はじまりは暗い街中で
文字数 5,095文字
――見られた。
私は、まるで足が地面に張り付いてしまったみたいに、思わず歩みを止めていた。
「あれ? どうかした?」
私の傍らに立つ男は、そんな能天気な調子で言う。
こいつのせいで、私は今、窮地に陥っているというのに……。
「ううん、何でもない。ごめんなさい、ちょっと急用ができたから」
そう言ってから、私は駆け出す。
「ちょ、ちょっと」
男はまるで親に捨てられる子供のような情けない声を出して、私に縋りつくように手を伸ばす。
――もう、こんな奴の相手をしている場合じゃない。もう十分、相手はしてやっただろうに。
「ごめんね、ほんとに。じゃあ」
私は彼の手をひょいと躱して、得意の作り笑顔で、手を振った。
こうしたら、もうこいつは追ってこれない。私はそんなことを経験で見抜いた。
そんな事より――
「どこ……?」
私は駆け出す。
見間違いなんかじゃない。さっきのは、間違いなくうちの高校の制服。ネクタイの色からして同学年。顔も見おぼえがある。……ヤバいことに同じクラスだ。さすがに私だってばれているはず。
——いた。
「待って!」
私は思わず、大声でその男子生徒を呼び止める。
男子生徒は、眼鏡の奥に小さな驚きの光を灯す。
私はそんな彼の様子にかまう余裕もなく、叫ぶ。
「言わないで」
男子生徒は私の言葉にひるんだようだ。この様子なら、念押ししておけば、秘密にさせることはできるかもしれない。
私は縋りつくように彼の腕へと手を伸ばし、つかむ。
男子生徒はまた一瞬ぎょっとした顔をした後に言う。
「……何の話?」
誤魔化そうとしている。このときの私はそう思った。
――だから言ってしまった。
「私が援交してるって話。学校にばれたら困る」
見られた。
小汚い親父とラブホテルから出てくる瞬間を。
この男子生徒の名前までは解らない。だが、彼が自分のクラスメイトであることは知っていた。だから、きちんと口止めしておかないと、私が高校生なのに援助交際をしているということを学校にばらされてしまう。そしたら、あれほど苦労して母親を説得して入った高校に居られなくなる。そう思って、彼に懇願してしまったのだ。
奇しくも先ほど逃げる私を呼び止めた男と同じように、彼の手に縋りついて。
「え……おまえ、高校生なのか……?」
「へ?」
「あ、いや……」
男子生徒はしどろもどろになっている。
彼の言葉を聞いた私はようやく理解する。
——自分がとんでもない墓穴を掘ったということを。
そうだ、冷静に考えれば制服を着ていたわけでもないのだ。向こうが自分を覚えているとも限らない。私は制服のおかげですぐにクラスメイトだと認識できたけれど、もし彼が私服だったなら、気が付かなかっただろう。私たちの関係はその程度のものだ。この男子生徒だって、私がクラスメイトだということに気が付いている可能性の方が低い。そう考えるのが普通なのではないか。
その程度の判断力も失っていたのは、きっと、念願叶って手に入れた高校生という立場を守るために過敏になりすぎていたせいだ。中学に通っていた頃だって、こんなバカみたいなミス、したことなかったのに……。
「あの、腕……」
「あ、ご、ごめん」
彼の言葉でようやく、私はまだ彼の腕をつかんでいたことに気が付き、慌てて手を離した。
気まずい沈黙が私たちを包んでいた。
どうすればいいのだろう……。
もう私の思考回路は完全にショートしていた。私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
