第17話 ドライブの車の中で
文字数 5,807文字
加藤が降りて車の中は二人だけになった。
お互いに緊張して、ぎこちない雰囲気となった。
「お母さんがへんなこと言ってごめんね」
「うん、別に気にしてないよ」
「お母さんなんでも言っちゃうのよ、恥ずかしくって」
「うん、気さくでいいお母さんだよ」
「どこへ行きたい?」
「うん、どこでもいいよ」
「今日は何時ごろまでいられるの」
「千葉の寮まで、ここから3時間くらいだから、9時ごろかな」
「じゃあ、あと3時間以上あるね。金山 でもいってみない」
「いいけど、村岡さんのほうは何時までいいの?」
「お母さんがね、今日は遅くなってもいいって」
金山は好きな所だ。「子育て呑竜」の名で知られた大光院というお寺の裏山になっている。
なぜ村岡良子は私が金山を好きなことを知っているんだろう。
「遅くなってもいい」というお母さんの言葉が耳に残っていた。
金山は小さな山だからそんなに時間はかからない。
車の中は村岡良子の匂いがする。小中可南子とは又違った香りだった。
女の子と二人だけになるなんて初めてだった。当たりは薄暗くなってきている。
「金山の夜景はけっこうきれいなんだって」
「行ったことがあるの」
「ううん、お母さんが言っていたの」
「へえ~、なんで知っているんだろう」
「去年の大晦日の夜、除夜の鐘を聞きに夫婦で行ったんだって」
「ふ~ん、この時間に金山に行くのは初めてだよ」
「そう、じゃあ夜景でも見てみる?」
「うん、そうしようか」
車は金山に向かった。村岡良子の運転は思ったより安心できた。
車を運転する村岡良子の横顔はいっそう引き締まって見えた。
「あのカセットテープ、まだ聴いていないんだけど・・」
「うん、もういいの、たいしたことじゃないの」
「ふーん、でもちょっと気になるな」
「ええ、千葉に着いた時ね、お疲れ様というようなことだけ・・・」
「カセットを聞く機械を持ってないんだよ」
「ごめんね、それを気が付かなかったの」
「機会があったら聴いてみるよ」
「ウフフ、それダジャレ」
「あ、そうか・・・」
「もう気にしないで、ほんとに挨拶程度なんだから」
「うん、わかった」
ダジャレ一つで一気に緊張感がなくなった。
2~30分で金山の展望台の所の駐車場に付いた。
他にも2~3台の車があった。車から降りて展望台への階段を登った。
眼下に見える町の灯りがきれいに見えた。
国道を走る車のライトが帯のように長く続いている。
その光の帯は蛍の行列のように流れていた。
利根川を流れる水が白い糸のように見えた。
ロマンチックな気持ちになった。辺りは音もなく静かな所だった。
しばらく無言で眺めていた・・・・・・。
山の上から見る壮大な夜景を見ていると言葉はいらなかった。
お互いにそれぞれの思いを巡らしていた。
「ちょっと寒くなってきたわね」
「うん」
「車に戻る・・・」
「うん・・・」
車に戻り夜景の見える場所に車を移動させた。
少し走ると、車の中からでも夜景の見えそうな場所があった。
金山から見る夜景は初めてだ。エンジンを止めると車の中は音のない世界だった。
村岡良子の息づかいまで聞こえるようだった。二人とも積極的な性格ではなかった。
なかなか会話は始まらなかった。それでもきれいな夜景が気持ちを和らげてくれた。
「覚えている、初めて早川君がうちに来たときの事」
「いつ頃だったっけ・・・」
「高校3年の時のお正月よ、1月3日だったよ」
「あそうだね、加藤に連れられていったんだよ」
「びっくりしっちゃた、あたし早川君が来るのを知らなかったの」
「あ、覚えているよ、赤いおいしい物を飲ませてもらったね」
「あれ、ワインよ、赤玉ポートワインっていうお酒だったのよね」
「うまかったな、生まれて初めて飲んだんだよ」
「早川君、酔っ払ってイビキをかいて2~3時間寝ちゃったのよ」
「そう、何か気持ちがフワ~っとして、そのあとはよく覚えてないよ」
「うそ、あの時あたしの事を可愛いっていったんだよ」
「ええ?覚えてないよ」
「やっぱりね、二人ともけっこう酔ったみたいだからね」
恥ずかしくなってきた。そのほかに、何を言ったのか不安になってきた。
