夢を見る
文字数 4,472文字
夢を、見た。
確かな質量を持った夢。それが夢だと気が付くまでの間に、僕の心はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。首元にかいた嫌な汗をぬぐう。
なぜ、今になって、あのときのことを思い出したのだろう。
――彼女が自身の過去を語ったあの日のことを。
あの日の僕は、どこかおかしかった。彼女に抱えているものを語れと言ったこともそうだし、彼女の頭を撫でるなんてことをしたこともそうだ。どちらも僕らしからぬ行動だった。
僕は誰かを思い、誰かを受け止めることなんてできない人間だった。そんな僕があのような行動をとったことは、その場の空気に流されたのだ、という他ないだろう。
自分が冷血な悪人だと思っているわけではない。過度に自己の悪性を振りかざすほど、僕も子供ではない。それでも、やはり、あのときの僕はどうかしていたのだと思う。
僕はぎゅっと自分の拳を握りしめる。
僕は彼女にいったい何をしてやるべきだったのだろう。
「ねえ、ゆう兄」
それは本格的な夏が始まろうとしていたある日のことだった。
うだるような日差しにうんざりさせられながら、僕はネクタイを締め、学校に向かった。その道中、僕は美鳴と出くわした。数日前から制服は夏服に切り替わっている。涼し気な服装をした彼女は僕の隣を歩きながら話し始める。
いつも明るい彼女にしては珍しく、どこか歯切れの悪い調子で何事かを言いたそうにこちらを見ている。
「どうかしたのか、美鳴」
ここはまだ校外だ。別に苗字で呼んで突き放す必要もないだろう。そう考えて、僕は普段通りの呼び方で彼女を呼ぶ。
僕の態度で少し安心したのだろうか。そこでようやく彼女は話し始めた。
「水城さんのことなんだけど……」
「水城だと?」
予想外の名前を出されて、僕は動揺する。
今朝見た夢が脳裏をよぎった。
「一年生の間で噂になってるの」
「……噂とは?」
嫌な予感がする。僕は少し身構える。
「水城さんとゆう兄が、その……」
美鳴は言いにくそうに言葉を濁す。
僕はため息をついて、言う。
「二人が怪しい関係だとか、そういう話か?」
僕が助け舟を出してやると、美鳴は一瞬驚いた顔をした後に、神妙な顔でこくりと頷いた。
「はあ」
僕はもう一度大きなため息を吐く。
なぜ、そんな話が出ているのだろうか……。いや、理由は解っている。水城が過度に僕に付きまとっているのが原因なのは明らかだ。あいつは僕が居る文芸部の部室に足しげく通っている。そういうバカな噂を立てられるには、材料としては十分だろう。
「あ、もちろん、私は誤解だって解ってるよ……誤解だよね?」
美鳴は不安げな顔をして、上目遣いで僕を見た。
「ああ、もちろんだ」
僕は力強く美鳴の言葉を肯定する。
これ以上、馬鹿な噂を広められるわけにはいかないだろう。
「ありがとう、美鳴」
僕は言う。
「まあ、美鳴の方でもそれとなく否定しておいてくれると助かる」
僕がそう言うと、美鳴も安心したのか表情を緩めて呟いた。
「うん、わかった」
そんな話をしていると、校門が見えてきた。
「じゃあな、鈴谷。勉強、頑張れよ」
「もう、美鳴でいいのに」
美鳴は拗ねた口調で言った。
「森中先生、すいません、今、お時間よろしいでしょうか?」
僕は職員室に居た森中先生に声をかけていた。
僕の問いかけに先生はゆっくりと振り返り、僕の顔を見た。
「はい、大丈夫ですよ」
森中先生は落ち着いた声で応じる。
僕は彼女に関する一件を森中先生に相談してみることにした。それで何かが好転するかどうかはわからない。だが、少なくとも何もできず、手をこまねいているよりはましだろうという程度の考えだった。
とは考えたものの、実際、僕がどこから話したものか、と言いよどんでいると、
「……応接室の方がいいですかね?」
「あ……そうですね、一応」