男子生徒の方も固まったまま動こうとはしない。まあ、いきなりラブホから出てきた女に絡まれれば、高校生ならばこうなってもおかしくはないのかもしれない。
だが、そんな沈黙を先に破ったのは彼の方だった。
「……俺、塾があるから」
小さいけれど、はっきりとした低い声でそう言うと、彼は私に背を向けた。
私は後はただ茫然とその背中を見送ることしかできない。
けばけばしい色をしたネオンと下卑た嬌声。そんな街中の雑踏に私は一人立ち尽くす。
そんな世界が、私、水城結衣の居場所だった。
「えっと……こんなことを言うのは、先生も心苦しいんですけどね……」
次の日の放課後だった。
私は担任教師である森中先生に生徒指導室に呼び出されていた。森中先生は若い女の先生。物腰が柔らかく、生徒である私たちにまで、すごく丁寧な口調で話す。数学の先生だけれど、どちらかというと幼稚園の先生の方が似合う。そんな風に私は思っている。
ヤバいな……。
このときの私はかなり焦っていた。なぜなら、呼び出された要件は明白だからだ。
なんてたって、私の隣には例の彼が居たから。
彼の名前は今朝学校に来てから、名簿を見て確認した。
「小鳥遊祐介」。それが彼の名前だった。
下の名前は「ゆうすけ」だろう。それは間違いない。だが、苗字はいったい何と読むのだろう。「ことりあそび」……では、さすがにないと思うが。
――そんなことよりも、だ。
彼と自分が二人そろって、担任教師に呼び出される。
しかも、若い女性の先生が、なにやら言いにくそうにもじもじとしているというヒントまでくれて、要件を察しないほど、私もバカではない。
きっと、この男がチクったのだ。
それしか考えられない。
言わないでって言ったのに……。
私は隣に居る彼をそっと恨みがましく睨む。
すると、彼は私の視線に気が付き、一瞬、ぎょっとした顔を見せる。だが、そんな彼の焦りの表情も、彼の眼鏡の奥で、すっと消えていった。
「えっとね……」
やはり切り出し方が解らないのだろう。森中先生はこちらを見ては、目を逸らす。そんな落ち着かない行動を繰り返している。
……今の自分を追い詰める立場の相手ではあるのだけれど、私は彼女に素直に同情した。
女子生徒に「援助交際しているの?」などと平然と尋ねられる女教師がいったいどれだけいるだろう。学年主任とか、他の男の先生が出てきても、よさそうなものなのに……。いや、かえって女性の方が話がこじれにくいという判断なのだろうか。
「あの」
そんな気まずい空気を打ち払ったのは、意外にも例の男子の方だった。
「森中先生がおっしゃりたいのは、もしや昨日の夕方に、僕が彼女と会っていた件についてでしょうか?」
ずばり切り出されたその言葉に、森中先生はまるで助け船を得たかのような表情で応じる。
「そ、そうです。誤解であってほしいのだけれど、昨日ね。そのあなた達二人を……」
そこまで来てまだ言いよどむ先生。
私はそれを死刑宣告にも等しい気持ちで聞いていた。
ああ、やっぱり退学になるのだろうか。
それだけは嫌だった。
――なぜなら、それは自分があの母親から離れるための術を一つ失うということだから。
「先生、もしかして僕と水城さんがホテルから出てきた、なんて言っている奴が居るんじゃないですか?」
「え?」
森中先生は目を見開いて、顔を真っ赤にしている。
私は思わず、彼の方を見る。
(私が彼とホテルから出てきた?)
