第10話 職場の慰安旅行では

文字数 5,352文字

南房総「鯛の浦」への慰安旅行の日

身の回りに起きる事はどっかで何かとつながっている。
すべての言葉はそこで終わらない。自分の口から外に出て独り歩きを始めていく。
過去の出来事が現在の行動につながり未来を作り出していく。

雑貨屋の前にある郵便ポストに手紙を投函した。
明日には村岡良子の手元に届く。村岡良子が手紙を読む頃は職場の慰安旅行だ。
慰安旅行では宮原澄子と親しくなれそうだ。
ああ、何て俺は馬鹿なんだ!女の事ばかり浮かんできている。
たった1ヶ月前まではこんな事考えても見なかった。
好きな女の人が傍にいたらいいなあと思っているだけだった。
みすぼらしい格好をしているとどうしても消極的になってしまう。
物心ついてから何年もそういう生活を続けているとそれが当たり前になっていた。
自分から声をかけることはなかった。
男女の楽しそうな世界は小説や詩集を読んで空想しているだけだった。
現実にデートできるなんて実感はなかった。

私には貧乏の習慣が体に浸み込んでいる。今までバナナも食べた事がなかった。
この独身寮に入って夕食にバナナが出たとき初めて1本丸ごと食べた。
靴下を履くようになったのも高校からだった。ハンカチを持つ習慣もなかった。

小中可南子も村岡良子もみんな頭の中でしか考えなかった。
少し現実味は出てきたが別の世界に住む人たちに変わりなかった。
2人の好ましい女の人を頭の中で思い描いてほのぼのとした気分になる。
ああいいな、と思うだけで充分だと思っている。宮原澄子だってまだ現実とは遠い。

勉強をして大学に入って国語の先生になる。やっとそこで同じステージに立てる。
大学卒業、教員試験合格、国語の教師。それが現実となった時全てはそれからだ。
気持ちは揺れている。何とか近づきたい。一緒に散歩したいという思いある。
でも現実感はなかった。だから、どうしたらいいかということまで思いつかない。
流れる運命の中で近くになったり遠くになったりしているしかない。

今は勉強をして一歩一歩前に進むしかない。
この連休に遅れた学習分を取り戻したかった。
明日は、南房総「鯛の浦」へのバス旅行。
このまま勉強していたい。行きたいような行きたくないような気分だ。

当日の朝、7時に起きた。今日は職場の慰安旅行。
保全課の新入社員歓迎会もかねている。
保全課は、全部で30名位だった。事務所に10人くらい、あとは現場の人だった。
新入社員は私と、市原憲次、宮原澄子の3人だった。男ばかりの職場だった。
事務所にはもう一人20代後半の女性がいた。旅行に出席するのは26人だった。

9時に観光バスが社宅前に到着する。それに乗り込めばいいといっていた。
朝8時半頃食堂で朝食を済ませた。「鯛の浦」あまり聞いたことがなかった。
案内書には南房総、天津・小湊方面と書いてあった。遊覧船に乗るといっていた。

先日買った靴やカーデーガン、ズボンがあったので服装で悩む事はなかった。
1泊くらいじゃ着替えもいらないと思い、手ぶらで行く事にした。
室生犀星の文庫本だけはポケットに入れた。その中に歴史の年表も挟んでおいた。
読むこともないと思うが身に付けているとなぜか安心する。
社宅前に行くともう観光バスが来ていた。車内にはすでに10名くらい乗っていた。
バスガイドさんが外に出て旗を持っている。

まだ入社して1ヶ月なので全員の顔と名前が一致していない。
特に事務所の人はわからない。宮原澄子、芋生課長さんだけはわかる。
「おはようございます」取り繕った元気な声で乗り込んだ。
車内を見渡しできるだけ人のいない所へ座った。
人と話す事が苦手なので、どうしても人のいる所を避けてしまう。
社宅や独身寮からだんだん人が集まってくる。みんな手にはバックを持っている。
バックの中身はなんだろう。不安になってきた。何か忘れてはいないだろうか。

社宅に住んでいる伊藤主任もやってきた。
奥さんが見送りに来ている。家族3人で歩いてくる。お子さんも一緒だった。
確か中学生といっていた。吉永小百合に似ていた。かわいい顔をしている。
胸も少し膨らみかけている。心は人には見えないはずだが、恥ずかしくなってきた。

伊藤さんの家族がバスの窓の近くに寄って来た。
奥さんは食堂の賄いをしているので顔見知りだ。
「おお、早川、おはよう」
窓辺で声をかけられた。
「これが前に言っていた娘、小夜子だよ」
「おはようございます」
小夜子さんは私を見てニコッとした。
素直そうな明るい子だ。
「どうだ、可愛いだろう」
「ええ、まあ・・・・」
「たまには、勉強見てやってくれよ」
「そんな、私には無理ですよ」
「大きくなったら嫁にもらってくれるか、あはは」
伊藤主任は冗談を言いながらバスの入り口に向かった。
奥さんと小夜子さんは、少しバスから離れて見送っている。

