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文字数 9,856文字
「ゆう君は天才ね」
そう言われた。
今だったら真に受けるはずのない言葉も年端も行かない幼児は信じてしまう。
自分は天才だ。
幼い僕は本気でそう考えていた。
確かな事実として僕は確かに周囲よりもほんの少しばかり抜きんでていた。同年代の子供が喃語を話しているときに意味を持った言葉を操ったし、幼児向けの簡単な思考パズルの成績もよかった。自分が増長するに足るだけの材料は確かに持っていたのだ。
僕を褒めたたえたのは主に母親だった。
「ゆう君、次はこれに挑戦しなさい」
「ゆう君ならきっとできるわ」
「ゆう君は他のことは違うの」
幼い子供にとって母親のことばは祝福にも呪いにもなりうる。うまく使えば前を向く力に、悪くすれば囚われるものに。僕にとってはそれは後者になりうるものだったらしい。
「僕はおまえらとは違う」
受験で入った小学校の中でも僕はそういった考えを持っていた。周りの子供はただの馬鹿で、自分だけが天才なんだ。今考えれば身もだえするような愚かな考えを確かに信じていた。
であればこそ、僕が周囲と衝突するのは必然だった。
はじめは良かった。
確かに僕は同年代の子供よりも勉強ができた。それゆえ、僕の尊大な発言も一定、尊重してもらえていたように思う。少なくとも僕が偉そうな言葉を使っても、反論してくるものはいなかった。
だが、それも低学年のときまでだ。
学年が上がるにつれ、周囲の人間も口が達者になっていく。もともと受験を潜り抜けてきたメンバーだ。スペックは高かったのだろう。僕を弁舌で負かそうとする者が現れた。
それに加えて、僕の周囲の学力も上がっていった。常に学年トップだった僕は相対的に順位を落としていく。
しかし、自分はその結果を直視できなかった。
自分の順位が落ち続けても、自分こそが最も優等だということを心の底から信じていた。
そんな自分と周囲の間に衝突が起こることは必定であった。
ここから先はありふれたつまらない話だ。
姑息ないじめ行為を繰り返され、切れた僕は殴り合いの大立ち回りをした。結果、僕が学校を辞めさせられることになった。
手を出した方が悪い、ということらしい。
だが、実態としては、学校側も僕の方を煙たく思っていたということなのではないだろうかと思う。
要は僕一人を切る方が他の大多数を切るよりも丸く収まりやすい。その程度の考えだったのではないだろうか。その頃には僕の成績も中の上程度になっていたから、学校側からしてみれば、強いて庇うほどの相手ではなかったのだろう。
こうして、僕は公立の小学校に通うことになった。
そこからしばらくの間は平穏な日々が続いた。
僕は少なくとも公立の小学校の中では間違いなく勉強ができた。それゆえに、周囲の人間も僕を蔑ろにはできなかった。もちろん、それは井の中の蛙以外の何物でもなかったのだけど、そんな立場に甘んじている自分も居た。もう、何かと張り合うのはごめんだった。
だが、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、僕の中にある臆病な自尊心と尊大な羞恥心とでも呼ぶべきものは、その時期も買い太らされていたのだ。
もはや、きっかけとなった出来事は覚えていない。だが、僕は小学校の中でも徐々に孤立していった。今になって振り返れば、その原因は自分にあったと思う。人を小馬鹿にし、他者を見下し、僕は張り合うものが居ない生活の中で少しずつ場長していった。いつしか、僕の周りには誰も居なくなった、
いや、一人だけ居た。
「やあ、君はいつも一人だね」
それが小林翼だった。
この男は僕が転校してきて、周囲の人間と付き合いがうまくいっているときには、一言も僕に声をかけてはこなかったが、自分が孤立しだした途端、声をかけてくるようになった。
だから、僕はてっきりこの男は僕に対する哀れみで声をかけてきたのだろうと考えた。
事実として彼はクラスの中心人物だった。たとえば、クラス委員長のような面倒な仕事は引き受けないのだが、遠足の実行委員や合唱コンクールのリーダーのようなお祭り騒ぎには進んで手を上げる男だった。そして、彼は皆からその姿勢を受け入れられていた。僕はもっとも嫌いなタイプな男だ。僕はそんな風に思っていた。