それは完全な誤解だ。
私と彼との間には、何の接点もないのに。
森中先生は一つわざとらしく咳払いをしてから、答える。
「そ、そうです。とある生徒があなたたち二人が、歓楽街で腕を組んでいたところを見たと言っているの……私はきっと何かの間違いよ、と言ったんですけど……。しかし、担任として確認しないわけには……」
私は気が付く。彼に援助交際のことを黙っているように懇願していたところを誰かに見られたのだ。あれは、まだホテルの近くだったから、きっと私たちがホテルから腕を組みながら出てきたように誤解されたのだ。
「先生、大丈夫です。それは誤解です」
彼は落ち着きのない先生とは対照的に堂々とした調子で言う。
「僕と彼女はそういう関係ではないですし、ホテルに一緒に入ったなんていう事実はありません」
彼の言葉に森中先生はおずおずと聞き返す。
「じゃあ、あなたたちを見たという生徒が居るのは……」
「ああ、それはきっと、あのあたりで偶然、彼女と出会って立ち話していたところを誤解した奴が居るんだと思います」
彼はよどみなく話し続ける。
「僕、あの駅の向こうの塾に通っていて、昨日、少し学校を出るのが遅れたから塾に遅刻しそうになっていたんです。だから、近道しようと思って、あの道を使ってしまいました。申し訳ありませんでした。誤解を招くようなことをして」
そう言って、彼は折り目正しく頭を下げる。
そんな様子を見た先生は慌てて椅子から立ち上がる。
「ううん、ごめんなさいね。先生の方こそ。こんな疑うような真似しちゃって」
そんな風に言って、先生も深々と頭を下げた。
その先生の姿を見て、私の胸はちくりと痛んだ。
「じゃあ、すいません。今日も塾があるので」
そう言って彼は立ち上がる。
「ああ、はい。ごめんなさいね、引き留めてしまって」
もう、先生はすっかり疑っていない様子だ。
「水城さんもごめんなさいね」
そう言って優しく微笑む森中先生。私はその優しい笑顔を見ていられなくなって、立ち上がって一礼をしてから、生徒指導室を飛び出した。
「ねえ、待って!」
私は先に学校から出ようとしていた彼を下駄箱の前で呼び止める。
彼は私を一瞥した後、まるで何も聞こえなかったような素振りで、げた箱から自分の靴を取り出し、上履きと履き替えだす。
私はそんな彼の背中に向かって問いかける。
「……なんで黙っててくれたの?」
彼はゆっくりと振り返って言った。
「……何が」
そこには先ほど、生徒指導室で見せたような愛想のよい笑顔は欠片もなかった。能面のような表情の彼の冷たい瞳。私はそれを見て、少したじろぎそうになりながらも尋ねる。
「昨日のこと……」
「庇ったと思ってるのなら誤解だ」
私の言葉を遮るようにして彼は言った。
「俺は一言も嘘はついていない」
先ほどと違って自分のことを「俺」と呼称しながら、彼は言う。
「先生は『二人は歓楽街で腕を組んでいたか』と問うた。だから、俺はそれを誤解だと言った。事実、俺はおまえと腕など組んでいない。お前が勝手に俺の腕に縋りついただけだ」
そう言われれば、確かにそうだ。
「俺とおまえがそういう関係でないというのも事実だし、俺とおまえがホテルから出てきたなんていう事実もない」
「だけど、私は確かに……」
彼は「はあ」と大きなため息で私の言葉を遮った。
そして、彼は私に人差し指を突きつけながら言う。
「いいか。俺の言葉を一言一句正確に思い出せ」
「あなたの言葉……?」
そう言われて、私は無い脳みそを振り絞って、先程の彼の言葉を必死に思い出す。
確か――
『僕と彼女はそういう関係ではないですし、ホテルに一緒に入ったなんていう事実はありません』
「あ……」
「気付いたな。少なくとも俺とおまえが『一緒に』ホテルに入ったなどという事実はない。これは間違いないだろ」
「う、うん」
そうだ、彼は嘘をついていない。
私は援交親父の相手をするためにホテルに入ったけれど、少なくとも彼はホテルには入っていない。だから、彼はわざと『一緒に』入ったという事実はないと言ったのだ。これならば、彼の言葉は嘘にならない。