お酒とは知らないで2~3杯飲んだような気がする。
壮大な夜景は時間を追う毎にいっそう輝きを増してきた。
車の中は暗かった。
「何か音楽でも聴く?」
「車で聞けるの?」
「ええ、カセットテープがあるからね」
「へ~、行進曲なんかある?」
「ウフフ、そういうのはないけど、ピアノとかのクラシックなの」
「聴いた事はないけど、なんでもいいよ」
「じゃあ、月光ソナタはどう、かけてみるね」
「うん」
ベートーヴェン「月光ソナタ」は第1楽章から始まった。
まるで映画の中のラブシーンでも体験しているようだった。
目の前には壮大な夜景、ほの暗い車の中にはピアノの快い響き。
横には村岡良子が優しい顔をしてくつろいでいる。
そういえば、父ちゃんの浪曲好きにはいつも悩まされた。
父ちゃんは夜仕事から帰ってくるとラジオの浪曲番組をさがした。
潰したような声で唸る浪曲が始まると勉強が手に付かなかった。
家庭環境が違うとこんなにも世界が違うんだなと感じた。
「さっきの話に戻るけどね」
「うん・・・」
「二人がワイン飲んで酔った時にね」
「うん・・・」
「誰か好きな人いるのって、ふざけて聞いたのよ」
「ええ~、覚えてないな・・・」
「加藤君は、同級生の田村さんだって」
「ええ~、村岡さんじゃなかったんだ」
「早川君はね、誰の名前出したと思う?」
「ええぇ~、俺も誰かの名前言ったんだ」
「誰だと思う?2人も言ったのよ」
「覚えてないよ、もし言ったとしても冗談だよ」
急にハラハラしてきた。
「吉永小百合と、浅丘ルリ子だって、笑っちゃった」
「ああ、ほっとしたよ」
「それからね、小中可南子さんが吉永小百合に似ているんだって」
「うわ~、名前出しちゃたんだ」
「浅丘ルリ子が私なんだって、酔ってお世辞言ってたよ」
「もう最悪だね、ほんとに言ったんだ」
「私がどっちのほうが一番って聞いたの?」
「何て答えた」
「どっちが好きなんてないよ、それぞれ魅力が違うよだって」
よかった。酔っていても本音はいってなかった。
カセットテープのカチャッという音がした。
「月光ソナタ」が終わったようだ。
「次は、ショパンのノクターンかけてみるね」
「ピアノっていいもんだね、初めて知ったよ」
車の中のムードが変わった。
しばらく音楽を聴きながら夜景を眺めていた。
村岡良子の小さな胸の膨らみがシルエットで視界に入る。
少し妙な気分になってきた。気を付けなければと心を引き締めた。
暗い車の中で村岡良子が私のほうに顔を向けた。
「早川君、ちょっと聞いていい」
「うん、なに・・」
「もしかしたら、小中さんのこと好きなの」
ゆったりとした気持ちが突然緊張感に変わった。
叶わぬ片思いではあるが、小中可南子は憧れの人だ。
万に一つでも可能性は残しておきたい。返事がなかなか出来なかった。
嘘はつきたくないしこの場の雰囲気も壊したくなかった。
返事が遅いという事も返事の一つになる。
まだ、村岡良子と心を通じての会話はできていない。
お互いに自分の思いを話せる仲ではなかった。
自分の思いは心にしまっておかなければならない時期がある。
「もし、好きだとしても、どうにもならないよ」
「アタックしてみたら」
「今は、来年受験する事で頭がいっぱいだよ」
「そうよね、今は大事な時期だものね・・・」
「村岡さんや、小中さんに会えただけで嬉しいよ」
「可南子さん、いい人よ」
「うん、それより村岡さんは誰が好き?」
「う~ん、私もまだいえないの」
もう、自分の心を見抜いたようだった。
自惚れてはいけないが、もしかして村岡良子は私に興味があるのかもしれない。
自分は小中可南子に片思いしている。村岡良子は私に片思いしているのだろうか。
そうだとすれば。今日のドライブは私の気持ちを確かめるためのものなのだろうか。
そんな事はない。いや、その可能性はある。今日の目的は文化祭だった。
金山へのドライブは私にとっては突然の話だった。
“今日は遅くなってもいい”
“金山の夜景がきれいだよ”
“ムードあるピアノの音楽カセット”
お母さんと事前に相談している気がしてきた。
さっきまで、村岡良子の手を握っても大丈夫かなと思っていた。