だから、孤立し始めた僕に声をかけるこの男に僕は反感を持ち、彼の言葉を適当にあしらうに留めていた。
僕の彼に対する態度が変わったのは、彼が僕に声をかけ始めて数か月が経過したころだった。
「なんで、おまえは俺にかまう?」
根負けした僕は翼にそう尋ねた。
もしそのとき、翼が「友達がいなくてかわいそうだから」なんて答えていたら、僕はこのあとこいつ付き合いを続けることはなかっただろう。
だが、奴は僕の問いかけに、待ってましたといった表情で答えた。
「友達がいなくて面白そうだから」
僕はその言葉になんて返したのか。不思議なことに何も覚えていない。
彼の言葉は確かに自分の中に刻まれているというのに。
それ以来、僕は翼とつるむようになった。
結局、中学受験はしなかった。
その理由の一つは母親だった。
「無理はしなくていいから」
母親は僕が私立の小学校に居られなくなったことがトラウマになっていたようだった。僕が学校を辞めざるを得なくなった理由は自分が僕を誉めそやした結果、増長させ過ぎたと思っているようだった。だから、また中学受験をして、私立の学校に通うようになれば、同じことが起きるのではないかと心配したのだ。
もう一つは、母親が翼に対して大きな信頼を置いていたということもある。公立の小学校でもうまくいかなくなり始めていた自分に何とか学校生活を続けさせることができたのは、翼のおかげというのは認めざるをえない事実だった。だからこそ、母親は翼と離れることになる中学受験を良しとしなかったのだ。
とはいえ、最も大きな原因は自分にあった。
僕は私立の学校に通うことを忌避していたのだ。
また小学校のときのようなことになるのではないか。
そういった思いが僕に二の足を踏ませた。
その頃には翼のおかげもあってか、僕は「生意気だが勉強ができる奴」というようなポジションをクラス内で確立していた。このまま、小学校からほとんどメンバーの変わらない中学校に進学すれば、この無難な立ち位置をキープできる。
結局、僕は井の中で蛙になり続けることを選んだのだ。
中学まではそれでもよかった。だが、高校生になるためには受験は避けられない。僕は選択を迫られた。
中学受験をするころにはさすがに僕のトラウマも和らいでいた。そのため、過去の体験に縛られず、純粋に自分の成績で目指せる最上位の学校を受験しようと決めた。
必然、翼とは離れることになるのだが、さすがに中三にもなって一人の男におんぶにだっこは情けない。次こそは一人でやっていけるだろうと思っていた。
だが、それは呪いとでもいうべきものだったのか、必然だったのかはわからない。
僕は受験当日につまらないミスを犯した。
本来なら間違えるはずのない問題を間違え、解答欄の場所を誤り、パニックになった自分は放心状態となった。
結果として、僕は第一志望の高校に落ちた。
本来なら十分に合格できるはずの学校だった。
この出来事は僕にとっての痛恨事だった。
自分の弱さとでもいうべきものがほとほと嫌になった。
だから、僕は受かった滑り止めの高校で必死に勉強した。一年生のときから塾に通い、休み時間は英単語を記憶する。そうやって日々必死になることが、一種の精神安定剤だった。こうやってがむしゃらに勉強し続ければ、次こそは失敗なんてありえない。
そうやってトラウマを克服するための行為が勉強に打ち込むことだったのだ。
そして、僕は水城結衣と出会った。
水城結衣は馬鹿な女だった。
身体を売って、金を稼ぐ。
卑しい女だと思った。
だが、不思議と彼女に対して嫌悪感はなかった。彼女の秘密が露見しそうになったとき、彼女を間接的に庇ってやりもした。
このとき、僕が彼女を庇ってやった理由を、僕自身、長らく理解できずにいた。さっさと学校に売り飛ばしてしまった方が、どれだけ楽で、面倒なことにならなかっただろうかと思う。
だが、彼女と時を過ごすうちに、ある日突然に自分が彼女を庇った理由がわかった。
その理由は――
「そろそろ時間か……」
僕は呼び出された場所へと足を運ぶ。
その足は重かった。ここから先で起こることは決して自分にとって楽しい話ではありえないだろう。
だが、行かねばならない。
もう逃げ続けることはできなかった。
すべてに決着をつけねばならないだろう。
