最期のメッセージ
文字数 5,099文字
校内で自殺者が出た。
それで騒ぎにならないはずがない。
学校は閉鎖され、マスコミが大挙して学校にやってきた。
幸いというべきか彼女は遺書を残さなかったから、あの木の下での僕と彼女のやり取りが明るみに出ることはなかった。
だが、生徒の間で僕とあの娘との間に後ろ暗い噂があったのは事実だ。当然、僕は警察からもマスコミからも絞られた。どちらにしても、この学校に居られないのは間違いないことだった。落ち着いたころに退職願を出そうと思っている。
かわいそうなのは、美鳴だった。以前の明るい様子は陰もない。今は学校にも行けていないらしい。僕がもっと違った形で、ことりとの決着をつけていればこんなことにはならなかったのだろうか。
週刊誌を読んで、ことりの置かれていた家庭環境を把握する。彼女は確かに大叔父の家に居候という形で住んでいたらしい。結衣という母親を失った彼女を大叔父はいやいや引き取ったらしい。大叔父からしてみれば、自分の妹の孫という縁があるのかもわからないほどの関係だ。歓迎できないのも当たり前かもしれない。ゆえに彼女は家の中で疎んじられていたらしい。週刊誌の中ではぼかされていたが、虐待があったという噂もあるようだ。
きっと、あの娘は僕への復讐だ、などと言いながら、その実、本当は僕に助けを求めていたのではないだろうか。
今になって、そんなことを考える。
母親を失い、帰るべき家では疎んじられる生活。その中でよりどころにしていたのが、幻の父親だったのかもしれない。僕という存在を突き止めた彼女は僕に縋りたかったのではないだろうか。
いつかの夜、僕は彼女に「今が楽しいか?」と尋ねた。
彼女は「まあ、こうやってことりくんと話しているのは楽しいかな」と答えた。
あの時の僕は、彼女の言葉を僕への復讐を楽しんでいるという意味で解釈した。だが、あの言葉は彼女の素直な本心だったのではないだろうか。
得られなかったはずの父親像を僕に見出していたのではないだろうか。
僕はひとり、自分の部屋に閉じこもり、そんな益体もないことを考え続けている。
かつて、僕は水城結衣を愛していた。
それは間違いのない事実だ。
だが、僕が彼女を愛していた理由は、彼女の容姿に惚れたわけでも、彼女が僕に惚れていたからでもない。
ただ、彼女が愚か者だったからだ。
身体を売って日銭を稼ぐ卑しい女。
僕は彼女を心底軽蔑し、見下していた。
だからこそ、僕は彼女に手を差し伸べてやることができた。
人は自分よりも下位の存在に対しては余裕をもって接することができる。
彼女は心の底からクズで間抜けで僕よりも下位の存在だと思えたから、僕は彼女のことを愛することができたのだ。
その愛が揺らいだのは、あの娘が妊娠の事実を告げたときだった。
あのときの彼女の瞳には決意があった。
決して揺らぐことのない芯がそこにはあった。
それは確かに僕にはないものだった。
何の覚悟も決められない中途半端な僕なんかよりも彼女の方がずっとずっと立派な存在になっていたのだ。
あの瞬間、僕は覚めてしまったのだ。
愛という名の幻想から。
結局、あの夜、彼女の元へ行こうとしたのもポーズだけだった。一晩中迷ったという事実が欲しかっただけ。本当は最初から彼女の元へ行くつもりなんてなかったのだ。
ことりが首を吊った夜のことを思い返す。
それでも、もし、結衣が僕を呪い、怨嗟の中で死んでいったのだと告げられれば、僕はあの哀れな娘に手を差し伸べる余裕はあったかもしれない。そっと、抱きしめてやるくらいのことはできたかもしれない。
だが、結衣は最期まで僕を恨まなかったと告げられて、彼女を愛してやれるほど、僕は大人ではなかった。
結衣は僕なんかよりもずっとすごい人間だ。
そんな女から生まれた娘を、僕が受け入れられるはずがないじゃないか。
僕は一人くらい部屋の中でうずくまり続ける。
あれ以来、どれだけの日数が過ぎただろうか。僕には時間の感覚も曖昧だ。