「え、そこまで考えて話してたの……?」
「これくらい普通のことだ」
彼は吐き捨てるようにそう告げると、再び私に背を向ける。
「じゃあな。塾があるというのも嘘じゃない。俺は帰るぞ」
そう言って、去っていく背中を見ながらぽつりとつぶやいた。
「助けてくれたんだ……」
彼からすれば、こんな回りくどい言い回しをしなくても、一言「こいつがホテルから出てくるところを目撃した」と言えば済んだ話なのだ。そうすれば、少なくとも彼はこれ以上、面倒ごとには巻き込まれない。むしろ、嘘はついていないとはいえ、私を庇うような真似をしてしまったのだ。のちに、私の援助交際がばれるようなことがあったら、彼にも何らかの類が及ぶ可能性もあるというのに。
彼はただのクラスメイトの私を助けてくれたのだ。
そう思うと、私の心にじんわりと暖かい何かが満ち始める。
それは私が久しく感じたことのなかった何かで――
「……ありがとう」
その暖かな何かはそっと、頬を伝っていった。
私は、まるで足が地面に張り付いてしまったみたいに、思わず歩みを止めていた。
「あれ? どうかした?」
私の傍らに立つ男は、そんな能天気な調子で言う。
こいつのせいで、私は今、窮地に陥っているというのに……。
「ううん、何でもない。ごめんなさい、ちょっと急用ができたから」
そう言ってから、私は駆け出す。
「ちょ、ちょっと」
男はまるで親に捨てられる子供のような情けない声を出して、私に縋りつくように手を伸ばす。
――もう、こんな奴の相手をしている場合じゃない。もう十分、相手はしてやっただろうに。
「ごめんね、ほんとに。じゃあ」
私は彼の手をひょいと躱して、得意の作り笑顔で、手を振った。
こうしたら、もうこいつは追ってこれない。私はそんなことを経験で見抜いた。
そんな事より――
「どこ……?」
私は駆け出す。
見間違いなんかじゃない。さっきのは、間違いなくうちの高校の制服。ネクタイの色からして同学年。顔も見おぼえがある。……ヤバいことに同じクラスだ。さすがに私だってばれているはず。
——いた。
「待って!」
私は思わず、大声でその男子生徒を呼び止める。
男子生徒は、眼鏡の奥に小さな驚きの光を灯す。
私はそんな彼の様子にかまう余裕もなく、叫ぶ。
「言わないで」
男子生徒は私の言葉にひるんだようだ。この様子なら、念押ししておけば、秘密にさせることはできるかもしれない。
私は縋りつくように彼の腕へと手を伸ばし、つかむ。
男子生徒はまた一瞬ぎょっとした顔をした後に言う。
「……何の話?」
誤魔化そうとしている。このときの私はそう思った。
――だから言ってしまった。
「私が援交してるって話。学校にばれたら困る」
見られた。
小汚い親父とラブホテルから出てくる瞬間を。
この男子生徒の名前までは解らない。だが、彼が自分のクラスメイトであることは知っていた。だから、きちんと口止めしておかないと、私が高校生なのに援助交際をしているということを学校にばらされてしまう。そしたら、あれほど苦労して母親を説得して入った高校に居られなくなる。そう思って、彼に懇願してしまったのだ。
奇しくも先ほど逃げる私を呼び止めた男と同じように、彼の手に縋りついて。
「え……おまえ、高校生なのか……?」
「へ?」
「あ、いや……」
男子生徒はしどろもどろになっている。
彼の言葉を聞いた私はようやく理解する。
——自分がとんでもない墓穴を掘ったということを。
そうだ、冷静に考えれば制服を着ていたわけでもないのだ。向こうが自分を覚えているとも限らない。私は制服のおかげですぐにクラスメイトだと認識できたけれど、もし彼が私服だったなら、気が付かなかっただろう。私たちの関係はその程度のものだ。この男子生徒だって、私がクラスメイトだということに気が付いている可能性の方が低い。そう考えるのが普通なのではないか。