例の木の下には彼女が居た。
いつも、僕に付きまとう彼女。
この木の下では永遠の愛が得られるらしい。
だが、その噂はキャンプファイアーが付いているとき、限定らしい。なら、おそらくはこの学校で最後となるキャンプファイアーが終わった今はもう、それこそ永遠に、永遠の愛が手に入ることはなくなってしまったのだろうか。
「……本当に来てくれたんだね」
彼女はゆっくりと口を開く。
そして、僕をじっと見つめた後に言う。
「なんで来てくれたの?」
僕もまた目を逸らさずに答えた。
「すべてを清算したくて」
「………………」
彼女は僕を睨む。
そして、つぶやく。
「遅いよ……もう……」
そうだ。僕はいつだって間違ってばかりで、いつだってミスをしてばかりだ。本当に大事な場面でくだらない失態を犯す癖は今でもずっと治らない。
「なんで、あのときに来てくれなかったの……」
彼女は目を見開き、僕を見る目に力を込め、親の仇を見るような表情で僕を睨んだ。
いや、彼女にとって僕は本当に親の仇なのかもしれない。
「16年前、お母さんは一晩中、ここであなたを待っていたのに!」
16年前の君が、そこには立っていた。
16年前、水城結衣は自分が僕の子を身ごもったことを告げ、翌日の夜にこの木の下で待つと告げた。
そして、二人でどこまでも逃げようと言ったのだ。
僕は結論として彼女の誘いを蹴った。
もちろん、そこに至るまで様々な葛藤があったことは事実だ。だが、僕が彼女に指定されたこの木の下に来なかったこともまた事実だった。
そして、彼女は一人で居なくなった。
「水城……やっぱり、おまえは水城結衣の娘だったんだな……」
僕は僕を睨みながら涙を流す少女に向かってそう問いかける。
少女――水城ことりは、流れる涙をぬぐいながら言った。
「当たり前でしょ……! 私の顔を見たら、すぐに解ったはずだ……!」
彼女、水城ことりがそう言うのも無理はない。確かに、彼女は16年前の結衣に瓜二つだった。おそらくは髪型なども意図的に似せているのだろう。だから、彼女がこの学校に入学してきたときには驚いたものだ。
「なんでうちの学校に入学してきた?」
予想はできていることであったが、すべての決着をつけるためにはきちんとすべてを確認しておくべきだろう。僕は順を追って彼女に尋ねることにする。
「あんたがこの学校で教師になったって聞いたから……」
そう、僕は結局、教師になった。大学受験でも第一志望に通らず、就職試験でも希望した会社には就けず、結局、母校で教師になった。肝心なところで失敗する癖は16年経っても治らなかった。
「だから、わざわざうちを受験して、結衣の真似事をしたのか?」
僕は尋ねる。
「そう……。16年前のあんたの罪を突きつけてやりたくて」
「どうして、16年前の結衣の行動がわかった?」
彼女は見た目ばかりでなく、16年前、結衣が行って行動をほとんど正確になぞっていた。文芸部に入ったり、帰り道で僕を追いかけてきたり。さすがに夏祭りに誘われたときは断ったが。
「お母さんは日記をつけていたから」
「ああ……あいつ、日記、続けてたのか……」
あいつのことだから三日坊主だろうと、僕は部室で彼女が日記をつけている様子を目撃して以来、話題に出してはいなかった。
「お母さんは、あんたに褒められたのが嬉しくて日記を続けていたんだ……」
「………………」
そういえば、彼女が日記をつけていたことを褒めたことがあったかもしれない。だが、それは僕にとっては日常会話の延長でしかないもので、その言葉は16年の歳月によって、風化している。誰かにとって大切な言葉も、別の誰かにとっては路傍の石に過ぎないのかもしれない。
「だから日記を見て、母親の行動をなぞって、僕をからかっていたのか?」
最初に彼女の姿を見たときに動揺し、彼女の名前を見て、さらに動揺は深まった。
水城ことり。
彼女の容姿も合わせて考えれば、彼女が結衣の娘であることは疑いようのない事実だった。
だが、僕がさらに動揺したのは、彼女の方から声をかけられたとき。
「ことりくん」
彼女は僕をそう呼んだ。
僕をそんな珍妙なあだ名で呼んだのは、32年間の人生の中でたった一人だけだった。
「からかっていたわけじゃない……」
そこで水城ことりは、初めて悲し気に顔を伏せた。
「ただ、解ってほしかった……」