学校には一度も顔を出せていない。もう、やめるつもりだったから、どうでもいいが。
そんなある日、一人の訪問者があった。
「やあ」
翼だった。
僕は最初彼を無視しようとした。だが、彼はずっと部屋の前で居座る構えだった。
「開けてくれないなら構わないよ。なんとアウトドア用の椅子と分厚い文庫本も持ってきた。君がここを開けるまで、一晩だってここにいるさ」
奴はやると言ったことは本当にやる男だ。
根負けした僕は彼を部屋に入れることにした。
部屋に入ってきた翼は、藪から棒に言った。
「はい、これ。結衣ちゃんがつけてた日記」
僕は思わず、口をあんぐりと開ける。
「なんで……」
「ああ、安心して。僕はただの運び屋さ。中身は一切見ていない。僕に出刃亀趣味はないからね」
そんなことを作った笑顔で言うのだ。
彼から押し付けられた日記帳を見る。
紐で束ねられたそれは五冊あった。しかも、一冊一冊が分厚い。あの結衣がこれほどの冊数を重ねるほど、日記を書き続けたという事実には素直に驚いた。
ことりは言っていた。
『お母さんは、あんたに褒められたのが嬉しくて日記を続けていたんだ……』
彼女の言葉を思い出して、僕はまた気が重くなった。
「ああ、学校を辞めるんだとしても、一度森中先生には挨拶に行きなよ。その日記を手に入れるために骨を折ったのも主に森中先生なんだから」
森中先生……。確かにことりの担任という立場であった先生なら、遺族と接触する機会はあったかもしれない。そこで、どうにかうまく言いくるめて、これを入手してきたのだろうか。
「じゃあ、帰るよ」
僕は彼の背中に問いかける。
「何も言わないのか……」
彼は振り返りもせずに言った。
「何も言ってほしくないだろ」
そのまま、奴は部屋を出て行った。
本当に頼りになって、むかつく男。
僕はこの男のこういうところが心底、嫌いだった。
僕は日記を手に取る。
分厚いハードカバーのような表紙は古びていて、ところどころ、塗装が剥げていたり、傷がついてしまったりしている。その一つ一つが、16年という歳月を物語っているように思えた。
ふと、思う。
この日記を燃やしてしまおうか、と。
燃やして灰にしてしまえば、僕がこれ以上、犯した過去の罪に向き合う方法はなくなる。すべてを忘れることができる。
だが、それは同時に、僕が犯した罪をすすぐチャンスを捨てることと同義だった。
喉がからからにかわき、胸の動悸が激しくなる。
この日記に正面から向き合えるほど、僕の肝は座っていなかったが、同時に、この日記を無視して、居直れるほどの厚かましさもなかった。
結局、僕は震える手で、そっと日記を開いた。
そこに綴られていたのは、彼女の日々の記録だった。
初めの方は起こった出来事を淡々とメモするかのような味気ないものだったが、徐々に彼女の気持ちが添えられていくようになる。
今日は、日記をつけていたことをことりくんにほめられた。それだけなんだけど、それがとてもうれしかった。
そんな言葉を見て、僕の胸は激しく締め付けられる。
その後からは特に日記としての体裁が整った文章が増えていく。
二人で文芸部の部室で過ごした話。
二人で肩を並べて下校した話。
そして、二人でした夏祭りのデート。
そのどれもがすばらしい思い出として、きらきらと輝くような言葉で綴られていた。
僕は確かにあったはずの楽しかった過去を突きつけられ、息が出来なくなる。呼吸の仕方がわからない。どうやって、僕は今日まで生きてきたのだろう。
その後の部分を読む勇気はなかった。
僕が彼女を見捨てた後の日記を。
日記は五冊ある。つまり、彼女は僕と別れた後も日記をつけていたということだ。僕はあえて最後の日記帳を手に取る。そこには、親子二人の苦しい生活が綴られていた。
なんとか職を見つけ、二人で細々と生活していく日々。朝となく、夜となく働く生活。そんな彼女の生きざまが、途絶え勝ちになった日記の記述から伝わってきた。