村岡良子の肩に手を回しても大丈夫かなと思った。
こんな時は映画のように恋人同士になれそうな気がした。
このドライブを楽しい思い出にしたかった。
カチッ。「ノクターン」のカセットが終わる音がした。
音楽の終わりの音で気持ちが冷静に戻った。
映画の途中で用事を思い出した気持ちになってきていた。
心残りだがまだもっと大切な事があるように思えた。
「今日の文化祭楽しかったね、ありがとう」
「そうね、私も楽しかった」
「今何時ごろになる?」
「まだ、7時半・・・」
「そろそろ帰ろうか」
「そうね、千葉へ帰るのが遅くなっちゃうね」
村岡良子は3本目のカセットを入れた。
「白鳥」の音楽が流れてきた。
「いい曲だね、走りながら聴いてみたいね」
「ええ、私この曲大好きなの」
「家の近くまで送ってくれる」
「ええ、コーラとサンドウィッチがあるの、食べる?」
「ああ、そういえば、腹が減ってきた」
「私が作ったの、食べて」
「ありがとう、じゃあ走りながらでもいい」
「ええ、今度いつ来るの」
「夏休み頃になると思う」
「手紙出してくれる?なんでもいいから、待っているね」
「うん、必ず出すよ」
すべてが中途半端だった。二人とも消極的な性格だった。
お膳立てされても経験のないものはできなかった。
この先に進む勇気もなかった。村岡良子の気持を優しく受けたい気持ちもあった。
小中可南子が好きだといって、村岡良子を傷つけたくない気持ちもあった。
二人とも可能性を残しておきたいという狡さもあった。
走る車の中では「白鳥」の音楽が寂しく流れていた。
家に向かう二人は言葉が少なかった。何か申し訳ないような気分だった。
小中可南子との会話も村岡良子との会話も将来につなぐ言葉は言えなかった。
みんな自分の自信のなさだった。家の近くで車を止めてもらった。
「じゃあ早川君、元気でね」
「うん、ありがとう」
「必ず、手紙ちょうだい」
「うん、出すよ」
車はゆっくり走り去った。田舎の暗い道を闇の中に消えていった。
映画のひと幕が閉じたような気がした。
家の玄関を入っていった。母ちゃんが険しい顔をして近づいてきた。
あのダミ声であま~い思いがすべてすっ飛んだ。これが現実か。
「たかし、こんな遅くまで何してたん」
「加藤んちで遊んでいたんだよ」
「たまにしか帰って来ないんだから、少しはうちにいなきゃだめだよ」
「ちょっと用事があったんだよ」
「ごはんどうするん」
「軽く食べてきたよ」
「せっかく好きなもん用意したんだよ、まったく」
「食べるよ・・・・」
「だって、もう帰る時間だろ」
「うん」
「包んでやるよ」
お膳には稲荷寿司と海苔巻きと固めのキンピラが載っていた。
姉ちゃんが「たかし、何してたん。父ちゃん怒ってるぞ」
兄ちゃんが「いいがな、誰だって都合があるよ」
弟はニヤニヤ笑ってる。
父ちゃんが「この馬鹿やろう、少しは家族の事を考えろ!」
口の中に食物を入れたまま怒っている。ご飯粒が飛んでくる。
ああ、ロマンチックな気分はいっぺんに覚めてしまった。
現実は過去の延長で進んでいる。私の現実はここなんだ。
まだ自分は恋愛できる身分ではない。早くこの場を逃げたくなった。
母ちゃんがバックに下着と稲荷寿司など詰めている。
「父ちゃんに謝ってから行け」
特に悪い事をした覚えがない。
「父ちゃん、どうもすみませんでした」
「チョコ、チョコうちに帰ってこなけりゃだめだぞ」
「はい・・・」
触らぬ神にたたりなしだ。口答えしたら長くなる。
母ちゃんがバックを渡してくれた。
「じゃあな頑張れよ、姉ちゃんも兄ちゃんも頑張っているんだからな」
母ちゃんがバス停まで送ってくれた。
「腹が減ったら、駅で何か買って食べろ」
ポケットに千円札を入れてくれた。
「うん、又来るよ」
まもなく熊谷行きのバスが来た。バスには誰も乗っていなかった。
薄暗い灯りのバスに乗り込んだ。
途中、利根川を渡った。利根川の水は暗い闇の中をゆっくり流れていた。
利根川の刀水橋を渡りきった。やっとこれで自分の世界へ戻れた気がして安心した。
長い1日だった。天国と地獄の両方を散歩してきたような思いだった。