「………………」
「お母さんがどんな気持ちで私を育てたのか、っていうことを……」
僕は何も言えなくなる。
黙った僕に彼女は言う。
「そして、これは復讐」
僕は彼女を見つめる。
「あなたが犯した罪を確認してほしかった……」
「………………」
彼女のやりたかったことが復讐なのだというなら、これ以上なく、それは成功していると言えるだろう。この半年間、一日として僕に気の休まる日はなかった。
かつて、自分が犯した罪を突きつけられる半年は本当に息が詰まる毎日だった。
僕は深呼吸してから言う。
「それを今日になって打ち明けたのは……」
「今日が終わりの日だから」
「………………」
その言葉で僕は16年前の今日を改めて思い返す。
僕は行くつもりだった。
すべてを捨てて、彼女と一緒に新天地でやっていこう。本気でそう考えていた。
だが、荷物をまとめ、家を出ようとする足が止まった。今、ここから出れば、二度とこの部屋にはかえって来られないかもしれない。妊娠させた女と二人駆け落ちしたとなれば、退学は免れないだろう。二度と僕が今の生活に復帰できる芽はない。
——今なら引き返せる。
僕はそのまま一晩中、自分の部屋で荷物をしょったまま過ごした。
翌朝、いつまで経っても部屋から降りてこない僕を不審に思った母親が部屋にやってくるまで、僕はひとり、部屋に立ち尽くしていたのだ。
母親に声をかけられて初めて、僕は夜が明けていたことに気が付き、はじかれたように部屋から飛び出した。
僕が木の下にたどり着いたときには、もう誰も居なかった。
当時は、それなりに騒ぎになったものだ。何しろ人が一人いなくなったのだから当然だろう。特に森中先生の憔悴は激しかった。担任として彼女の置かれてる状況を察していながら手をこまねていることしかできなかったのだから。先生は必死になって彼女捜しまわったらしい。だけど、結局、水城結衣が見つかることはなかった。
だからこそ、今、森中先生は、あの水城の娘と思しき、この少女を気にかけていたのだろう。担任なのだから、彼女の家庭環境について何かしらの情報も得ていたのかもしれない。
いつか森中先生は応接室で言った。
『でも、もし本人以外で、彼女の何かを変えることができる人が居るとするなら――』
そう言って僕を見ていた。
それはきっと、この娘があの水城結衣の娘であると確信を持っていたからなのだろう。
彼女が失踪した当時、僕ももちろん、彼女を探した。だけど、何の手がかりも見つからない。
彼女は本当に一人で行ってしまったのだ。
それから、数年が経ち、一度だけ僕の携帯電話に公衆電話から留守電が入っていたことがある。
それは結衣からのメッセージだった。
「ことりくん、久しぶり。元気にしてる?」
僕はその言葉を聞いたとき、崩れ落ちた。
数日前から公衆電話からの着信は何度かあったのだが、僕が出るたびに電話はすぐに切られたから質の悪いいたずらだとしか思っていなかった。だが、それは僕がすぐに着信に出られずに、留守番電話サービスに切り替わるタイミングを狙って、彼女が何度も発信を繰り返した結果だったのだろう。
僕は食らいつくように電話に耳を当てた。
「私は元気。意外に楽しくやってるよ。だから、心配しないでね」
そこから、数秒の間が空き、録音時間が終わる直前。
「永遠の愛ではなかったけど、確かにあの夜までは私たちに愛はあったんだよね」
「結衣は……」
そこから先の言葉を紡ぐ勇気。それが得られず、僕はこの半年を過ごした。
この半年いつだって、「おまえは結衣の娘だな」と言えたはずだった。だが、それを言えなかったのはひとえに自分の勇気の無さ故だった。そのため、彼女、水城ことりが、自分の母親を模倣して、僕に付きまとうことになった。今は教師という身分の僕に。
僕のことを愛していた結衣を模倣していたのだ。周囲が生徒と教師の生々しい関係を想像するには十分だった。
そういう意味で年の離れた従妹である美鳴には心配をかけてしまった。
彼女は自分の従兄である僕が女生徒とただならぬ関係であるという噂に苦しんでいた。それゆえに彼女は何度も僕に水城との関係を改めるように警告してくれていたのだ。
森中先生もまた難しい立場に立たされていた。
先生はまた僕とこの娘との間の関係が誤解であることは理解してくれていた。だが、先生がそれをきちんと誤解だと理解できていた理由は、先生はこの水城ことりが間違いなく水城結衣の娘だと把握していたからだ。