僕の手が止まったのは、日記の中で、彼女が僕に電話をかけたと綴った場面だった。
不意討ちで現れた言葉を避けることができず、僕の目はそこに書かれた言葉が僕の目に焼き付く。
今日は数年ぶりにことりくんに電話をかけた。あの夏の日にもらった携帯番号。今まで何度もかけようとして、結局、踏みとどまってしまった。今更、電話をかけて、何が起こるというだろうか。
だが、今日はかけなくちゃいけない。
私にはもう時間がないから。
昨日、医者に行ってきた。病名は難しくていまいち理解できなかったけど、私はもうすぐ死んでしまうらしい。
自分の死に関して思うことがないわけではないけど、それよりも今は娘のことりと、そして、ことりくんのことが気になる。まだ、自分の死に実感が持てていないからだろうか。
最初はことりくんに電話をして、娘のことりのことを託そうかと考えた。だけど、彼の声を聞いたとき、私は咄嗟に電話を切ってしまった。
言えない。
もうこれ以上、ことりくんには迷惑はかけられない。そう思ってしまったのだ。
ことり、ごめんね。
あなたに、あなたのお父さんを会わせてあげられなくて。
彼には彼の人生があって、それは、もう私と交わらないもの。
あの夜、彼は来てくれなかった。
そのときに、私は一人で生きていくと決めたのだから。
だけど、私は最後に一度だけ、彼にメッセージを伝えたかった。電話越しに一瞬だけ聞こえた彼の声。私も彼に声をかけたかった。
だから、留守番電話になるタイミングを狙って、私は電話をかけた。
私は元気でやっている。
そんな内容を口走ったと思う。セリフを考えていたわけじゃないから、正確な言葉は、もう覚えていないけれど。
愛していた。
それは確かだった。
だけれど、それが本当に永遠のものであったのか。それは解らない。
この世に永遠に変わらないものなんてないのかもしれない。
だけど、それは本当は逃げなのだろうか。
明日からは入院の手続きをする必要がある。
あと、何度日記を書く機会があるか解らない。
だから、綴れるうちに書いておこう。
私はあのとき、確かにことりくんを愛していたと。
「………………」
僕はさらにページをめくる。
その後にも少しだけ日記は綴られていたいたが、ほとんどが病院であった事実を淡々と綴るだけのもの。きっと、この後は日記を書く余裕もなくなったのだろう。
僕は日記をそっと閉じた。
そして、その日記を抱いて、ベッドに仰向けに寝転ぶ。
気がつくと、頬を熱い涙が伝っている。それは何の涙だったのだろう。僕はそれを拭うこともせず、ただ、ぼうっと天井を見つめた。
どれだけ時間が経っただろうか。
このまま、何もせず、眠るように死ねたとしたら。そんな益体もないことを考える。
だが、僕はまだ生きている。
生きていれば、喉も渇けば、腹も減る。飢餓感が限界に達した僕は、ふらふらとゆっくりと立ち上がる。
そのときだった。
僕は抱いていた結衣の日記を落としてしまう。ベッドの上から勢いよく落とされた古い日記は、まるで路傍に打ち捨てられ肢体をさらした死体のように床にその身を投げ捨てた。
僕は慌てて、それを拾い上げる。
そのときだった。
不意に気が付く。
最後の日記は、途中で終わっていた。
記述者である結衣が亡くなった以上は、それはある意味当然のことだ。
ゆえに、日記のページは、後半の数十ページには何も書かれていない様だった。
だが、僕が日記を取り落としたことで、自然と開いたページは、何も記述されていないと思われていた場所だった。
そこにはたった一言、言葉が記されていた。
僕はその言葉から、目が離せなくなる。
そこには、震えた、けれど、確かな筆圧でたった四文字の言葉が記されていた。
許さない
枯れ果てたと思っていた涙が吹き出す。
身体の震えが止まらない。
「ああ……ああ……」
僕は震える指先で、たった四文字の言葉をなぞる。