今日からはこの心の中に小中可南子の新しい映像がある。
それも、声も香りも付いた映像だ。どんな事があっても頑張れる。
ポケットの詩集を取り出した。1ページ目の白紙に小中可南子の姿が浮かんできた。
今日からはこの心の中に小中可南子の新しい映像がある。
それも声も香りも付いた映像だ。どんな事があっても頑張れる。
千葉の独身寮に11時半ごろついた。部屋の中は冷え切っていた。
机の上には国語の参考書が開いたままになっていた。
今日は寝ちゃおうかなという自分と、少しだけでも進めておこうという自分がいる。
今、努力した分は必ず将来につながっていく。
その日も2時まで勉強した。少しでも取り戻しておきたかった。
布団の中で今日の出来事を思いだした。眠りにつくまでは楽しい映像で満たされる。
その映像のストックは心の中にいっぱい蓄えた。
頑張ろうという意識は向上心にある。向上心は希望から生まれる。
希望は、未来の自分の姿を想像することで生まれる。
憧れの人と釣り合いの取れる人間になりたい。
恥ずかしい気もするけど自分の希望はそれで充分だった。
世のため、人のためなんていうのは遠いおとぎ話の世界だった。
日記の予定表にはいくつかの行事が書いてある。
6月にはコーラス部の合宿で、葉山に行く。
7月には、コーラス部の発表会が神田の協立講堂で開催される。
8月の盆休みの所に、“太田に帰省”と書き加えた。
もうあの二人には合えないような気がしている。
両方とも中途半端な会話で終わっている。
未来へつなげる会話をする事ができなかった
小中可南子とは次に会う日の約束をする事ができなかった。
村岡良子には優しい言葉をかけて上げる事はできなかった。
11月に大学入学要綱と願書購入。
1月に大学の願書提出。
2月上旬に入学試験。
2月末に合格発表。
その先は何もない。この一点に集中するだけだ。
甘酸っぱい思い出は心の奥の片隅にしまい込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この続きは2部「少年からの脱皮」として別冊で連載致します。
どうぞ引き続きご覧下さい。
お互いに緊張して、ぎこちない雰囲気となった。
「お母さんがへんなこと言ってごめんね」
「うん、別に気にしてないよ」
「お母さんなんでも言っちゃうのよ、恥ずかしくって」
「うん、気さくでいいお母さんだよ」
「どこへ行きたい?」
「うん、どこでもいいよ」
「今日は何時ごろまでいられるの」
「千葉の寮まで、ここから3時間くらいだから、9時ごろかな」
「じゃあ、あと3時間以上あるね。
「いいけど、村岡さんのほうは何時までいいの?」
「お母さんがね、今日は遅くなってもいいって」
金山は好きな所だ。「子育て呑竜」の名で知られた大光院というお寺の裏山になっている。
なぜ村岡良子は私が金山を好きなことを知っているんだろう。
「遅くなってもいい」というお母さんの言葉が耳に残っていた。
金山は小さな山だからそんなに時間はかからない。
車の中は村岡良子の匂いがする。小中可南子とは又違った香りだった。
女の子と二人だけになるなんて初めてだった。当たりは薄暗くなってきている。
「金山の夜景はけっこうきれいなんだって」
「行ったことがあるの」
「ううん、お母さんが言っていたの」
「へえ~、なんで知っているんだろう」
「去年の大晦日の夜、除夜の鐘を聞きに夫婦で行ったんだって」
「ふ~ん、この時間に金山に行くのは初めてだよ」
「そう、じゃあ夜景でも見てみる?」
「うん、そうしようか」
車は金山に向かった。村岡良子の運転は思ったより安心できた。
車を運転する村岡良子の横顔はいっそう引き締まって見えた。
「あのカセットテープ、まだ聴いていないんだけど・・」
「うん、もういいの、たいしたことじゃないの」
「ふーん、でもちょっと気になるな」
「ええ、千葉に着いた時ね、お疲れ様というようなことだけ・・・」
「カセットを聞く機械を持ってないんだよ」
「ごめんね、それを気が付かなかったの」
「機会があったら聴いてみるよ」
「ウフフ、それダジャレ」
「あ、そうか・・・」
「もう気にしないで、ほんとに挨拶程度なんだから」