だが、先生は僕にそれを告げることはできなかった。
先生は僕自身にこの娘と向き合ってほしいと思っていただろうから。
だから、先生は僕に遠回しに発破をかける以外に何もすることができなかったのだ。
代わりに動いたのは翼だった。
あいつは森中先生と違い確かな情報を持っていたわけではなかったのかもしれない。だが、あいつも一教師だ。もしかしたら、森中先生に裏で相談を受けることくらいはしていたかもしれない。
職員室でくだらない冗談を飛ばすような男だが、人を見ることには長けた素晴らしく教師向けの男だ。仮に何も知らなかったのだとしても、水城ことりと水城結衣の関係性には気づいていたとみて、間違いないだろう。だから、あいつは事あるごとに僕に水城ことりと向き合うように勧めてきたのだ。
周りの人間に多大な迷惑をかけながら、僕は結論を聞くことを先延ばしにしてきた。
結衣からかかってきた一度きりの電話。
彼女は幸せにやっている。
その言葉に縋りたかった。
自分が犯してしまった罪から目を逸らしたかった。
だけど、そんな日々も今日で終わりだ。
明日からはもう結衣と過ごした日々は存在しない。
明日からは、今の僕が、この水城ことりと向き合う時間だ。
僕は最後にもう一度だけ深呼吸をして尋ねた。
「結衣は、今、どうしている……」
ことりは僕の消え入りそうな問いかけに、きっぱりとした口調で答えた。
「お母さんは死んだ。とっくの昔に」
16年前の罪が僕を殴りつけた。
「そう……か……」
僕は力なく言葉を紡ぐ。
そんな僕を見て、ことりは言う。
「……案外、驚かないんだね」
「……予想はしていたから」
もし仮に結衣が生きているなら、娘をこんな形で僕に会わせるなんてしないだろうという予感があった。高校生が自分一人で進路を決めるというのは、難しい。ならば、少なくとも今の彼女の保護者が結衣でないことは想像できる事実だった。
「おまえの保護者は誰なんだ……?」
僕は尋ねる。
「大叔父さんに面倒見てもらってる。私の祖母の兄らしい」
意外に彼女は素直に答えた。
それで納得がいく。彼女が「水城」という姓のままなのは、血縁関係のある家に引き取られたからなのだろう。
ここまで来て対話をやめるわけにはいかない。僕はすべてを彼女から聞きだすべく言葉を紡ぐ。
「結衣は……僕のことをなんと言っていた……」
僕の力ない問いかけに彼女は瞑目する。
「お母さんは……」
そして、固い表情のまま、ゆっくりと口を開く。
「あんたのことを恨んでなかった……」
僕は思わず、彼女の顔を見る。
彼女は苦虫をかみつぶしたような顔で僕を睨んでいる。
「私の名前で解るでしょ……お母さんは、死ぬ最後まで確かにあんたを愛していたの……」
「そんな……」
くらりとしためまいが僕を襲う。まるで、足元が急に崩れ落ちでもしたような気持ちで、僕はたたらを踏む。
彼女が、結衣が、最後まで僕を愛していた。それは何よりも残酷な言葉。僕を傷つける言葉のナイフだった。
気が付けば、僕はくずおれ落ち、膝を折っていた。
「ずっと、あんたの話を聞かされた。誰からも爪はじきにされていた自分を唯一かばってくれた人だって。お母さんがあの人と一緒に居られなくなったのは、全部自分のせいなんだっていつも言ってた」
やめろ……。
「お母さんは本当にあんたのことが好きだったんだ」
やめてくれ……。
僕はついに頭を抱えてうずくまる。
もう何も聞きたくはなかった。
むしろ、結衣は僕のことを恨んでいた、と言ってくれた方がどれだけ僕の心は安らいだだろうか。
彼女が今わの際まで僕を本当に愛していたのだとすれば、自分自身の悪性がより浮き彫りになってしまうから。
「お母さんの日記はすべて読んだ……だから、お母さんがやってたことは全部知ってる……知ってるけど……それでもあんたが一緒に逃げてやったら、お母さんは死なずに済んだ」
僕はそっと顔を上げる。
彼女は滂沱の涙を流しながら、僕を見ていた。
「返して……私のお母さんを返してよ……」
彼女もまた僕の前にうずくまり、僕の胸を力なく叩いた。
一瞬、考える。
僕はこの娘を抱きしめてやるべきなのだろうか、と。
だが、それはできない。
それは、僕がこの娘の父親面をする資格がないから、とかそんな理由ではない。