伊藤小夜子。
私のほうを時々見ている。年下の子もいいなと思った。

バスは40人乗りで車内はゆったりしている。
それぞれ職場の仲間どうしで雑談している。
宮原澄子と市原憲次は八幡宿の駅で合流するといっていた。

午前9時30分バスは走り出した。
バスは途中で何人かの人を拾いながら八幡宿の駅に向かった。
八幡宿の駅では電車通勤組みが5~6人待っていた。
市原も宮原澄子も待っていた。宮原さんは遠めで見るとけっこう美人だった。
私服を着ているので一層きれいに見えた。目は大きいがクリッとした目ではない。
まぶたが大きいのか目に少し被っている。それでいつも眠そうな目をしている。
それでトロ~ンとした顔に見えるのかもしれない。なんか安心感がある。
宮原澄子になら気軽に話ができるような気がした。
宮原澄子と話ができれば、女の人と会話することに慣れるかもしれないと思った。
宮原さんが隣に座ってくれないかなと期待した。

宮原さんと市原が、話をしながらバスに乗り込んできた。
「おはようございます、皆さんおそろいですね」
市原は相変わらず大人びた口をきく。市原は車内を見渡し私を見つけたようだ。
宮原さんとこっちへ向かってやってくる。「おお、早川、おはよう」
まるで先輩のようだ。どっかでこの序列が決まってしまった。
市原も茶色いバックを持っていた。当たり前のように私の横に座り込んだ。
ああ、これで望みがなくなった。宮原さんは私のひとつ前の席に座った。
宮原さんの黒い髪が後ろの席に少しこぼれている。
私の目の前にその黒髪がある。その黒髪が宮原さんの動きに合わせて動いている。
まるで髪が生きているようだった。触りたくなって気持ちがドキドキした。
市原も宮原さんも手に持っていたバックを上の棚に載せている。

「早川、おまえのバックはこれ?隣におかせてくれる」
「荷物って?持って来てないよ」
「なに、手ぶらなの、下着や着替えどうするの」
「何もないけど」
「遊覧船に乗ったりすると、その格好じゃ寒いよ」
「ええ、だって今日晴れているよ」
「温泉に入るんだから、着替えは必要だよ」
「一日や二日くらい、着替えなくたって、どうってことないよ」
「じゃあ、靴下や、タオルは?」
「え、なんにも・・・・・」
「何も持ってきてないの、変わっているなお前は」

下着なんて1日でそんなに汚れない。靴下なんてはいていなくても気にならない。
修学旅行の時は旅館にタオル、歯ブラシ、歯磨きがセットで付いていた。
宮原さんもクスクス笑い出している。
笑う度に後ろの座席にはみ出した黒髪も揺れていた。
目の前にはみ出した髪は自分のもののような気がした。

宮原さんがバックの中からチューインガムを取り出した。
「早川君、これ食べる」
「なに、これ?」
「チューインガムよ」
「どうやって食べるん」
平たい紙に包んだチューインガムを渡してくれた。
話には聞いたことがあるが、手にしたのは初めてだった。
ガムは、甘くてハッカの香りがした。
「早川、飲み込んじゃじゃだめなんだぞ」
「ええ、なんで」
「ガムって、ずうっと噛んでいるだけなんだよ、知らないの」
「なんで、食べられないの」
「こいつ、ばっかみたい」
「じゃあ、このあとどうすればいんだよ」
「口から出して、紙に包んで捨てるんだよ、ほんとに知らないの?」
そんな食べ物があること自体信じられなかった。
食べられない食べ物。その時初めてガムを噛んだ。又宮原さんに笑われてしまった。

バスの中が賑やかになってきた。
酒やビールやおつまみを取り出して、あっちこっちで宴会が始まりだした。
車内の飲み物や食べ物は各人がバックに入れて持参していた。
肩身が狭くなってきた。また準備が足りなかった。
自分だけが仲間はずれになったようで気持ちが沈んできた。

<観光バスの車内>
宮原さんにもらった卵焼きはほんとにうまかった。
黄色い色をしていた。ほんのり甘かった。
卵が甘いなんて初めてだった。卵焼きが黄色いなんて不思議だった。
・・・・・・
うちでは裏の農家から卵を買ってくる。
それは自分の役目だった。100円で10個売ってくれた。
私が行くと1個おまけをしてくれる。
姉ちゃんがいっても兄ちゃんがいってもおまけはなかった。
母ちゃんは卵を買いに行く役目を私にした。
人は小さい頃から世間の評価を受けている。
私が一番おとなしかった。あんまりしゃべらなかった。
おとなしいのはトクだなあと思った。
田舎では「おとなしい子だね」が“いいこ”の目安だった。

