第15話 なぜ父ちゃんは怖い

文字数 5,064文字

家の前には小さな川が流れている。生活排水用の川だ。母ちゃんがいろんなものを捨てる。
家の物置の前には父ちゃんの自転車がある。父ちゃんが帰ってきている時間だ。
玄関に鍵はかかっていなかった。玄関を上がると4畳半がある。
その奥には台所とお風呂。左側に6畳の部屋が2部屋の、小さなボロな平屋だった。

玄関のガラス戸を開ける音で母ちゃんが出てきた。
「ああ、たかしか、いつ帰ってきたん」
「昼の2時ごろ、さっきまで加藤君ちにいたんだよ」
「そうか、ご飯どうする」
「加藤君ちで食べてきたよ」
「じゃあ、お茶でも飲みな」

1ヶ月振りの家だった。少し生活レベルが上がったようだ。小さなテレビがあった。
薄汚れた白黒テレビだった。一見中古だとわかった。
画面がレンズのように丸かった。家族5人が食い入るように見ていた。

そこへ私が顔を出した。姉ちゃんも、兄ちゃんも、弟も珍しそうに私を眺めた。
そしてまたテレビのほうに目を向けた。テレビではNHKのお笑い番組やっていた。

お土産の鯛せんべいと鯛みそを父ちゃんに渡した。
「これ、お土産」
「うちに帰ってくるのに、お土産はいらねえよ」
「バス旅行のお土産・・・」
「どっかへ行ってきたんか」
「鯛の浦っていう所・・・」
「ふ~ん・・・」
あんまり関心はなさそうだ。
またテレビに目を向ける。テレビがあれば会話がなくても自然に過ごせる。
うちの家族にとってはよかったようだ。私も根掘り葉掘り聞かれなくって助かった。
まだ大学の件は話していない。合格したときに話そうと思っている。

父ちゃんが本題に入ってきた。
「給料はチャンと出たんか」
「うん、月末に2万円くらい」と5千円少なく言った。
「手取りでいくら位になるんだ」
「う~ん、色々ひかれて1万2~3千円かな」また、さらに5千円少なく言った。
「それで、やっていけるんか」
「うん、寮だから大丈夫」
「多少、家にも入れられるんか」早速催促が入った。
「うん、5千円くらいなら」
新しい5千円札を財布から出して渡した。
「無理しなくてもいいんだぞ」
といいながらもお金をさっと財布にしまった。
この瞬間に1ケ月5千円が上納金として決定した。もっと要求されると思っていた。

母ちゃんが稲荷ずしと沢庵を持ってきた。
「寮のご飯はどんなんがでるん」
「う~ん、焼き魚とか、サラダとか・・・」
「それで足りるんか・・」
「うん、お代わりは自由だから」
「へえ~、麦は入っていないんか?」
「うん、米だけの白いご飯・・・」
兄弟の前で食事の内容は言いたくなかった。

みんなテレビを見ながら私の話しを聞いている。
「仕事は何してるん?」
「まだ、これといった事はしていない・・・」
テレビがあるから、話はポツリポツリでよかった。
かあちゃんもいつもより言葉遣いが優しい。
「あしたはどうするん」
「朝8時に加藤んちへ行って、3時ごろ帰ってくるよ」
「じゃあ、何時ごろ千葉に帰るんだ」
「う~ん、5時ごろには家を出るよ」
「じゃあ、その時これもってけ」
新しい下着2枚とパンツ2枚を渡された。
「お風呂に入って今日はゆっくり休め」

1ケ月ぶりに帰ってきたせいか父ちゃんも普段よりおとなしかった。
家族6人久しぶりにそろったなあという感じだった。
会話は途切れ途切れだが1ケ月前より平和な感じがした。
貧乏から少し抜け出したような気がした。
姉ちゃんも兄ちゃんも働いているの。父ちゃんの稼ぎよりだいぶ上だった。
少し生活に余裕が出てきたのか、家族の雰囲気が穏やかに感じた。
弟も稲荷ずしを食べながら沢庵かじってテレビを眺めていた。

明日は加藤と一緒に村岡良子に会う事は言わなかった。
お風呂に入っていつものせんべい布団にもぐりこんだ。
自分の匂いが染み込んだ布団だった。
自分の意思で抜け出した家ではあるが、ここには別の安心感があった。

<初恋の人に合える>
群馬県の太田市の北のほうに、金山という小さな山がある。
“子育て呑龍さま”と呼ばれる大光院というお寺の裏山になる。
標高300m位の小さな山だ。高校生の頃はそこに登るのが好きだった。
月に何回か歩いて登った。頂上では太田の町並みが一望できた。
遠く南のほうには利根川の流れが白い糸のように光って見えた。
あそこが小中可南子の家なのかなあと想像した。
あの辺が村岡良子の家だろうなと思いながら眺めていた。