その程度の判断力も失っていたのは、きっと、念願叶って手に入れた高校生という立場を守るために過敏になりすぎていたせいだ。中学に通っていた頃だって、こんなバカみたいなミス、したことなかったのに……。
「あの、腕……」
「あ、ご、ごめん」
彼の言葉でようやく、私はまだ彼の腕をつかんでいたことに気が付き、慌てて手を離した。
気まずい沈黙が私たちを包んでいた。
どうすればいいのだろう……。
もう私の思考回路は完全にショートしていた。私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
男子生徒の方も固まったまま動こうとはしない。まあ、いきなりラブホから出てきた女に絡まれれば、高校生ならばこうなってもおかしくはないのかもしれない。
だが、そんな沈黙を先に破ったのは彼の方だった。
「……俺、塾があるから」
小さいけれど、はっきりとした低い声でそう言うと、彼は私に背を向けた。
私は後はただ茫然とその背中を見送ることしかできない。
けばけばしい色をしたネオンと下卑た嬌声。そんな街中の雑踏に私は一人立ち尽くす。
そんな世界が、私、水城結衣の居場所だった。
「えっと……こんなことを言うのは、先生も心苦しいんですけどね……」
次の日の放課後だった。
私は担任教師である森中先生に生徒指導室に呼び出されていた。森中先生は若い女の先生。物腰が柔らかく、生徒である私たちにまで、すごく丁寧な口調で話す。数学の先生だけれど、どちらかというと幼稚園の先生の方が似合う。そんな風に私は思っている。
ヤバいな……。
このときの私はかなり焦っていた。なぜなら、呼び出された要件は明白だからだ。
なんてたって、私の隣には例の彼が居たから。
彼の名前は今朝学校に来てから、名簿を見て確認した。
「小鳥遊祐介」。それが彼の名前だった。
下の名前は「ゆうすけ」だろう。それは間違いない。だが、苗字はいったい何と読むのだろう。「ことりあそび」……では、さすがにないと思うが。
――そんなことよりも、だ。
彼と自分が二人そろって、担任教師に呼び出される。
しかも、若い女性の先生が、なにやら言いにくそうにもじもじとしているというヒントまでくれて、要件を察しないほど、私もバカではない。
きっと、この男がチクったのだ。
それしか考えられない。
言わないでって言ったのに……。
私は隣に居る彼をそっと恨みがましく睨む。
すると、彼は私の視線に気が付き、一瞬、ぎょっとした顔を見せる。だが、そんな彼の焦りの表情も、彼の眼鏡の奥で、すっと消えていった。
「えっとね……」
やはり切り出し方が解らないのだろう。森中先生はこちらを見ては、目を逸らす。そんな落ち着かない行動を繰り返している。
……今の自分を追い詰める立場の相手ではあるのだけれど、私は彼女に素直に同情した。
女子生徒に「援助交際しているの?」などと平然と尋ねられる女教師がいったいどれだけいるだろう。学年主任とか、他の男の先生が出てきても、よさそうなものなのに……。いや、かえって女性の方が話がこじれにくいという判断なのだろうか。
「あの」
そんな気まずい空気を打ち払ったのは、意外にも例の男子の方だった。
「森中先生がおっしゃりたいのは、もしや昨日の夕方に、僕が彼女と会っていた件についてでしょうか?」
ずばり切り出されたその言葉に、森中先生はまるで助け船を得たかのような表情で応じる。
「そ、そうです。誤解であってほしいのだけれど、昨日ね。そのあなた達二人を……」
そこまで来てまだ言いよどむ先生。
私はそれを死刑宣告にも等しい気持ちで聞いていた。
ああ、やっぱり退学になるのだろうか。
それだけは嫌だった。
――なぜなら、それは自分があの母親から離れるための術を一つ失うということだから。
「先生、もしかして僕と水城さんがホテルから出てきた、なんて言っている奴が居るんじゃないですか?」
「え?」
森中先生は目を見開いて、顔を真っ赤にしている。
私は思わず、彼の方を見る。
(私が彼とホテルから出てきた?)
