準備

文字数 4,577文字

 九月。夏休みが終わり、新学期が始まる。
 夏の余韻のような暑さは、ねっとりと身体に絡みつく。首元に、じとりと汗がたまる。ついに辛抱ができなくなってシャツの首元のボタンを一つだけ緩めた。
「暑いねえ」
 団扇で首元を扇ぎながら、気の抜けた声でそう呟いたのは翼だ。こいつは首元を緩めるどころか、ネクタイすらしていない。
「また森中先生に怒られるぞ」
「うーん。それはそれで一興という奴だな。背筋が凍って、この寒さも和らぐやもしれん」
「おまえは、本当に昔から変わらんな……」
 僕は小さくため息をつく。
「とはいえさ」
 翼は手に持っていた団扇で目線の先を指す。
「さすがに文化祭の準備中ならネクタイを外すくらい許してくれると思うけど」
 放課後の教室。机をすべて後ろに移動させてつくられたスペースで男子生徒たちは看板作りの大工仕事。女子生徒たちは裁縫で衣装を作っている。うちのクラスの出し物は喫茶店。ベタだなと思ったが投票で決まったのだから仕方がない。喫茶店と言ってもスーパーで買ってきたジュースとお菓子を並べるだけの簡単なもの。というか、僕が誘導して、そうさせた。火を使って本格的に調理を行うような屋台を行いたければ、火元責任者が必要になってくる。そんな面倒ごとを背負い込む気はなかった。火を使わない喫茶店なら、あとは装飾と衣装に凝るだけでいい。後はそういうのが好きな生徒に丸投げすればいいだけだ。
「おまえんとこのクラスは屋台だったか?」
 僕は翼に尋ねる。
「おう、焼きそばと焼きチュロスだ」
「どういう組み合わせなんだよ……」
「投票で最後までその二つが残って、決着がつかなくてな。なら、両方やればいいってことになった」
 一種類の料理をするだけでも面倒なのに、二種類もやるだなんてよくやるものだと思う。
「………………」
 僕は横目で翼を見る。
 彼は楽し気に文化祭の準備を進める生徒たちを見ている。
 こいつはこういう行事が好きなのだろうな。ふと、そんなことを考える。
 思えば昔からそうだ。小学校の学芸会でも中学校の合唱コンクールでも、こいつは率先して前に立ち、みんなを引っ張っていた。僕はそれを教室の一番後ろから見ていた。
 ふと、なぜこいつとずっと一緒に居るのだろうと考える。
 腐れ縁。それ以上の理由はない。
 ――それ以上の理由はないんだ。
 僕は自分で自分に言い聞かせる。
「そういえば、今年はキャンプファイアー、どうするのかね?」
 翼は不意にそんなことを尋ねる。
「なんか消防法の関係とか、年々うるさくなってるじゃん。キャンプファイアーは中止になったって学校も多いらしいよ」
「まあ、あんなもん、準備も片付けも面倒。燃え上がるのは一瞬。資源と時間の無駄だからな」
「祐介はほんと冷めてるなあ。キャンプファイアーで燃えて、あったまった方がいいよ」
「面白くねえぞ」
 僕はそんな言葉を吐き捨てた。
「キャンプファイアーかあ」
 翼は僕の言葉を意に会する様子もなくヘラヘラと笑っている。そして、不意に窓の外を見る。
「なあ、キャンプファイアーと言えば、噂があったよね?」
「……噂?」
 僕はゆっくりと視線を翼の方に向ける。
「噂」
 翼も視線だけを僕の方に向ける。
「……なんだ、それは」
「知ってるだろ」
「………………」
 僕は唇を結び、じろりと翼を睨んだ。
 翼は僕の冷たい視線など見なかったような調子で楽しそうに言った。
「キャンプファイアーのとき、あの木の下で告白をしたカップルは永遠に結ばれるって奴だよ」
「……ああ。あったかな」
 僕は気のない調子で返事をする。
「あの噂を真に受ける奴って居るのかね? キャンプファイアーのとき、あの木の下を見張ってたら面白いかもな」
「出歯亀趣味も大概にしておいた方がいいぞ」
 僕はどうにかそんな言葉だけを吐いて、その場を後にしようとする。もうこれ以上、翼とこの噂について話す気はなかった。
「なあ」
 立ち去ろうとした僕の背中に翼の声が飛ぶ。
「水城ちゃんってさ」
 翼はたっぷりと時間を空けて、こう言った。
「誰か好きな人、居るのかな?」
「………………」
 僕は彼の言葉に無言の背中で返事をする。
「なあ、あの子って、やっぱりおまえの――」
 僕は廊下を踏みしめる足に力を込める。うつむいて地面を睨む。一歩、一歩、足早に歩を進める。
 もうこれ以上、翼と話すことなど、ありはしなかった。