——そもそもこの娘は本当に僕の娘なのか、と思うからだ。
僕は彼女に手も触れずに、そっと立ち上がりながら思う。
それはそもそも彼女に妊娠の事実を告げられた日からずっと考えていたことだった。
結衣の中に居るという子供は、本当に僕の子なのかということ。
確かに、僕たちはあの祭りの夜、一度だけ関係を持った。
それが衝動的で刹那的な行動であったことは否定しようのない事実だが、それでも僕は最後の一線の理性は持っていたつもりだ。
あの日、僕は彼女の妊娠を避けるために最大限の努力をしたつもりだった。
だからこそ、僕は彼女が告げた妊娠という事実に対して本当は嘘だったのではないかと考えた時期もあったくらいだ。
ここにいることりが結衣の娘であることは疑いようはないが、僕の娘であるという証拠は一つとしてありはしないのだ。
なにしろ、彼女は金のためとはいえ、複数の男と寝るような女。種を得る機会など数知れないほどあったはずだ。
僕はゆっくりと後ずさる。
そんな僕の様子を見て、ことりは首をかしげる。
「お父さん……?」
初めてそう呼ばれて気が付く。
僕はこの半年、この娘は結衣の娘であろうとずっと悩み続けてきた。だが、同時に、この娘を自分の娘であるとはまったく認めていていなかった自分がいたことに気が付く。
もしかしたら、この娘は僕に父親になってもらいたいと本気で考えていたのかもしれない。
復讐などという言葉を弄しながら、かつて自分の母親と関係を持ったという男に取り入ろうとしていただけだったのかもしれない。
こうやって泣きつけば、古いドラマのように彼女そっと抱きしめてくれると思っていたのかもしれない。
——嫌だ。
僕は認めない。
この女が僕の娘だなんて認めない。
もし、この生徒が僕の娘であったなどという事実が明るみに出れば、僕の学校でも立場は地に落ちる。ただでさえ、僕は職員室を避け、自分が顧問をする文芸部の部室にいつも籠っているような愛想の悪い男。他の教師からの評価は芳しくない。僕にこのような醜聞が発覚すれば、僕を庇ってくれるのはせいぜい翼と森中先生くらいのものだろう。
僕は彼女に背を向けて言う。
「……おまえは僕の娘なんかじゃないよ」
僕はそう言い捨ててその場を後にした。
彼女の首つり死体が発見されたのは、その翌日の朝のことだった。
そう言われた。
今だったら真に受けるはずのない言葉も年端も行かない幼児は信じてしまう。
自分は天才だ。
幼い僕は本気でそう考えていた。
確かな事実として僕は確かに周囲よりもほんの少しばかり抜きんでていた。同年代の子供が喃語を話しているときに意味を持った言葉を操ったし、幼児向けの簡単な思考パズルの成績もよかった。自分が増長するに足るだけの材料は確かに持っていたのだ。
僕を褒めたたえたのは主に母親だった。
「ゆう君、次はこれに挑戦しなさい」
「ゆう君ならきっとできるわ」
「ゆう君は他のことは違うの」
幼い子供にとって母親のことばは祝福にも呪いにもなりうる。うまく使えば前を向く力に、悪くすれば囚われるものに。僕にとってはそれは後者になりうるものだったらしい。
「僕はおまえらとは違う」
受験で入った小学校の中でも僕はそういった考えを持っていた。周りの子供はただの馬鹿で、自分だけが天才なんだ。今考えれば身もだえするような愚かな考えを確かに信じていた。
であればこそ、僕が周囲と衝突するのは必然だった。
はじめは良かった。
確かに僕は同年代の子供よりも勉強ができた。それゆえ、僕の尊大な発言も一定、尊重してもらえていたように思う。少なくとも僕が偉そうな言葉を使っても、反論してくるものはいなかった。
だが、それも低学年のときまでだ。
学年が上がるにつれ、周囲の人間も口が達者になっていく。もともと受験を潜り抜けてきたメンバーだ。スペックは高かったのだろう。僕を弁舌で負かそうとする者が現れた。
それに加えて、僕の周囲の学力も上がっていった。常に学年トップだった僕は相対的に順位を落としていく。
しかし、自分はその結果を直視できなかった。
自分の順位が落ち続けても、自分こそが最も優等だということを心の底から信じていた。
そんな自分と周囲の間に衝突が起こることは必定であった。
ここから先はありふれたつまらない話だ。