こういう辺りはさすがに先生だと思う。僕が言おうとしている内容もおそらくはなんとなく察しているのだろう。職員室は意外といろいろな人の出入りがある。話を中途半端に聞かれて、これ以上、話がこじれるという可能性も否定しきれない。
僕は森中先生に従って、応接室に移動した。
職員室のすぐ隣に応接室はある。僕にとっては他の生徒に聞かれたくない話や面倒な話をするときに使う部屋という認識だ。
森中先生はソファの一つに腰掛ける。
「座ってください」
「……失礼します」
今更、森中先生に対して気後れすることなどないはずなのだが、応接室という場所が僕に一種の緊張を強いた。まるで、面接でも受けているようだと思う。
応接室の無駄に柔らかなソファに腰かけ、話の続きをする。
森中先生は内容を察しているようだから、僕は単刀直入に切り込むことにする。
「話というのは、水城のことなのですが……」
しかし、僕はそこから急に二の句が継げなくなる。
僕は一体先生に何を話そうとしているのだろう。
それが彼女についての一件であることは明らかだ。であるが、それについて触れようと思えば、彼女の家庭環境について触れざるを得なくなるだろう。そうした考えに至ったとき、僕は何も言えなくなってしまったのだ。
沈黙。いったい、この静寂の時間はなんであったのだろうか。それは会話のやり取りがうまくいかず、生まれた静寂とは少しばかり趣を異にしていた。きっと、この静寂はこの後の話を始めるために必要な導入であった。そんな風に思える。時には沈黙こそが雄弁以上に物を語ることもある。
「水城さんのことが気になりますか?」
黙ってしまった僕に森中先生の方から声がかかる。
「……気になる、というと?」
「彼女の家庭環境のことです」
それはまさに今、自分が考えていたことだった。
「………………」
僕は黙って先生を見つめる。
「今はこういうご時世ですから、家庭環境という個人情報を本人の許可なく勝手に話すのは、あまりよくないことでしょうし、私も何もかもを解っているわけではないので、あえては言いませんが――」
先生はそんな風に語る。
「水城さんのご家庭はやや特殊な環境であることは確かなようですね」
僕は先生のそんな言葉で察してしまう。
先生はきっと薄々気が付いているのだろう。あの娘の抱えている秘密に。
もちろん、彼女がすべてを話すはずがないだろうから、おそらくは担任として得られた情報から組み立てた推測なのだろうけれど。
「ですけれど、これに関しては彼女自身が決着をつけなければならない類のことだと考えています。……今の時点では私が口を出すわけにはいかないことでしょう」
「………………」
先生が言わんとしていることは解る。教師は生徒に対して、あたかも何でもできるかのように振る舞っているけれど、実際にできることは驚く以上に少ないものだ。それに下手に先生が介入した場合、彼女が抱えていたすべての過去が白日の下にさらされるという可能性もありうる。それは、きっと誰にとっても喜ばしい結末とは言えないものだろう。
「でも、もし本人以外で、彼女の何かを変えることができる人が居るとするなら――」
森中先生はまっすぐに僕の目を見つめていた。
「いえ、何も言わないことにしましょう」
彼女はそう言って、目を閉じた。
僕は目線を落とす。
森中先生に相談しようと思ったのも、本当は逃げだったのかもしれない。森中先生に協力してもらった方が話がこじれないだろうと合理的な理由を振りかざして、僕が自分自身で彼女に向き合おうとすることを無意識のうちに避けていたのかもしれない。
僕に一体何ができるというのだろうか。
僕にできること、それが何なのか、今の僕にはまだ解らない。
「ことりくん! 遅いよ!」
時刻は最終下校時間をわずかだが過ぎている。明日の授業の予習に思いのほか時間がかかってしまったのだ。
ようやく、一区切りをつけて帰ろうとした僕を校門で待ち構えていたのは、水城だった。
なぜ、彼女がこんなところに?