「うん、わかった」
ダジャレ一つで一気に緊張感がなくなった。
2~30分で金山の展望台の所の駐車場に付いた。
他にも2~3台の車があった。車から降りて展望台への階段を登った。
眼下に見える町の灯りがきれいに見えた。
国道を走る車のライトが帯のように長く続いている。
その光の帯は蛍の行列のように流れていた。
利根川を流れる水が白い糸のように見えた。
ロマンチックな気持ちになった。辺りは音もなく静かな所だった。
しばらく無言で眺めていた・・・・・・。
山の上から見る壮大な夜景を見ていると言葉はいらなかった。
お互いにそれぞれの思いを巡らしていた。
「ちょっと寒くなってきたわね」
「うん」
「車に戻る・・・」
「うん・・・」
車に戻り夜景の見える場所に車を移動させた。
少し走ると、車の中からでも夜景の見えそうな場所があった。
金山から見る夜景は初めてだ。エンジンを止めると車の中は音のない世界だった。
村岡良子の息づかいまで聞こえるようだった。二人とも積極的な性格ではなかった。
なかなか会話は始まらなかった。それでもきれいな夜景が気持ちを和らげてくれた。
「覚えている、初めて早川君がうちに来たときの事」
「いつ頃だったっけ・・・」
「高校3年の時のお正月よ、1月3日だったよ」
「あそうだね、加藤に連れられていったんだよ」
「びっくりしっちゃた、あたし早川君が来るのを知らなかったの」
「あ、覚えているよ、赤いおいしい物を飲ませてもらったね」
「あれ、ワインよ、赤玉ポートワインっていうお酒だったのよね」
「うまかったな、生まれて初めて飲んだんだよ」
「早川君、酔っ払ってイビキをかいて2~3時間寝ちゃったのよ」
「そう、何か気持ちがフワ~っとして、そのあとはよく覚えてないよ」
「うそ、あの時あたしの事を可愛いっていったんだよ」
「ええ?覚えてないよ」
「やっぱりね、二人ともけっこう酔ったみたいだからね」
恥ずかしくなってきた。そのほかに、何を言ったのか不安になってきた。
お酒とは知らないで2~3杯飲んだような気がする。
壮大な夜景は時間を追う毎にいっそう輝きを増してきた。
車の中は暗かった。
「何か音楽でも聴く?」
「車で聞けるの?」
「ええ、カセットテープがあるからね」
「へ~、行進曲なんかある?」
「ウフフ、そういうのはないけど、ピアノとかのクラシックなの」
「聴いた事はないけど、なんでもいいよ」
「じゃあ、月光ソナタはどう、かけてみるね」
「うん」
ベートーヴェン「月光ソナタ」は第1楽章から始まった。
まるで映画の中のラブシーンでも体験しているようだった。
目の前には壮大な夜景、ほの暗い車の中にはピアノの快い響き。
横には村岡良子が優しい顔をしてくつろいでいる。
そういえば、父ちゃんの浪曲好きにはいつも悩まされた。
父ちゃんは夜仕事から帰ってくるとラジオの浪曲番組をさがした。
潰したような声で唸る浪曲が始まると勉強が手に付かなかった。
家庭環境が違うとこんなにも世界が違うんだなと感じた。
「さっきの話に戻るけどね」
「うん・・・」
「二人がワイン飲んで酔った時にね」
「うん・・・」
「誰か好きな人いるのって、ふざけて聞いたのよ」
「ええ~、覚えてないな・・・」
「加藤君は、同級生の田村さんだって」
「ええ~、村岡さんじゃなかったんだ」
「早川君はね、誰の名前出したと思う?」
「ええぇ~、俺も誰かの名前言ったんだ」
「誰だと思う?2人も言ったのよ」
「覚えてないよ、もし言ったとしても冗談だよ」
急にハラハラしてきた。
「吉永小百合と、浅丘ルリ子だって、笑っちゃった」
「ああ、ほっとしたよ」
「それからね、小中可南子さんが吉永小百合に似ているんだって」
「うわ~、名前出しちゃたんだ」
「浅丘ルリ子が私なんだって、酔ってお世辞言ってたよ」
「もう最悪だね、ほんとに言ったんだ」
「私がどっちのほうが一番って聞いたの?」
「何て答えた」
「どっちが好きなんてないよ、それぞれ魅力が違うよだって」
よかった。酔っていても本音はいってなかった。
カセットテープのカチャッという音がした。
「月光ソナタ」が終わったようだ。
