友達の定義

文字数 3,354文字

「何を書いてるんだ」
 不意にかけられた声。私の身体はびくりと震える。
 恐る恐る振り替える。そこに立っていたのはことりくんだった。
 ことりくんは私の手元を覗き込んで呟いた。
「日記か……?」
「わー! 見るな」
「っ! おっと……!」
 私に突き飛ばされた彼はよろめき、たたらを踏んでよろめく。
 私は日記を閉じ、それを隠すように胸元に抱き、彼を睨み付ける。
 文芸部の部室。集中し過ぎていたのがよくなかった。私は彼が部屋に入ってきたことにも気付かず、ペンを走らせていたのだ。
 私の様子を見て、さすがの彼も悪いと思ったのか、珍しく塩らしい態度を見せる。
「悪かったよ。テスト勉強でもしてるのかと思ったから」
 そんな彼を見て、私は言う。
「いや、私も突き飛ばしてごめん。ちょっと動揺して……痛くなかった?」
「……これくらいはどうってことはない」
 彼はそう言うと、私のはす向かいの席に腰を下ろした。私の隣も向かいの席も空いているのに、彼はいつも私の斜め前の席に座る。そういうところが彼らしくて、私の頬は自然に緩む。
「なんで日記なんて書いてるんだ?」
 彼は自分の鞄の中から英語の単語帳を取り出しながら、そんなことを尋ねた。
 私は答える。
「文芸部に入部したからには、何か書こうと思ったんだけど、なかなかうまくできなくて……」
「なるほど。それで日記か」
 彼はペラペラと英単語帳をめくる。
「悪くない考えだ」
「そうなの? これくらいしか書けるものないから、とりあえず書いてるだけなんだけど」
「どんな文章でも書き続ければ文章力はつく。それに昔から日記文学というものは存在する。『土佐日記』しかり、『蜻蛉日記』しかりだ。日記だからと言って卑下する必要はないだろう」
「へえ」
 私は感嘆の声を漏らす。そのように深い意図があって始めたことではないが、褒められて悪い気はしない。
 それが、めったに人を褒めないことりくんの言葉なら、なおさらだ。
「えへへ」
 彼に誉められるのは素直に嬉しかった。
「………………」
 視線を感じて、私が顔を上げると、彼はどこか不満げな顔で私を睨んでいた。私は首を傾げる。
「どうかしたの?」
「………………」
 確かに私の方をじっと見つめていたはずなのに、私が声をかけた途端、彼は視線を手元の単語帳に落としてしまう。
 彼からの返事はない。
 彼のこんな態度は日常茶飯事だ。私に興味を示すことすらなかった四月の頃に比べれば、格段に進歩しているとすら言えるかもしれない。だから、私は彼のその奇妙な態度も特に気にも留めず、自分の日記を綴る作業に戻ろうとした。
 そのときだった。
「なあ」
 彼は手元の単語帳に目を落としたまま呟いた。
「なんでおまえはいつも部室に居るんだ」
 彼からの不意の問いかけに私は思わず、彼の顔をしげしげと眺めてしまう。彼は私に目を合わせない。だが、彼が視線を向けている単語帳に集中できていないのは明らかだった。
 私は彼の問いかけに答える。
「なんで……? 私も文芸部の一員なんだし、ここに居る権利はあるはずでしょ」
「……そういうことを言ってるんじゃねえ」
 彼はなぜかおもちゃを取り上げられた子供のような顔で言った。
「だから、その……」
 いつもずけずけと物を言う彼にしては歯切れの悪い喋り方で彼はつぶやいた。
「……なんでおまえは俺につきまとうんだ」
 彼はいつの間にか手元の単語帳を閉じていた。だが、視線は中途半端に空をさまよっている。
「………………」
 彼がこんな風に迷い、戸惑いながら話をし始めたのは、もしかしたら初めてのことだったかもしれない。
 これは何かの転機なのかもしれない。
 そんな風に考えて、私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ことりくんと友達になりたいから」
 それはまるで枝の上に降り積もった雪がこぼれ落ちるように、自然とまろびでた言葉だった。
 言葉は嘘つきだ。本当の思いが言葉という形を得るのは、実はとても難しいことなのだと思う。
 でも、このときに出た言葉は紛れもない私の真実の思いだった。
 彼はさまよわせていた視線を私に向ける。
「……なんで俺なんだよ」
 彼は眉間に皺を寄せる。私はなぜか、彼のそんな顔が好きだった。私を睨みつける彼の眼鏡越しの瞳がいとおしかった。彼のそんな部分が好きな自分はどこかおかしいのだろうか。
 だから、私は笑って答える。
「私、友達居ないから」
 彼は一層に顔をしかめる。
「休み時間に一緒に居る奴等は?」
「あれはクラスメイト。仲間ではあっても、友達じゃないよ」
 私はそんな風に切り捨てる。