「どうですか、文化祭の準備は?」
「……森中先生」
 廊下を歩く僕の背に声をかけたのは森中先生だった。
 先生はまるで湖面を滑る水鳥のような動きで、すいと僕の前に立つ。そして、窓の向こうの運動場を見下ろす。その視線の先では、生徒たちが明後日に迫った文化祭に向けて、最後の準備を進めていた。どの生徒の表情も間近に迫った祭りへの高揚感が隠せない様子だ。祭りは準備をしている間が一番楽しいだなんて言うけれど、少なくともあそこにいる生徒たちにとっては、その言葉は真実であるようだった。
「ああ、若いっていいですねえ」
 森中先生がそんなことを、どこか年寄めいた口調で言うものだから、僕は思わず苦笑する。
「先生だって、十分にお若いですよ」
「ふふ、ありがとう。でも、あそこの生徒たちに比べたら、私なんてもうおばあさんも同然ですよ」
 僕は返事の代わりにもう一度、運動場で汗水を流す生徒たちを見下ろした。
「キャンプファイアー、今年は何とか決行できるみたいです」
 不意に森中先生はそんな言葉をつぶやいた。
「本当ですか?」
「ええ。今年はもう薪も用意してありますからって」
 さすがに本番の二日前に中止なんていうことにはならない様だった。あそこで必死に準備をしている奴らもこれで浮かばれるだろう。
「来年度はどうなるかは不明です。まあ、近隣住民からのクレームも年々増えて、教頭先生も及び腰ですから。もしかしたら、我が校でのキャンプファイアーも、今年が最後かもしれませんね」
「………………」
 僕は学校行事などどうでもいいと思っているタイプの人間だ。修学旅行の行先が国内であろうが、海外であろうがどうでもいいし、体育祭の規模が縮小されても屁とも思わない。だけれど、文化祭のキャンプファイアーだけは――
「これであのジンクスもおしまいでしょうか」
 先生はまるで僕の心を見通したようなことを呟く。
「キャンプファイアーのとき、あの木の下で告白したカップルは結ばれる……そんな可愛らしい噂がありましたよね?」
 僕はゆっくり先生の方を振り返る。
「あんなのは迷信ですよ」
 今の僕はうまく笑えているだろうか?
 自然な表情を作れているだろうか?
 「自然な表情を作る」などと考えてしまっている時点で、僕が動揺しているのは明らかなのだけれど。
 森中先生は僕に背を向けて呟く。
「私はただの教師で、誰でも救えるようなすごい人間ではないですけど――」
 僕はずっと僕の前を歩いてきた先生の背中をじっと見つめる。
「せめて、自分の生徒だった子は、全員幸せになってくれたらと願わずには居られないんですよ」
 そう言って、先生は暗い廊下の向こうへと消えていった。