驚いた僕に彼女はにじり寄ってくる。
「なんで、今日、部室に来なかったの? ずっと待ってたのに」
彼女はわずかばかり、頬を膨らませて、僕を睨む。僕はそんな彼女の視線にひるむ。
「今日は部活の活動日じゃなかったから……というか、そんなことをおまえに指図される筋合いはないだろうが」
そんな風に話している途中で僕は少しずつ調子を取り戻していく。
「別に毎日部室に行くと約束した覚えはない。俺にもいろいろとやることがあるんだ」
「むう……」
僕の言葉に彼女は拗ねたように口をとがらせる。
「でも、待ってたのに……」
「………………」
親に叱られた子供のような顔をして、うつむく彼女。
僕はいったいこの娘にどんな言葉をかけてやるべきなのだろう。
なあ、教えてくれ、水城。
おまえは一体、僕に対して、何を求めているんだ。
「ほら、帰るぞ……」
僕は彼女に言う。
あらぬ誤解を解くためならば、彼女と共に下校するのはまずいかと思ったが、もう最終下校時刻はとっくに過ぎている。周囲に他の生徒も居ない。なら、大きなトラブルは起こらないだろう。そう高を括る。
「うん、帰ろう、帰ろう」
そう言って、彼女は楽しそうに笑った。
「………………」
そんな彼女の笑顔を横目で見ながら考える。
僕は彼女が抱えているものを知らない。彼女が一体何を考え、僕に近づくのか。その理由が解らない。
そして、そのことに踏み込むのを避けている自分が居ることも認めざるを得ない。それはかつて、自分が犯した罪に踏み込むことになるかもしれないからだ。
だから、僕はただ、今の自分の未熟な覚悟でも問える言葉を選び、彼女にぶつけることにする。
「水城」
「うん?」
「おまえ、今が楽しいか?」
抽象的で曖昧な問い。それが今の僕にできる精一杯だった。
隣を歩いていた水城はぴたりと足を止め、呆けた顔で僕の顔をしげしげと見つめた。
そして、次の瞬間、ふっ、と小さな息を漏らす。
「まあ、こうやってことりくんと話しているのは楽しいかな」
彼女はそう言って、口許を緩めた。
そんな彼女を見つめて、僕は言った。
「そうか……」
彼女がそう言うのなら、今の僕にこれ以上、言えることは何もなかった。
「……帰るか」
「うん」
僕は彼女と並んで歩を進める。しっとりとした湿気がまとわりつく夏の夜。夜も爛々と照明が灯るこの街では、夜空に星はほとんど見えない。普段、星が見えるかなんて気にしたこともなかったのに、なぜか今は、一つも見えない星が見えない夜空が気になった。
せめて、一つくらい星があってもいいんじゃないか。
それくらいのことをしてくれても罰は当たらないじゃないか。
僕はそんなことを、この世界を上から見下ろしている見えない誰かに向かって呟いた。
確かな質量を持った夢。それが夢だと気が付くまでの間に、僕の心はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。首元にかいた嫌な汗をぬぐう。
なぜ、今になって、あのときのことを思い出したのだろう。
――彼女が自身の過去を語ったあの日のことを。
あの日の僕は、どこかおかしかった。彼女に抱えているものを語れと言ったこともそうだし、彼女の頭を撫でるなんてことをしたこともそうだ。どちらも僕らしからぬ行動だった。
僕は誰かを思い、誰かを受け止めることなんてできない人間だった。そんな僕があのような行動をとったことは、その場の空気に流されたのだ、という他ないだろう。
自分が冷血な悪人だと思っているわけではない。過度に自己の悪性を振りかざすほど、僕も子供ではない。それでも、やはり、あのときの僕はどうかしていたのだと思う。
僕はぎゅっと自分の拳を握りしめる。
僕は彼女にいったい何をしてやるべきだったのだろう。
「ねえ、ゆう兄」
それは本格的な夏が始まろうとしていたある日のことだった。
うだるような日差しにうんざりさせられながら、僕はネクタイを締め、学校に向かった。その道中、僕は美鳴と出くわした。数日前から制服は夏服に切り替わっている。涼し気な服装をした彼女は僕の隣を歩きながら話し始める。
いつも明るい彼女にしては珍しく、どこか歯切れの悪い調子で何事かを言いたそうにこちらを見ている。
「どうかしたのか、美鳴」
ここはまだ校外だ。別に苗字で呼んで突き放す必要もないだろう。そう考えて、僕は普段通りの呼び方で彼女を呼ぶ。
僕の態度で少し安心したのだろうか。そこでようやく彼女は話し始めた。