「次は、ショパンのノクターンかけてみるね」
「ピアノっていいもんだね、初めて知ったよ」
車の中のムードが変わった。
しばらく音楽を聴きながら夜景を眺めていた。
村岡良子の小さな胸の膨らみがシルエットで視界に入る。
少し妙な気分になってきた。気を付けなければと心を引き締めた。
暗い車の中で村岡良子が私のほうに顔を向けた。
「早川君、ちょっと聞いていい」
「うん、なに・・」
「もしかしたら、小中さんのこと好きなの」
ゆったりとした気持ちが突然緊張感に変わった。
叶わぬ片思いではあるが、小中可南子は憧れの人だ。
万に一つでも可能性は残しておきたい。返事がなかなか出来なかった。
嘘はつきたくないしこの場の雰囲気も壊したくなかった。
返事が遅いという事も返事の一つになる。
まだ、村岡良子と心を通じての会話はできていない。
お互いに自分の思いを話せる仲ではなかった。
自分の思いは心にしまっておかなければならない時期がある。
「もし、好きだとしても、どうにもならないよ」
「アタックしてみたら」
「今は、来年受験する事で頭がいっぱいだよ」
「そうよね、今は大事な時期だものね・・・」
「村岡さんや、小中さんに会えただけで嬉しいよ」
「可南子さん、いい人よ」
「うん、それより村岡さんは誰が好き?」
「う~ん、私もまだいえないの」
もう、自分の心を見抜いたようだった。
自惚れてはいけないが、もしかして村岡良子は私に興味があるのかもしれない。
自分は小中可南子に片思いしている。村岡良子は私に片思いしているのだろうか。
そうだとすれば。今日のドライブは私の気持ちを確かめるためのものなのだろうか。
そんな事はない。いや、その可能性はある。今日の目的は文化祭だった。
金山へのドライブは私にとっては突然の話だった。
“今日は遅くなってもいい”
“金山の夜景がきれいだよ”
“ムードあるピアノの音楽カセット”
お母さんと事前に相談している気がしてきた。
さっきまで、村岡良子の手を握っても大丈夫かなと思っていた。
村岡良子の肩に手を回しても大丈夫かなと思った。
こんな時は映画のように恋人同士になれそうな気がした。
このドライブを楽しい思い出にしたかった。
カチッ。「ノクターン」のカセットが終わる音がした。
音楽の終わりの音で気持ちが冷静に戻った。
映画の途中で用事を思い出した気持ちになってきていた。
心残りだがまだもっと大切な事があるように思えた。
「今日の文化祭楽しかったね、ありがとう」
「そうね、私も楽しかった」
「今何時ごろになる?」
「まだ、7時半・・・」
「そろそろ帰ろうか」
「そうね、千葉へ帰るのが遅くなっちゃうね」
村岡良子は3本目のカセットを入れた。
「白鳥」の音楽が流れてきた。
「いい曲だね、走りながら聴いてみたいね」
「ええ、私この曲大好きなの」
「家の近くまで送ってくれる」
「ええ、コーラとサンドウィッチがあるの、食べる?」
「ああ、そういえば、腹が減ってきた」
「私が作ったの、食べて」
「ありがとう、じゃあ走りながらでもいい」
「ええ、今度いつ来るの」
「夏休み頃になると思う」
「手紙出してくれる?なんでもいいから、待っているね」
「うん、必ず出すよ」
すべてが中途半端だった。二人とも消極的な性格だった。
お膳立てされても経験のないものはできなかった。
この先に進む勇気もなかった。村岡良子の気持を優しく受けたい気持ちもあった。
小中可南子が好きだといって、村岡良子を傷つけたくない気持ちもあった。
二人とも可能性を残しておきたいという狡さもあった。
走る車の中では「白鳥」の音楽が寂しく流れていた。
家に向かう二人は言葉が少なかった。何か申し訳ないような気分だった。
小中可南子との会話も村岡良子との会話も将来につなぐ言葉は言えなかった。
みんな自分の自信のなさだった。家の近くで車を止めてもらった。
「じゃあ早川君、元気でね」
「うん、ありがとう」
「必ず、手紙ちょうだい」
「うん、出すよ」
車はゆっくり走り去った。田舎の暗い道を闇の中に消えていった。
映画のひと幕が閉じたような気がした。
家の玄関を入っていった。母ちゃんが険しい顔をして近づいてきた。