姑息ないじめ行為を繰り返され、切れた僕は殴り合いの大立ち回りをした。結果、僕が学校を辞めさせられることになった。
手を出した方が悪い、ということらしい。
だが、実態としては、学校側も僕の方を煙たく思っていたということなのではないだろうかと思う。
要は僕一人を切る方が他の大多数を切るよりも丸く収まりやすい。その程度の考えだったのではないだろうか。その頃には僕の成績も中の上程度になっていたから、学校側からしてみれば、強いて庇うほどの相手ではなかったのだろう。
こうして、僕は公立の小学校に通うことになった。
そこからしばらくの間は平穏な日々が続いた。
僕は少なくとも公立の小学校の中では間違いなく勉強ができた。それゆえに、周囲の人間も僕を蔑ろにはできなかった。もちろん、それは井の中の蛙以外の何物でもなかったのだけど、そんな立場に甘んじている自分も居た。もう、何かと張り合うのはごめんだった。
だが、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、僕の中にある臆病な自尊心と尊大な羞恥心とでも呼ぶべきものは、その時期も買い太らされていたのだ。
もはや、きっかけとなった出来事は覚えていない。だが、僕は小学校の中でも徐々に孤立していった。今になって振り返れば、その原因は自分にあったと思う。人を小馬鹿にし、他者を見下し、僕は張り合うものが居ない生活の中で少しずつ場長していった。いつしか、僕の周りには誰も居なくなった、
いや、一人だけ居た。
「やあ、君はいつも一人だね」
それが小林翼だった。
この男は僕が転校してきて、周囲の人間と付き合いがうまくいっているときには、一言も僕に声をかけてはこなかったが、自分が孤立しだした途端、声をかけてくるようになった。
だから、僕はてっきりこの男は僕に対する哀れみで声をかけてきたのだろうと考えた。
事実として彼はクラスの中心人物だった。たとえば、クラス委員長のような面倒な仕事は引き受けないのだが、遠足の実行委員や合唱コンクールのリーダーのようなお祭り騒ぎには進んで手を上げる男だった。そして、彼は皆からその姿勢を受け入れられていた。僕はもっとも嫌いなタイプな男だ。僕はそんな風に思っていた。
だから、孤立し始めた僕に声をかけるこの男に僕は反感を持ち、彼の言葉を適当にあしらうに留めていた。
僕の彼に対する態度が変わったのは、彼が僕に声をかけ始めて数か月が経過したころだった。
「なんで、おまえは俺にかまう?」
根負けした僕は翼にそう尋ねた。
もしそのとき、翼が「友達がいなくてかわいそうだから」なんて答えていたら、僕はこのあとこいつ付き合いを続けることはなかっただろう。
だが、奴は僕の問いかけに、待ってましたといった表情で答えた。
「友達がいなくて面白そうだから」
僕はその言葉になんて返したのか。不思議なことに何も覚えていない。
彼の言葉は確かに自分の中に刻まれているというのに。
それ以来、僕は翼とつるむようになった。
結局、中学受験はしなかった。
その理由の一つは母親だった。
「無理はしなくていいから」
母親は僕が私立の小学校に居られなくなったことがトラウマになっていたようだった。僕が学校を辞めざるを得なくなった理由は自分が僕を誉めそやした結果、増長させ過ぎたと思っているようだった。だから、また中学受験をして、私立の学校に通うようになれば、同じことが起きるのではないかと心配したのだ。
もう一つは、母親が翼に対して大きな信頼を置いていたということもある。公立の小学校でもうまくいかなくなり始めていた自分に何とか学校生活を続けさせることができたのは、翼のおかげというのは認めざるをえない事実だった。だからこそ、母親は翼と離れることになる中学受験を良しとしなかったのだ。
とはいえ、最も大きな原因は自分にあった。
僕は私立の学校に通うことを忌避していたのだ。
また小学校のときのようなことになるのではないか。
そういった思いが僕に二の足を踏ませた。
その頃には翼のおかげもあってか、僕は「生意気だが勉強ができる奴」というようなポジションをクラス内で確立していた。このまま、小学校からほとんどメンバーの変わらない中学校に進学すれば、この無難な立ち位置をキープできる。
結局、僕は井の中で蛙になり続けることを選んだのだ。
