笑われる。ここに大事な事があるなと感じ始めていた。

宮原澄子の評価も気になる。もう、だめなんだろうか。
バスの中ではまだまだ酒盛りが続いている。
話も尽きる事がない。ゲラゲラ、ワイワイやっている。
日常のありふれた会話は居心地の良い雰囲気を作り出す。
たわいない失敗談。体調の事、犬の事、猫の事、子供のこと。
食事の話、植木の事、着ている服のこと。
話しても意味のないような事を話している。会話の原点を知ったような気がした。
自分にはこの概念がなかった。
どんな内容でもいいのだ。楽しい時間を過ごす為の会話は軽いほどいい。

自分から声をかける。それを受けて話し出す。
相槌を打つ。聞いてあげる。受けてあげる。また次の話に移る。。
このキャッチボールが会話の原点だった。
これがお互いの優しさだった。それぞれの思いやりだった。
話がなければ寝たふりをしていた自分が恥ずかしくなった。

オシッコ騒動は無駄ではなかった。みんなに共通の話題を作った。
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