それは完全な誤解だ。
私と彼との間には、何の接点もないのに。
森中先生は一つわざとらしく咳払いをしてから、答える。
「そ、そうです。とある生徒があなたたち二人が、歓楽街で腕を組んでいたところを見たと言っているの……私はきっと何かの間違いよ、と言ったんですけど……。しかし、担任として確認しないわけには……」
私は気が付く。彼に援助交際のことを黙っているように懇願していたところを誰かに見られたのだ。あれは、まだホテルの近くだったから、きっと私たちがホテルから腕を組みながら出てきたように誤解されたのだ。
「先生、大丈夫です。それは誤解です」
彼は落ち着きのない先生とは対照的に堂々とした調子で言う。
「僕と彼女はそういう関係ではないですし、ホテルに一緒に入ったなんていう事実はありません」
彼の言葉に森中先生はおずおずと聞き返す。
「じゃあ、あなたたちを見たという生徒が居るのは……」
「ああ、それはきっと、あのあたりで偶然、彼女と出会って立ち話していたところを誤解した奴が居るんだと思います」
彼はよどみなく話し続ける。
「僕、あの駅の向こうの塾に通っていて、昨日、少し学校を出るのが遅れたから塾に遅刻しそうになっていたんです。だから、近道しようと思って、あの道を使ってしまいました。申し訳ありませんでした。誤解を招くようなことをして」
そう言って、彼は折り目正しく頭を下げる。
そんな様子を見た先生は慌てて椅子から立ち上がる。
「ううん、ごめんなさいね。先生の方こそ。こんな疑うような真似しちゃって」
そんな風に言って、先生も深々と頭を下げた。
その先生の姿を見て、私の胸はちくりと痛んだ。
「じゃあ、すいません。今日も塾があるので」
そう言って彼は立ち上がる。
「ああ、はい。ごめんなさいね、引き留めてしまって」
もう、先生はすっかり疑っていない様子だ。
「水城さんもごめんなさいね」
そう言って優しく微笑む森中先生。私はその優しい笑顔を見ていられなくなって、立ち上がって一礼をしてから、生徒指導室を飛び出した。
「ねえ、待って!」
私は先に学校から出ようとしていた彼を下駄箱の前で呼び止める。
彼は私を一瞥した後、まるで何も聞こえなかったような素振りで、げた箱から自分の靴を取り出し、上履きと履き替えだす。
私はそんな彼の背中に向かって問いかける。
「……なんで黙っててくれたの?」
彼はゆっくりと振り返って言った。
「……何が」
そこには先ほど、生徒指導室で見せたような愛想のよい笑顔は欠片もなかった。能面のような表情の彼の冷たい瞳。私はそれを見て、少したじろぎそうになりながらも尋ねる。
「昨日のこと……」
「庇ったと思ってるのなら誤解だ」
私の言葉を遮るようにして彼は言った。
「俺は一言も嘘はついていない」
先ほどと違って自分のことを「俺」と呼称しながら、彼は言う。
「先生は『二人は歓楽街で腕を組んでいたか』と問うた。だから、俺はそれを誤解だと言った。事実、俺はおまえと腕など組んでいない。お前が勝手に俺の腕に縋りついただけだ」
そう言われれば、確かにそうだ。
「俺とおまえがそういう関係でないというのも事実だし、俺とおまえがホテルから出てきたなんていう事実もない」
「だけど、私は確かに……」
彼は「はあ」と大きなため息で私の言葉を遮った。
そして、彼は私に人差し指を突きつけながら言う。
「いいか。俺の言葉を一言一句正確に思い出せ」
「あなたの言葉……?」
そう言われて、私は無い脳みそを振り絞って、先程の彼の言葉を必死に思い出す。
確か――
『僕と彼女はそういう関係ではないですし、ホテルに一緒に入ったなんていう事実はありません』
「あ……」
「気付いたな。少なくとも俺とおまえが『一緒に』ホテルに入ったなどという事実はない。これは間違いないだろ」
「う、うん」
そうだ、彼は嘘をついていない。
私は援交親父の相手をするためにホテルに入ったけれど、少なくとも彼はホテルには入っていない。だから、彼はわざと『一緒に』入ったという事実はないと言ったのだ。これならば、彼の言葉は嘘にならない。
「え、そこまで考えて話してたの……?」
「これくらい普通のことだ」
彼は吐き捨てるようにそう告げると、再び私に背を向ける。
「じゃあな。塾があるというのも嘘じゃない。俺は帰るぞ」
そう言って、去っていく背中を見ながらぽつりとつぶやいた。
「助けてくれたんだ……」
彼からすれば、こんな回りくどい言い回しをしなくても、一言「こいつがホテルから出てくるところを目撃した」と言えば済んだ話なのだ。そうすれば、少なくとも彼はこれ以上、面倒ごとには巻き込まれない。むしろ、嘘はついていないとはいえ、私を庇うような真似をしてしまったのだ。のちに、私の援助交際がばれるようなことがあったら、彼にも何らかの類が及ぶ可能性もあるというのに。
彼はただのクラスメイトの私を助けてくれたのだ。
そう思うと、私の心にじんわりと暖かい何かが満ち始める。
それは私が久しく感じたことのなかった何かで――
「……ありがとう」
その暖かな何かはそっと、頬を伝っていった。