そして、心に明かりがともる

文字数 2,109文字

 気が付くと、私は彼を目で追っている。
 その観察の結果、得られた情報は彼に友人は居ないということだった。
 いや、正確には一人、友人らしき者は居るのだが。
「おーい、祐介。職員室行こうぜ」
 そんな風に言いながら、彼の肩を叩くのは、クラスメイトの小林くんだ。女子たちから聞いた話では二人は同じ中学出身とのこと。ぶっきらぼうな性格で人を突き放すタイプの彼に唯一、物怖じせずに話しかけていく存在だったらしい。
「行かねえよ」
「ええ! なんでだよ!」
「職員室に行く理由がねえ」
「俺にはあるんだよ。森中ちゃんに呼び出されたの。絶対説教だわ。だから、おまえにも一緒に来てほしくてよ」
「あほか、俺は関係ねえだろうが」
 彼は小林くんの懇願を無視して、単語帳を読み続けている。
「お願いだって! 一緒に森中ちゃんに怒られてくれよ」
「なんで一緒に怒られる必要があるんだよ」
「おまえ、Mだから森中ちゃんみたいな先生に怒られるの好きだ――ぐはあ!」
「すまん、俺、Sだから、衝動的におまえの鼻をつぶしてやりたくなってな」
「相変わらず容赦のない男め……」
 小林くんはそんなことを言いながらも、めげずに彼にちょっかいを出しに行く。
 客観的に見れば、まとわりついてくる小林くんを、彼があしらっている光景なのだけれど、彼自身も言葉の額面通りに小林くんを拒絶しているわけではなさそうだった。
 きっと、二人は本当に仲がいいのだろう。だから、あんなふうにじゃれあえる。
 いいなあ。私は思う。
 私もあんな風に彼と話せたら……。
 いつの間にか、私の彼への思いは、まるで粉雪のように、少しずつ少しずつ、それでも確実に降り積もっていくのだった。

「ことりくん、帰ろ」
 今日も彼はきっと塾へ行くのだろう。放課後になると彼は鞄を持って、一目散に下校しようとする。そんな彼に私は声をかけた。
 客観的に見れば、簡単に声をかけたように見えるかもしれないけど、これは私にとって一世一代の覚悟で発した言葉だった。心臓がばくばくと跳ねているのが解る。こんな気持ちになったのは一体いつ以来のことだろう。
 だが、彼は私を一瞥した後、表情も変えずに歩きだす。
「――っ」
 そんな態度に私の身体は縮こまる。
——だけど、引かない。
 私は彼と話がしたい。
 二人は生きる世界が違うのかもしれない。私なんかに関わりたくないと思われているのかもしれない。単純に嫌われているのかも。
 それでも、私は彼が知りたかった。
 何もかもを寄せ付けまいとするかのように、鋭くとがれた彼の眼鏡の奥にある瞳。それでも、私は知っている。そんな彼の怜悧な瞳も驚きの色に染まることを。
 ——彼だって一人の人間だということを。
 そんな思いをよすがに、私は彼の背中を追う。
「ねえ、ことりくんってば」
「………………」
「ことりくん」
 そこで彼はようやく足を止め、苦虫をかみつぶしたような顔で私を睨む。
「ことりくん?」
「俺はそんな名前じゃねえ」
 そんな彼に向かって私は言う。
「え? かわいいから大丈夫だよ、ことりくん」
 彼は癖なのか、ため息を一つついてから言う。
「日本語の通じない女だな……。かわいいとか、似合うかとか、そんな議論をしているわけじゃねえんだ。単純に俺は『たかなし』だって言っているだけだ」
「ええ……ことりくん、かわいいのに……」
 彼はまた、ため息をついてから速足で私を振り切るように歩き出す。
「あ、待ってよ」
「俺は今日も塾なんだ」
 そう言って、彼はさらに歩くペースを速める。大柄で背の高い彼は足も長い。背の低く、足も短い私が彼に追いつこうとすると、ほとんど走るような姿勢になる。
「ちょっと、ま――」
 ちょうど、私の足が階段に差し掛かったところだった。
「きゃっ」
 焦っていたからだろう。足がもつれて、私はバランスを崩し、階段から転がり落ち――
「あれ?」
 ――なかった。
 私の左腕がピンと後ろに引っ張られている。そして、そのまま、ぐいと勢いよく私は階段の上へと引き戻される。階段から落ちかけたことで腰が引けていた私はよろめき、今度は引っ張られた方に倒れかける。
「まったく……世話が焼ける女だ……」
 彼が階段から転げ落ちそうになった私を助けてくれたのだと気が付くまでには、そう時間はかからなかった。
 気が付くと、私は彼の胸の中に居た。引っ張り上げられた結果、ちょうど、私は彼に抱き寄せられるような格好になっていたのだ。
「あ、ありがとう」
 彼の胸板は大きかった。男を知っている身からすれば、もっと身体の大きな男も経験したことがあったけど、そんな誰よりも、彼の身体は大きく感じた。まるで、大地とか、空とか、そんな雄大な自然のようなものに抱かれているような気分だった。なぜ、彼といると、私はこんな気分になるのだろう。
 私は思わず、彼の手にぎゅっと縋りついた。
 あのとき、ホテルの側で彼に縋りついたときとは違う。
 このまま、時が止まればいいのにと思う。

 これが、私、水城結衣が、小鳥遊祐介に恋をした瞬間だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

小鳥遊祐介

真面目な優等生だが、少し斜に構えたところがある。ややプライドが高く、自分の周囲の人間を見下す嫌いがある。

眼鏡をかけている。結衣曰く「眼鏡を取るとイケメン」。


結衣からの呼び方を不服に思っており、事あるごとに呼び名を改めるように言う。

水城結衣

明るい性格で、誰にでも話しかけ、仲良くなるタイプだが、その実、心に闇を抱えている。

援助交際をしている。


祐介のことを「『小鳥遊』って書いて『たかなし』と読むなんて変」という理由で「ことりくん」と呼ぶ。

小林翼

祐介の友人で腐れ縁。

お調子者で軽いが、その実、仲間思いの善人。

鈴谷美鳴

裕介の従妹。裕介のことを「ゆう兄」と呼ぶ元気な少女。

翼のことは幼い頃から知っており「つば兄」と呼ぶ。

学校でも裕介と翼をあだ名で呼ぶので、裕介からはよく窘められるが、直る気配はない。

森中葉月

国語科教師。祐介と結衣の担任。おっとりとした性格。

社会人三年目であり、まだどこか頼りないところがある。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み