文庫本の詩集をポケットに入れて山の上で読んだ。
その時だけは現実から空想の世界に入れた。
思うだけなら自由だった。誰にも心の中の思いは見えない。
家では恥ずかしくて想像できないことも山の上では自由に想像できた。
木々の枝からヒラヒラと葉っぱが落ちてくる。ここなら自分にも詩が書けそうだ。

秋の日のヴィオロンの 
ためいきの身にしみてうら悲し
鐘のおとに胸ふたぎ
色かへて涙ぐむ
過ぎし日のおもひでや。
げにわれはうらぶれて
ここかしこさだめなく
とび散らふ落葉かな。
 ・・・・上田敏 『海潮音』より

私は小中可南子と空想の世界で遊んでいる。
一緒に散歩したり私の横で本を読んでいたりしていた。
横顔と寝顔を想像するのが好きだった。
空想の世界では小中可南子は私の思う通りにすごしている。

ふと我に返り、こんな自分を女々しいと思う事もあった。
男らしい強い人間になろうかなとも思う。
山の上で薄暗くなるまで夢や空想に耽っていた。

1967年 5月7日 日曜日 朝7時。
隣の部屋で誰かがテレビをつけた。NHKのニュースが聞こえてくる。
あと何時間かすると現実の人に会える。気持ちが落ち着かない。
色々な妄想が頭の中で遊んでいる。頭の中ではみんな思い通りに進んでいく。

「たかしぃ~ご飯できたぞお、早く起きろ~」
母ちゃんのガサツなでっけえ声でみんな夢がぶっ飛んだ。
やっぱり自分は恋愛なんかできる身分じゃない。
朝のご飯は以前とあまり変わっていなかった。
麦の入ったご飯と薄い味噌汁。納豆と醤油色をした沢庵。
それに自分の好物の固めのキンピラだった。麦の割合は以前より少なかった。

7時40分頃に家を出た。歩いて10分くらいの所に加藤の家がある。
軽やかな足取りで国道407号沿いに歩いていく。
家出を実行してたった1ケ月余りだが随分昔のような気がした。
周りの景色が他人の町のように見えた。

加藤の家に着いた。加藤が中から出てきた。
加藤の家もあんまり広くはないが、西側に狭い子供部屋があった。
私が行くと弟がいつも席を外してくれる。加藤はよそ行きの服装に着替えていた。
「早川、朝飯食ったん?」
「うん、軽くな」
「じゃあ、ちょっとお茶でも飲めよ」
「うん」
「8時半頃出かけるか」
「そうだな、どのくらいかかるん」
「村岡んちまでは10分くらいだよ」
「ちょっと、早くねえ?」
「ゆっくり歩いていけばいいよ」
「9時ごろに着くようにいくべ」
「どっちでもいいけど、何で」
「ちょっとなあ、恥ずかしいな。あまり話す事がないよ」
「なに意識してるん、気軽に行くんだろ~」
「そうだよな、まだ彼女ってわけじゃないもんな」
「早川、女と付き合ったことがねえん」
「あるわけねえだろ、加藤はあるんか?」
「うん、ちょっとな・・・・」
「だれ、だれ、おれが知っている子」
「たぶんな・・・・」
「教えろよ、同級生か? あ、村岡さんだろう?」

加藤の母ちゃんが、お茶と薩摩芋の甘く煮たのを持ってきてくれた。
私の好物だ。いつも来るたびに煮てくれる。
「今日、良子ちゃんちへ行くんだろ?」
「はい、もうすぐ出かけます」
「頑張りなよ」
「なにがですか?」
「いいねえ、若いっていうのは夢があって」
「・・・?」
「良子ちゃんいい子だよ」
「ええ、まだ良く知らないですけど」
「ウフフ、早川君の手紙見せてもらったよ」
「ええ、うそでしょ・・」
「チョコッとだけね、しっかり頑張っているんだねえ」
「信じられないですよ」
「まあね、いいじゃない。今日は楽しんできなよね」
大人ってなにを考えているのかわかんない。

加藤がうるさそうに母ちゃんを追い払う。
「母ちゃんもういいよ、あっちへいきなよ」
「忍、お前もしっかりするんだよ」
「もういいよ、あっちへいきなよ」
「可南子ちゃんも9時ごろには来るっていってたよ」
「わかったよ、あっちへ行けよ」
「はい、はい、じゃあね早川君、頑張って!」