あのダミ声であま~い思いがすべてすっ飛んだ。これが現実か。
「たかし、こんな遅くまで何してたん」
「加藤んちで遊んでいたんだよ」
「たまにしか帰って来ないんだから、少しはうちにいなきゃだめだよ」
「ちょっと用事があったんだよ」
「ごはんどうするん」
「軽く食べてきたよ」
「せっかく好きなもん用意したんだよ、まったく」
「食べるよ・・・・」
「だって、もう帰る時間だろ」
「うん」
「包んでやるよ」
お膳には稲荷寿司と海苔巻きと固めのキンピラが載っていた。
姉ちゃんが「たかし、何してたん。父ちゃん怒ってるぞ」
兄ちゃんが「いいがな、誰だって都合があるよ」
弟はニヤニヤ笑ってる。
父ちゃんが「この馬鹿やろう、少しは家族の事を考えろ!」
口の中に食物を入れたまま怒っている。ご飯粒が飛んでくる。
ああ、ロマンチックな気分はいっぺんに覚めてしまった。
現実は過去の延長で進んでいる。私の現実はここなんだ。
まだ自分は恋愛できる身分ではない。早くこの場を逃げたくなった。
母ちゃんがバックに下着と稲荷寿司など詰めている。
「父ちゃんに謝ってから行け」
特に悪い事をした覚えがない。
「父ちゃん、どうもすみませんでした」
「チョコ、チョコうちに帰ってこなけりゃだめだぞ」
「はい・・・」
触らぬ神にたたりなしだ。口答えしたら長くなる。
母ちゃんがバックを渡してくれた。
「じゃあな頑張れよ、姉ちゃんも兄ちゃんも頑張っているんだからな」
母ちゃんがバス停まで送ってくれた。
「腹が減ったら、駅で何か買って食べろ」
ポケットに千円札を入れてくれた。
「うん、又来るよ」
まもなく熊谷行きのバスが来た。バスには誰も乗っていなかった。
薄暗い灯りのバスに乗り込んだ。
途中、利根川を渡った。利根川の水は暗い闇の中をゆっくり流れていた。
利根川の刀水橋を渡りきった。やっとこれで自分の世界へ戻れた気がして安心した。
長い1日だった。天国と地獄の両方を散歩してきたような思いだった。
今日からはこの心の中に小中可南子の新しい映像がある。
それも、声も香りも付いた映像だ。どんな事があっても頑張れる。
ポケットの詩集を取り出した。1ページ目の白紙に小中可南子の姿が浮かんできた。
今日からはこの心の中に小中可南子の新しい映像がある。
それも声も香りも付いた映像だ。どんな事があっても頑張れる。
千葉の独身寮に11時半ごろついた。部屋の中は冷え切っていた。
机の上には国語の参考書が開いたままになっていた。
今日は寝ちゃおうかなという自分と、少しだけでも進めておこうという自分がいる。
今、努力した分は必ず将来につながっていく。
その日も2時まで勉強した。少しでも取り戻しておきたかった。
布団の中で今日の出来事を思いだした。眠りにつくまでは楽しい映像で満たされる。
その映像のストックは心の中にいっぱい蓄えた。
頑張ろうという意識は向上心にある。向上心は希望から生まれる。
希望は、未来の自分の姿を想像することで生まれる。
憧れの人と釣り合いの取れる人間になりたい。
恥ずかしい気もするけど自分の希望はそれで充分だった。
世のため、人のためなんていうのは遠いおとぎ話の世界だった。
日記の予定表にはいくつかの行事が書いてある。
6月にはコーラス部の合宿で、葉山に行く。
7月には、コーラス部の発表会が神田の協立講堂で開催される。
8月の盆休みの所に、“太田に帰省”と書き加えた。
もうあの二人には合えないような気がしている。
両方とも中途半端な会話で終わっている。
未来へつなげる会話をする事ができなかった
小中可南子とは次に会う日の約束をする事ができなかった。
村岡良子には優しい言葉をかけて上げる事はできなかった。
11月に大学入学要綱と願書購入。
1月に大学の願書提出。
2月上旬に入学試験。
2月末に合格発表。
その先は何もない。この一点に集中するだけだ。
甘酸っぱい思い出は心の奥の片隅にしまい込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この続きは2部「少年からの脱皮」として別冊で連載致します。
どうぞ引き続きご覧下さい。