「ゆう兄……」
 今日はいろいろな人間に話しかけられる日だななどと思いながら振り返る。
 そこに立っていたのは、もちろん、美鳴だった。
 いつもの子供みたいな無邪気な表情は陰もなく、どこか暗い表情。向こうで文化祭の準備にはしゃぐ生徒たちとは対照的だった。
 なぜ、彼女がこんな顔をしているのか解らないほど、僕も愚鈍ではない。
 彼女にとってはきっと楽しい行事であろう文化祭の直前に、こんな顔を指せてしまっているのは、素直に申し訳なかった。
「向こうで話そう……」
 僕は彼女を連れ立って、人混みの少ない方に歩き出す。
 彼女は無言でついてくる。客観的に見たら、彼女はまるで今から教師に怒られる生徒のように見えたかもしれない。それくらい彼女は消沈していた。
 運動場を見下ろす階段の中腹で足を止める。ここなら誰かが来てもすぐに解る。話を聞かれる心配はないだろう。
「話したいのは水城のことか?」
 僕は単刀直入に尋ねる。
 彼女は僕の態度に一瞬、目を揺らしたが、すぐに言の葉を紡ぐ。
「うん……もうSNSとかでだいぶ拡散されてる……」
 僕も馬鹿ではない。校内で噂がどんな風にばらまかれるかぐらいは知っている。
「俺と水城が付き合っているとか書かれているのか?」
「……うん……そんなところ……」
「………………」
 彼女の様子を見て、察する。実態は僕の想像よりも、もっとひどいようだ。それこそ、美鳴が口にするのをはばかられる程度のレベルには。
 僕は尋ねる。
「水城は友達は多かったんじゃなかったか? 友達が彼女を庇ったりはしないのか?」
 少なくとも一学期の頃、彼女が複数の女子生徒と一緒に机を囲んで昼食をとっている光景は何度も目にしている。その中には、いわゆるクラスの中心人物とでもいうべき生徒が混じっていたはずだ。そういう生徒は自分の仲間に妙な噂が立ったら庇いそうなものだが。
 僕の言葉に美鳴は首を横に振る。
「もう、みんな水城さんのことはハブにする方向で決定したみたい……」
「ハブね……」
 「ハブに決定」などという会議でもしたかのような言い回しに少しだけ笑いが込み上げてくる。もちろん、笑っている場合ではないのだけれど。
「ねえ、ゆう兄……」
 僕は彼女の声色に込められた何かを感じ取り、美鳴の方を振り向く。
 美鳴は長い付き合いの僕が見たこともないような本当に真剣な顔で僕を見て、尋ねる。
「水城さんがやっていることの噂……嘘だよね?」
 そんな彼女を見て思う。
 美鳴は変わった。
 大人になった、というのだろうか。
 少なくとも四月の頃の無邪気はもうない。
 僕はずっと彼女には、もっと大人になってほしいと思っていた。
 だけど、今の彼女のようになってほしいと思っていたわけではなかったのだ。
「嘘だよ」
 僕は力強く、そう告げる。
「嘘なんだ……」
「ああ、嘘だ」
 僕は彼女から一ミリも目を逸らさずにそう言い切った。
 美鳴もまた目を逸らさない。
 そんな僕たち二人の視線の探り合いは、そう長くも続かなかった。
「わかった……私はゆう兄の言葉を信じるよ……」
 彼女はそう言った。
 言葉の意味とは裏腹に、まだどこか納得しかねている様子だった。
 そのときだった。
 僕はなぜかその瞬間、美鳴の姿に、一瞬、あの彼女の姿がよぎった。
 いつも明るいようでいて、心のどこかに闇を抱えている彼女の姿が。
 僕は本当に彼女を守ってあげたいと思っていて、でも、結局、僕は何もできなかった。
 そんな情けない過去の自分が、僕を背後から睨んでいた。
 ――すべてを清算するときが来ているのだろう。
「なあ、美鳴」
 僕は彼女に向かって告げる。
「大丈夫だ。ちゃんと、俺が話をつけるから」
「……ゆう兄?」
 僕は今も着々と進む祭の準備の様子を見下ろしながら言った。
「この祭が終わるころにはすべての決着がついていると思うから」
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登場人物紹介

小鳥遊祐介

真面目な優等生だが、少し斜に構えたところがある。ややプライドが高く、自分の周囲の人間を見下す嫌いがある。

眼鏡をかけている。結衣曰く「眼鏡を取るとイケメン」。


結衣からの呼び方を不服に思っており、事あるごとに呼び名を改めるように言う。

水城結衣

明るい性格で、誰にでも話しかけ、仲良くなるタイプだが、その実、心に闇を抱えている。

援助交際をしている。


祐介のことを「『小鳥遊』って書いて『たかなし』と読むなんて変」という理由で「ことりくん」と呼ぶ。

小林翼

祐介の友人で腐れ縁。

お調子者で軽いが、その実、仲間思いの善人。

鈴谷美鳴

裕介の従妹。裕介のことを「ゆう兄」と呼ぶ元気な少女。

翼のことは幼い頃から知っており「つば兄」と呼ぶ。

学校でも裕介と翼をあだ名で呼ぶので、裕介からはよく窘められるが、直る気配はない。

森中葉月

国語科教師。祐介と結衣の担任。おっとりとした性格。

社会人三年目であり、まだどこか頼りないところがある。

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