「水城さんのことなんだけど……」
「水城だと?」
予想外の名前を出されて、僕は動揺する。
今朝見た夢が脳裏をよぎった。
「一年生の間で噂になってるの」
「……噂とは?」
嫌な予感がする。僕は少し身構える。
「水城さんとゆう兄が、その……」
美鳴は言いにくそうに言葉を濁す。
僕はため息をついて、言う。
「二人が怪しい関係だとか、そういう話か?」
僕が助け舟を出してやると、美鳴は一瞬驚いた顔をした後に、神妙な顔でこくりと頷いた。
「はあ」
僕はもう一度大きなため息を吐く。
なぜ、そんな話が出ているのだろうか……。いや、理由は解っている。水城が過度に僕に付きまとっているのが原因なのは明らかだ。あいつは僕が居る文芸部の部室に足しげく通っている。そういうバカな噂を立てられるには、材料としては十分だろう。
「あ、もちろん、私は誤解だって解ってるよ……誤解だよね?」
美鳴は不安げな顔をして、上目遣いで僕を見た。
「ああ、もちろんだ」
僕は力強く美鳴の言葉を肯定する。
これ以上、馬鹿な噂を広められるわけにはいかないだろう。
「ありがとう、美鳴」
僕は言う。
「まあ、美鳴の方でもそれとなく否定しておいてくれると助かる」
僕がそう言うと、美鳴も安心したのか表情を緩めて呟いた。
「うん、わかった」
そんな話をしていると、校門が見えてきた。
「じゃあな、鈴谷。勉強、頑張れよ」
「もう、美鳴でいいのに」
美鳴は拗ねた口調で言った。
「森中先生、すいません、今、お時間よろしいでしょうか?」
僕は職員室に居た森中先生に声をかけていた。
僕の問いかけに先生はゆっくりと振り返り、僕の顔を見た。
「はい、大丈夫ですよ」
森中先生は落ち着いた声で応じる。
僕は彼女に関する一件を森中先生に相談してみることにした。それで何かが好転するかどうかはわからない。だが、少なくとも何もできず、手をこまねいているよりはましだろうという程度の考えだった。
とは考えたものの、実際、僕がどこから話したものか、と言いよどんでいると、
「……応接室の方がいいですかね?」
「あ……そうですね、一応」
こういう辺りはさすがに先生だと思う。僕が言おうとしている内容もおそらくはなんとなく察しているのだろう。職員室は意外といろいろな人の出入りがある。話を中途半端に聞かれて、これ以上、話がこじれるという可能性も否定しきれない。
僕は森中先生に従って、応接室に移動した。
職員室のすぐ隣に応接室はある。僕にとっては他の生徒に聞かれたくない話や面倒な話をするときに使う部屋という認識だ。
森中先生はソファの一つに腰掛ける。
「座ってください」
「……失礼します」
今更、森中先生に対して気後れすることなどないはずなのだが、応接室という場所が僕に一種の緊張を強いた。まるで、面接でも受けているようだと思う。
応接室の無駄に柔らかなソファに腰かけ、話の続きをする。
森中先生は内容を察しているようだから、僕は単刀直入に切り込むことにする。
「話というのは、水城のことなのですが……」
しかし、僕はそこから急に二の句が継げなくなる。
僕は一体先生に何を話そうとしているのだろう。
それが彼女についての一件であることは明らかだ。であるが、それについて触れようと思えば、彼女の家庭環境について触れざるを得なくなるだろう。そうした考えに至ったとき、僕は何も言えなくなってしまったのだ。
沈黙。いったい、この静寂の時間はなんであったのだろうか。それは会話のやり取りがうまくいかず、生まれた静寂とは少しばかり趣を異にしていた。きっと、この静寂はこの後の話を始めるために必要な導入であった。そんな風に思える。時には沈黙こそが雄弁以上に物を語ることもある。
「水城さんのことが気になりますか?」
黙ってしまった僕に森中先生の方から声がかかる。
「……気になる、というと?」
「彼女の家庭環境のことです」
それはまさに今、自分が考えていたことだった。
「………………」
僕は黙って先生を見つめる。
「今はこういうご時世ですから、家庭環境という個人情報を本人の許可なく勝手に話すのは、あまりよくないことでしょうし、私も何もかもを解っているわけではないので、あえては言いませんが――」
先生はそんな風に語る。
「水城さんのご家庭はやや特殊な環境であることは確かなようですね」
僕は先生のそんな言葉で察してしまう。