 彼女たちのことが嫌いなわけではない。どちらかいうと好きだとも思う。けれど、彼女たちは本当の私を知らない。そんな人たちを友達と言えるだろうか。もちろん、悪いのは彼女たちではない。人に言えない秘密を抱える薄汚い自分だ。
 彼は、ことりくんは、私の秘密を知っている。知って、私を庇ってくれた。ただそれだけのことが、私にとってどれだけ大きいことだったのか、彼はきっと知らないのだろう。
「本当の友達になれるかもと思ったのは、ことりくんだけだよ」
 私はそう言って彼を見つめた。
「………………」
 彼は私の視線を受け止める。そして、病気の子供を見つめるような表情で私の方を見ていた。
 沈黙。部室に置いてある古い時計がかちりかちりと時を刻む。その音だけが、世界が停止したわけではないことを示す証しになっていた。私たちの間に静寂が降り積もる。
 その沈黙を先に破ったのは彼の方だった。
「友達の定義というのは難しい」
 私は彼の言葉に黙って耳を傾ける。
「一緒につるむ相手を友達と呼ぶのなら、大抵の人間に友達は居るということになる。だが、それ以上の何かを求めるというのなら……」
 そこで彼は言葉を止める。その先の言葉を探しあぐねているかのように彼は天を仰いだ。彼の座るパイプ椅子がぎしりと小さな悲鳴を上げた。
 そして、再び彼は私に向き直る。
「おまえが俺に友愛の情を感じるのは、自由だ。俺がおまえに同じ感情を抱くかは解らんがな」
「…………えっと」
 私は彼の言葉を噛み砕く。
「私がことりくんを友達だと思うのは勝手だけど、ことりくんが私のことを友達と思うかは解らないってことかな?」
「そういうことだ」
「………………」
 私は彼を見つめる。不機嫌な表情の彼。そんな彼に向かって、私は言う。
「ことりくんが私を友達と思うかは解らないってことは、いつかは私を友達だと思ってくれるかもしれない、ってことだよね?」
「…………!」
 彼は私の言葉にすがめた瞳をそっと開いた。彼はきょとんとした表情で私を見ている。
 またも訪れた静寂。だけど、今度の静寂は一瞬で終わった。
「はははっ、言うじゃないか!」
 彼は声を上げて笑っていた。
 そんな彼の態度に今度は私の方が驚きで目を見開いてしまう。
「確かにその通りだ。俺は解らないと言った。それは自分でも気付かない内に、おまえに友愛の情を抱く可能性があると暗に認めてしまっていたのかもしれない」
 彼は本当に楽しそうな表情で笑っている。
「一本取られた。これは認めよう」
「えっと、つまり、私のことが好きになったっていうこと?」
「そこまでは言っとらん。調子に乗るな」
 彼は再び私を睨んだけれど、彼の瞳には先ほどとは違う温かみがあった。
「おっと、バカな話をしている内に塾の時間が来てしまう。俺は行くぞ」
 そう言って彼は単語帳を鞄に滑り込ませ、立ち上がる。
「あ、待って!」
 私は彼を呼び止める。
「私も一緒に帰っていい?」
 今日は仕事をする予定もない。やることがないから部室に来ていただけだ。だから、彼が帰るなら一緒に帰りたい。
「………………」
 彼は黙っている。いつもの仏頂面で私を見ていたかと思うと、不意に目を反らし、鞄を掴んで、部室のドアノブを掴む。
「好きにしろ」
 背中越しにそう言うと、彼は扉を開けた。
「…………!」
 私は慌てて日記をしまうと、彼の背中を追う。
 そして、私は彼が出て行った部室の扉を押し開けた。
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登場人物紹介

小鳥遊祐介

真面目な優等生だが、少し斜に構えたところがある。ややプライドが高く、自分の周囲の人間を見下す嫌いがある。

眼鏡をかけている。結衣曰く「眼鏡を取るとイケメン」。


結衣からの呼び方を不服に思っており、事あるごとに呼び名を改めるように言う。

水城結衣

明るい性格で、誰にでも話しかけ、仲良くなるタイプだが、その実、心に闇を抱えている。

援助交際をしている。


祐介のことを「『小鳥遊』って書いて『たかなし』と読むなんて変」という理由で「ことりくん」と呼ぶ。

小林翼

祐介の友人で腐れ縁。

お調子者で軽いが、その実、仲間思いの善人。

鈴谷美鳴

裕介の従妹。裕介のことを「ゆう兄」と呼ぶ元気な少女。

翼のことは幼い頃から知っており「つば兄」と呼ぶ。

学校でも裕介と翼をあだ名で呼ぶので、裕介からはよく窘められるが、直る気配はない。

森中葉月

国語科教師。祐介と結衣の担任。おっとりとした性格。

社会人三年目であり、まだどこか頼りないところがある。

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