僕が求めていたものが、そこにあった。
〈了〉
それで騒ぎにならないはずがない。
学校は閉鎖され、マスコミが大挙して学校にやってきた。
幸いというべきか彼女は遺書を残さなかったから、あの木の下での僕と彼女のやり取りが明るみに出ることはなかった。
だが、生徒の間で僕とあの娘との間に後ろ暗い噂があったのは事実だ。当然、僕は警察からもマスコミからも絞られた。どちらにしても、この学校に居られないのは間違いないことだった。落ち着いたころに退職願を出そうと思っている。
かわいそうなのは、美鳴だった。以前の明るい様子は陰もない。今は学校にも行けていないらしい。僕がもっと違った形で、ことりとの決着をつけていればこんなことにはならなかったのだろうか。
週刊誌を読んで、ことりの置かれていた家庭環境を把握する。彼女は確かに大叔父の家に居候という形で住んでいたらしい。結衣という母親を失った彼女を大叔父はいやいや引き取ったらしい。大叔父からしてみれば、自分の妹の孫という縁があるのかもわからないほどの関係だ。歓迎できないのも当たり前かもしれない。ゆえに彼女は家の中で疎んじられていたらしい。週刊誌の中ではぼかされていたが、虐待があったという噂もあるようだ。
きっと、あの娘は僕への復讐だ、などと言いながら、その実、本当は僕に助けを求めていたのではないだろうか。
今になって、そんなことを考える。
母親を失い、帰るべき家では疎んじられる生活。その中でよりどころにしていたのが、幻の父親だったのかもしれない。僕という存在を突き止めた彼女は僕に縋りたかったのではないだろうか。
いつかの夜、僕は彼女に「今が楽しいか?」と尋ねた。
彼女は「まあ、こうやってことりくんと話しているのは楽しいかな」と答えた。
あの時の僕は、彼女の言葉を僕への復讐を楽しんでいるという意味で解釈した。だが、あの言葉は彼女の素直な本心だったのではないだろうか。
得られなかったはずの父親像を僕に見出していたのではないだろうか。
僕はひとり、自分の部屋に閉じこもり、そんな益体もないことを考え続けている。
かつて、僕は水城結衣を愛していた。
それは間違いのない事実だ。
だが、僕が彼女を愛していた理由は、彼女の容姿に惚れたわけでも、彼女が僕に惚れていたからでもない。
ただ、彼女が愚か者だったからだ。
身体を売って日銭を稼ぐ卑しい女。
僕は彼女を心底軽蔑し、見下していた。
だからこそ、僕は彼女に手を差し伸べてやることができた。
人は自分よりも下位の存在に対しては余裕をもって接することができる。
彼女は心の底からクズで間抜けで僕よりも下位の存在だと思えたから、僕は彼女のことを愛することができたのだ。
その愛が揺らいだのは、あの娘が妊娠の事実を告げたときだった。
あのときの彼女の瞳には決意があった。
決して揺らぐことのない芯がそこにはあった。
それは確かに僕にはないものだった。
何の覚悟も決められない中途半端な僕なんかよりも彼女の方がずっとずっと立派な存在になっていたのだ。
あの瞬間、僕は覚めてしまったのだ。
愛という名の幻想から。
結局、あの夜、彼女の元へ行こうとしたのもポーズだけだった。一晩中迷ったという事実が欲しかっただけ。本当は最初から彼女の元へ行くつもりなんてなかったのだ。
ことりが首を吊った夜のことを思い返す。
それでも、もし、結衣が僕を呪い、怨嗟の中で死んでいったのだと告げられれば、僕はあの哀れな娘に手を差し伸べる余裕はあったかもしれない。そっと、抱きしめてやるくらいのことはできたかもしれない。
だが、結衣は最期まで僕を恨まなかったと告げられて、彼女を愛してやれるほど、僕は大人ではなかった。
結衣は僕なんかよりもずっとすごい人間だ。
そんな女から生まれた娘を、僕が受け入れられるはずがないじゃないか。
僕は一人くらい部屋の中でうずくまり続ける。
あれ以来、どれだけの日数が過ぎただろうか。僕には時間の感覚も曖昧だ。