加藤の親子関係を羨ましいと思った。私の家ではこの会話はできない。
「加藤んちの母ちゃん、進んでいるな」
「ちょっとな、口が軽いんだよ」
「そういえばさ、だれ、付き合ってるっていうんは」
「うん、歩きながら話すか」

村岡良子の家は太田駅から東へ15分くらい歩いた所にある。
周りは畑や古墳に囲まれた静かな環境だ。
親父さんは建設資材の販売で自営していると聞いていた。
以前行ったときも、裏の駐車場にトラック2台と乗用車1台があった。
私の家とは比べ物にならない。加藤と一緒だから遊びに行けたようなものだ。
小心者の私が一人では行ける所ではなかった。

「なあ、誰なんだよ、付き合っているんは?」
「早川も知っていると思うよ」
「村岡良子じゃなかったん?」
「うん、母ちゃんはそう思っていたんだけどな」
「ちがうんだ、じゃあ誰?」
「田村だよ」
「田村って、中学生だった時同じクラスだった、田村孝子か」
「うん、それだよ」
「どうやって、知りあったん?」
「今行ってる工務店のお客さんなんだよ」
「田村んちって、建築関係?」
「そう、田村建築っていうんだけど、そこの一人娘なんだよ」
「へえ、そうだったんか」
「もう、決まっちゃったようなもんなんだよ」
「なに、まさか!」
「うん、まさかなんだよ」
「まだお互い19歳だろ」
「うん、結婚は二十歳になったらっていう事になってんだよ」
「信じられねえな・・・」
「それでやっと向こうの親父さんも認めてくれたんだよ」
「へえ、たまげたな」
「うん。行くとこまで行っちゃったからな」
村岡良子の家が見えてきた。
あと2~3分で村岡良子の家に着く。

「母ちゃんさ、俺を良子ちゃんと一緒にさせようと思ってたんだよ」
「じゃあ、どうするん、田村の事はもう知ってるん」
「うん、まだちゃんとは言ってねえけどな」
「じゃあ、村岡良子はどうするん」
「だから今度は、良子ちゃんには早川がいいと思ってんじゃねん?」
「うそだろう、まだ何回も会ってないよ」
「俺んちと良子ちゃんの親同士で色々話してんだよ」
「なにを?」
「良子ちゃんには早川がいいんじゃないって」
「嘘だろ。知らないよ、信じられないよ」
「まあ、後でゆっくり話そう」

目の前に村岡良子の家が見えてきた。
加藤から衝撃的な話しを聞いたせいか緊張感はなくなっていた。
ただ、村岡良子の婿候補が自分になっているのが気になってきた。
小中可南子はどうなるんだ。小中可南子は私を釣り上げる餌になっていたのだ。
大人って裏で何を考えているのかわからない。
村岡良子にはまだ好き嫌いの感情はなかった。
どっちかっと言ったら好きなタイプの一人だ。
少し話がややっこしくなってきた。自分はまだこの先大学に行きたい。
そして国語の先生になって、身を整えてから憧れの人に会いたい。
憧れのまま、片思いのままでもやむを得ないと思っていた。
今回、思いがけないことで18歳の小中可南子に会うことができる。

村岡良子の家についた。
「こんちわあ~」
加藤が玄関を開けて大きな声をかけた。そっと加藤の後ろに隠れた。
奥から、村岡良子が出てきた。
「あら、加藤君こんにちは」
「早川も連れてきたよ」
「早川君、いらっしゃい、こないだは手紙ありがとう」
「あ、いいえ手紙出すのが遅くなっちゃってすいませんでした」
「いいんです。じゃあ上がって」

村岡良子のお母さんも出てきた。
「ああ、いらしゃい、待っていたよ、早く上がって」
「じゃあ、失礼します」
「向こうで、いい人が待ってるよ」
もう心臓がドッキン、ドッキンとしている。

持ってきた鯛センベイと鯛みそをお母さんに渡した。
「こ、これ鯛の浦のお土産です」
「あら、いいのにお土産なんか、早川君の千葉のお土産話が楽しみなんだよ」
「いえ、たいしたもんじゃないですから」
「とにかくこっちに上がって」

村岡良子の家のお客様用の部屋に向かった。
以前何回か来たことがあった。部屋の真ん中に掘り炬燵があった。
部屋の壁際にはステレオやテレビも置いてあった。床の間には花も飾ってあった。

私にとっては別世界の家だった。レベルが何段階も上だった。
今そこには、もう3年も会っていない小中可南子が確実にいる。
そこに憧れの人がいる。頭の中では毎日会っていた。その姿は中学生のままだった。
すぐそばに18歳になった本人がいる。自分の手足や体がぎこちなく動いている。

加藤の後ろに隠れるように部屋の中に入った。
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