母ちゃんは2個の卵をどんぶりに入れ、黄身と白身が溶けてなくなるまでかき回す。
良くかき回さないと兄弟喧嘩になる。白身と黄身が不公平に分かれてしまう。
母ちゃんはそこに醤油をたっぷり入れる。
もう卵の味がなくなっちゃうよと思うくらい入れる。
そうしないとご飯のおかずにならないと言っていた。
卵焼きは、焦げてもわからないくらい茶色い色をしていた。
それでもうまかったなあ
・・・・・・・

隣の市原がポケットから茶色い小さなビンを出した。
トリスウイスキーのポケット瓶だった。タバコを吸いながらラッパ飲みをしている。
こいつ正真正銘の不良だなと思った。ウイスキーなんて飲んだ事はなかった。
「早川ちょっと飲んでみるか」
「いいよ、俺は」
「いいからちょっと飲んでみろよ」
「どうやって」
「瓶から直接飲むんだよ」
「いいよやっぱり」
「遠慮すんなよ」
市原の口の付けた瓶なんて飲みたくなかった。でもどんな味か興味が湧いてきた。
市原が瓶を渡してくれた。甘い感じの刺激のある香ばしい匂いがする。
ドクドクッとジュースのように飲んでしまった。
「あ、あ、あ~あ」
市原がびっくりしている。
口の中がカーッと熱くなった。喉がヒリヒリする。食道に熱いものが下りていく。
胃が熱くなってきた。
「うわー!辛い、なあにこれ!」
「ばか、ウイスキーを飲み込んじゃう奴がいるかよ」
「だって、飲んでみろって、いったろー」
「ウイスキーは舐めるように飲むんだよ」
「そんなん、言ってくれなきゃーわかんないよ」
胃が熱くてたまらない。
「だれか!水持っている」
市原が周りに声をかけてくれた。宮原さんが紙コップに水を入れてくれた。
「こいつ、ウイスキーをガブって飲んじゃったんだよ」

あま~い、いい香りのした飲み物の正体がわかった。
こんなに匂いと味が違うものは初めてだった。飲み物は見かけによらない。
宮原さんは「ウフフッ・・」と笑っていた。
人の不幸を笑う奴はいないよなと思ったが、宮原さんは許せた。
女のウフフって不思議な言葉だった。快い刺激がある。

2年先輩の篠原さんが面白半分に寄ってきた。
篠原さんは職場ではヒョウキン者で人気があった。
冗談やダジャレで回りを明るい雰囲気にする人だった。
「早川、お前ばかか、ウイスキーをガブ飲みする奴なんかいないぞ」
「ええ、知らなかったんです」
「ガブ飲みするならこれを飲めよ」
「なんですか、これ」
「焼酎くらい飲んだ事があるだろう」
「いいえ、まだありません」
「これなら、水とおんなじだよ」
篠原さんが焼酎の小瓶から、紙コップについでくれた。
「ホラ飲んでみな!」

ちょっと変な匂いがしたが真っ白な水のような色なので安心した。
また、ごくりっと飲んでだ。うわー、また騙された。また胃が熱くなってきた。
胃の中にまた熱いものが流れていった。
液体は冷たいのに胃に入ると熱くなるのが不思議だった。
「こいつ、本物の馬鹿かもしんねえ~」
「篠原さん、こいつ焼酎飲んだ事がないんですよ」
「俺なんかショッチュウ飲んでいるよ」
篠原さんは一発ダジャレを放って仲間の所に戻っていった。
顔が熱くなり気持ちも朦朧とし始めてきた。
周りがふわふわと回り始めている。体に力が入らない。

今までうるさかった周りの喧騒が気にならなくなってきた。
だんだん胃の熱さはなくなってきたが、目が定まらなくなってきた。
「おい、早川、大丈夫か?」
「うん、らいじょうぶらよ」
言葉がうまくしゃべれない。
宮原さんも心配そうに前の座席から覗き込んでくれた。
さっき見た時より、ずうっと美人に見えてきた。
「早川君、大丈夫、これ飲んだほうがいいよ」
「すいまへん、ありがろう・・・」
言葉が普通ではない。もう目の前のものしか見えなくなっていた。
宮原さんに貰った缶ジュースはうまかった。宮原さんがいい人に見えてきた。
優しいなあと思えてきた。前より美人に見えてきた。
さっきよりもっと愛おしくなってきている。
何か貰うとその人が良く見えてくる。貧しい生まれがそうさせてしまう。

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