学校には一度も顔を出せていない。もう、やめるつもりだったから、どうでもいいが。
そんなある日、一人の訪問者があった。
「やあ」
翼だった。
僕は最初彼を無視しようとした。だが、彼はずっと部屋の前で居座る構えだった。
「開けてくれないなら構わないよ。なんとアウトドア用の椅子と分厚い文庫本も持ってきた。君がここを開けるまで、一晩だってここにいるさ」
奴はやると言ったことは本当にやる男だ。
根負けした僕は彼を部屋に入れることにした。
部屋に入ってきた翼は、藪から棒に言った。
「はい、これ。結衣ちゃんがつけてた日記」
僕は思わず、口をあんぐりと開ける。
「なんで……」
「ああ、安心して。僕はただの運び屋さ。中身は一切見ていない。僕に出刃亀趣味はないからね」
そんなことを作った笑顔で言うのだ。
彼から押し付けられた日記帳を見る。
紐で束ねられたそれは五冊あった。しかも、一冊一冊が分厚い。あの結衣がこれほどの冊数を重ねるほど、日記を書き続けたという事実には素直に驚いた。
ことりは言っていた。
『お母さんは、あんたに褒められたのが嬉しくて日記を続けていたんだ……』
彼女の言葉を思い出して、僕はまた気が重くなった。
「ああ、学校を辞めるんだとしても、一度森中先生には挨拶に行きなよ。その日記を手に入れるために骨を折ったのも主に森中先生なんだから」
森中先生……。確かにことりの担任という立場であった先生なら、遺族と接触する機会はあったかもしれない。そこで、どうにかうまく言いくるめて、これを入手してきたのだろうか。
「じゃあ、帰るよ」
僕は彼の背中に問いかける。
「何も言わないのか……」
彼は振り返りもせずに言った。
「何も言ってほしくないだろ」
そのまま、奴は部屋を出て行った。
本当に頼りになって、むかつく男。
僕はこの男のこういうところが心底、嫌いだった。
僕は日記を手に取る。
分厚いハードカバーのような表紙は古びていて、ところどころ、塗装が剥げていたり、傷がついてしまったりしている。その一つ一つが、16年という歳月を物語っているように思えた。
ふと、思う。
この日記を燃やしてしまおうか、と。
燃やして灰にしてしまえば、僕がこれ以上、犯した過去の罪に向き合う方法はなくなる。すべてを忘れることができる。
だが、それは同時に、僕が犯した罪をすすぐチャンスを捨てることと同義だった。
喉がからからにかわき、胸の動悸が激しくなる。
この日記に正面から向き合えるほど、僕の肝は座っていなかったが、同時に、この日記を無視して、居直れるほどの厚かましさもなかった。
結局、僕は震える手で、そっと日記を開いた。
そこに綴られていたのは、彼女の日々の記録だった。
初めの方は起こった出来事を淡々とメモするかのような味気ないものだったが、徐々に彼女の気持ちが添えられていくようになる。
今日は、日記をつけていたことをことりくんにほめられた。それだけなんだけど、それがとてもうれしかった。
そんな言葉を見て、僕の胸は激しく締め付けられる。
その後からは特に日記としての体裁が整った文章が増えていく。
二人で文芸部の部室で過ごした話。
二人で肩を並べて下校した話。
そして、二人でした夏祭りのデート。
そのどれもがすばらしい思い出として、きらきらと輝くような言葉で綴られていた。
僕は確かにあったはずの楽しかった過去を突きつけられ、息が出来なくなる。呼吸の仕方がわからない。どうやって、僕は今日まで生きてきたのだろう。
その後の部分を読む勇気はなかった。
僕が彼女を見捨てた後の日記を。
日記は五冊ある。つまり、彼女は僕と別れた後も日記をつけていたということだ。僕はあえて最後の日記帳を手に取る。そこには、親子二人の苦しい生活が綴られていた。
なんとか職を見つけ、二人で細々と生活していく日々。朝となく、夜となく働く生活。そんな彼女の生きざまが、途絶え勝ちになった日記の記述から伝わってきた。