先生はきっと薄々気が付いているのだろう。あの娘の抱えている秘密に。
もちろん、彼女がすべてを話すはずがないだろうから、おそらくは担任として得られた情報から組み立てた推測なのだろうけれど。
「ですけれど、これに関しては彼女自身が決着をつけなければならない類のことだと考えています。……今の時点では私が口を出すわけにはいかないことでしょう」
「………………」
先生が言わんとしていることは解る。教師は生徒に対して、あたかも何でもできるかのように振る舞っているけれど、実際にできることは驚く以上に少ないものだ。それに下手に先生が介入した場合、彼女が抱えていたすべての過去が白日の下にさらされるという可能性もありうる。それは、きっと誰にとっても喜ばしい結末とは言えないものだろう。
「でも、もし本人以外で、彼女の何かを変えることができる人が居るとするなら――」
森中先生はまっすぐに僕の目を見つめていた。
「いえ、何も言わないことにしましょう」
彼女はそう言って、目を閉じた。
僕は目線を落とす。
森中先生に相談しようと思ったのも、本当は逃げだったのかもしれない。森中先生に協力してもらった方が話がこじれないだろうと合理的な理由を振りかざして、僕が自分自身で彼女に向き合おうとすることを無意識のうちに避けていたのかもしれない。
僕に一体何ができるというのだろうか。
僕にできること、それが何なのか、今の僕にはまだ解らない。
「ことりくん! 遅いよ!」
時刻は最終下校時間をわずかだが過ぎている。明日の授業の予習に思いのほか時間がかかってしまったのだ。
ようやく、一区切りをつけて帰ろうとした僕を校門で待ち構えていたのは、水城だった。
なぜ、彼女がこんなところに?
驚いた僕に彼女はにじり寄ってくる。
「なんで、今日、部室に来なかったの? ずっと待ってたのに」
彼女はわずかばかり、頬を膨らませて、僕を睨む。僕はそんな彼女の視線にひるむ。
「今日は部活の活動日じゃなかったから……というか、そんなことをおまえに指図される筋合いはないだろうが」
そんな風に話している途中で僕は少しずつ調子を取り戻していく。
「別に毎日部室に行くと約束した覚えはない。俺にもいろいろとやることがあるんだ」
「むう……」
僕の言葉に彼女は拗ねたように口をとがらせる。
「でも、待ってたのに……」
「………………」
親に叱られた子供のような顔をして、うつむく彼女。
僕はいったいこの娘にどんな言葉をかけてやるべきなのだろう。
なあ、教えてくれ、水城。
おまえは一体、僕に対して、何を求めているんだ。
「ほら、帰るぞ……」
僕は彼女に言う。
あらぬ誤解を解くためならば、彼女と共に下校するのはまずいかと思ったが、もう最終下校時刻はとっくに過ぎている。周囲に他の生徒も居ない。なら、大きなトラブルは起こらないだろう。そう高を括る。
「うん、帰ろう、帰ろう」
そう言って、彼女は楽しそうに笑った。
「………………」
そんな彼女の笑顔を横目で見ながら考える。
僕は彼女が抱えているものを知らない。彼女が一体何を考え、僕に近づくのか。その理由が解らない。
そして、そのことに踏み込むのを避けている自分が居ることも認めざるを得ない。それはかつて、自分が犯した罪に踏み込むことになるかもしれないからだ。
だから、僕はただ、今の自分の未熟な覚悟でも問える言葉を選び、彼女にぶつけることにする。
「水城」
「うん?」
「おまえ、今が楽しいか?」
抽象的で曖昧な問い。それが今の僕にできる精一杯だった。
隣を歩いていた水城はぴたりと足を止め、呆けた顔で僕の顔をしげしげと見つめた。
そして、次の瞬間、ふっ、と小さな息を漏らす。
「まあ、こうやってことりくんと話しているのは楽しいかな」
彼女はそう言って、口許を緩めた。
そんな彼女を見つめて、僕は言った。
「そうか……」
彼女がそう言うのなら、今の僕にこれ以上、言えることは何もなかった。
「……帰るか」
「うん」
僕は彼女と並んで歩を進める。しっとりとした湿気がまとわりつく夏の夜。夜も爛々と照明が灯るこの街では、夜空に星はほとんど見えない。普段、星が見えるかなんて気にしたこともなかったのに、なぜか今は、一つも見えない星が見えない夜空が気になった。
せめて、一つくらい星があってもいいんじゃないか。
それくらいのことをしてくれても罰は当たらないじゃないか。
僕はそんなことを、この世界を上から見下ろしている見えない誰かに向かって呟いた。