僕の手が止まったのは、日記の中で、彼女が僕に電話をかけたと綴った場面だった。
不意討ちで現れた言葉を避けることができず、僕の目はそこに書かれた言葉が僕の目に焼き付く。
今日は数年ぶりにことりくんに電話をかけた。あの夏の日にもらった携帯番号。今まで何度もかけようとして、結局、踏みとどまってしまった。今更、電話をかけて、何が起こるというだろうか。
だが、今日はかけなくちゃいけない。
私にはもう時間がないから。
昨日、医者に行ってきた。病名は難しくていまいち理解できなかったけど、私はもうすぐ死んでしまうらしい。
自分の死に関して思うことがないわけではないけど、それよりも今は娘のことりと、そして、ことりくんのことが気になる。まだ、自分の死に実感が持てていないからだろうか。
最初はことりくんに電話をして、娘のことりのことを託そうかと考えた。だけど、彼の声を聞いたとき、私は咄嗟に電話を切ってしまった。
言えない。
もうこれ以上、ことりくんには迷惑はかけられない。そう思ってしまったのだ。
ことり、ごめんね。
あなたに、あなたのお父さんを会わせてあげられなくて。
彼には彼の人生があって、それは、もう私と交わらないもの。
あの夜、彼は来てくれなかった。
そのときに、私は一人で生きていくと決めたのだから。
だけど、私は最後に一度だけ、彼にメッセージを伝えたかった。電話越しに一瞬だけ聞こえた彼の声。私も彼に声をかけたかった。
だから、留守番電話になるタイミングを狙って、私は電話をかけた。
私は元気でやっている。
そんな内容を口走ったと思う。セリフを考えていたわけじゃないから、正確な言葉は、もう覚えていないけれど。
愛していた。
それは確かだった。
だけれど、それが本当に永遠のものであったのか。それは解らない。
この世に永遠に変わらないものなんてないのかもしれない。
だけど、それは本当は逃げなのだろうか。
明日からは入院の手続きをする必要がある。
あと、何度日記を書く機会があるか解らない。
だから、綴れるうちに書いておこう。
私はあのとき、確かにことりくんを愛していたと。
「………………」
僕はさらにページをめくる。
その後にも少しだけ日記は綴られていたいたが、ほとんどが病院であった事実を淡々と綴るだけのもの。きっと、この後は日記を書く余裕もなくなったのだろう。
僕は日記をそっと閉じた。
そして、その日記を抱いて、ベッドに仰向けに寝転ぶ。
気がつくと、頬を熱い涙が伝っている。それは何の涙だったのだろう。僕はそれを拭うこともせず、ただ、ぼうっと天井を見つめた。
どれだけ時間が経っただろうか。
このまま、何もせず、眠るように死ねたとしたら。そんな益体もないことを考える。
だが、僕はまだ生きている。
生きていれば、喉も渇けば、腹も減る。飢餓感が限界に達した僕は、ふらふらとゆっくりと立ち上がる。
そのときだった。
僕は抱いていた結衣の日記を落としてしまう。ベッドの上から勢いよく落とされた古い日記は、まるで路傍に打ち捨てられ肢体をさらした死体のように床にその身を投げ捨てた。
僕は慌てて、それを拾い上げる。
そのときだった。
不意に気が付く。
最後の日記は、途中で終わっていた。
記述者である結衣が亡くなった以上は、それはある意味当然のことだ。
ゆえに、日記のページは、後半の数十ページには何も書かれていない様だった。
だが、僕が日記を取り落としたことで、自然と開いたページは、何も記述されていないと思われていた場所だった。
そこにはたった一言、言葉が記されていた。
僕はその言葉から、目が離せなくなる。
そこには、震えた、けれど、確かな筆圧でたった四文字の言葉が記されていた。
許さない
枯れ果てたと思っていた涙が吹き出す。
身体の震えが止まらない。
「ああ……ああ……」
僕は震える指先で、たった四文字の言葉をなぞる。
僕が求めていたものが、そこにあった。
〈了〉