中学まではそれでもよかった。だが、高校生になるためには受験は避けられない。僕は選択を迫られた。
中学受験をするころにはさすがに僕のトラウマも和らいでいた。そのため、過去の体験に縛られず、純粋に自分の成績で目指せる最上位の学校を受験しようと決めた。
必然、翼とは離れることになるのだが、さすがに中三にもなって一人の男におんぶにだっこは情けない。次こそは一人でやっていけるだろうと思っていた。
だが、それは呪いとでもいうべきものだったのか、必然だったのかはわからない。
僕は受験当日につまらないミスを犯した。
本来なら間違えるはずのない問題を間違え、解答欄の場所を誤り、パニックになった自分は放心状態となった。
結果として、僕は第一志望の高校に落ちた。
本来なら十分に合格できるはずの学校だった。
この出来事は僕にとっての痛恨事だった。
自分の弱さとでもいうべきものがほとほと嫌になった。
だから、僕は受かった滑り止めの高校で必死に勉強した。一年生のときから塾に通い、休み時間は英単語を記憶する。そうやって日々必死になることが、一種の精神安定剤だった。こうやってがむしゃらに勉強し続ければ、次こそは失敗なんてありえない。
そうやってトラウマを克服するための行為が勉強に打ち込むことだったのだ。
そして、僕は水城結衣と出会った。
水城結衣は馬鹿な女だった。
身体を売って、金を稼ぐ。
卑しい女だと思った。
だが、不思議と彼女に対して嫌悪感はなかった。彼女の秘密が露見しそうになったとき、彼女を間接的に庇ってやりもした。
このとき、僕が彼女を庇ってやった理由を、僕自身、長らく理解できずにいた。さっさと学校に売り飛ばしてしまった方が、どれだけ楽で、面倒なことにならなかっただろうかと思う。
だが、彼女と時を過ごすうちに、ある日突然に自分が彼女を庇った理由がわかった。
その理由は――
「そろそろ時間か……」
僕は呼び出された場所へと足を運ぶ。
その足は重かった。ここから先で起こることは決して自分にとって楽しい話ではありえないだろう。
だが、行かねばならない。
もう逃げ続けることはできなかった。
すべてに決着をつけねばならないだろう。
例の木の下には彼女が居た。
いつも、僕に付きまとう彼女。
この木の下では永遠の愛が得られるらしい。
だが、その噂はキャンプファイアーが付いているとき、限定らしい。なら、おそらくはこの学校で最後となるキャンプファイアーが終わった今はもう、それこそ永遠に、永遠の愛が手に入ることはなくなってしまったのだろうか。
「……本当に来てくれたんだね」
彼女はゆっくりと口を開く。
そして、僕をじっと見つめた後に言う。
「なんで来てくれたの?」
僕もまた目を逸らさずに答えた。
「すべてを清算したくて」
「………………」
彼女は僕を睨む。
そして、つぶやく。
「遅いよ……もう……」
そうだ。僕はいつだって間違ってばかりで、いつだってミスをしてばかりだ。本当に大事な場面でくだらない失態を犯す癖は今でもずっと治らない。
「なんで、あのときに来てくれなかったの……」
彼女は目を見開き、僕を見る目に力を込め、親の仇を見るような表情で僕を睨んだ。
いや、彼女にとって僕は本当に親の仇なのかもしれない。
「16年前、お母さんは一晩中、ここであなたを待っていたのに!」
16年前の君が、そこには立っていた。
16年前、水城結衣は自分が僕の子を身ごもったことを告げ、翌日の夜にこの木の下で待つと告げた。
そして、二人でどこまでも逃げようと言ったのだ。
僕は結論として彼女の誘いを蹴った。
もちろん、そこに至るまで様々な葛藤があったことは事実だ。だが、僕が彼女に指定されたこの木の下に来なかったこともまた事実だった。
そして、彼女は一人で居なくなった。
「水城……やっぱり、おまえは水城結衣の娘だったんだな……」
僕は僕を睨みながら涙を流す少女に向かってそう問いかける。
少女――水城ことりは、流れる涙をぬぐいながら言った。
「当たり前でしょ……! 私の顔を見たら、すぐに解ったはずだ……!」
彼女、水城ことりがそう言うのも無理はない。確かに、彼女は16年前の結衣に瓜二つだった。おそらくは髪型なども意図的に似せているのだろう。だから、彼女がこの学校に入学してきたときには驚いたものだ。
「なんでうちの学校に入学してきた?」
予想はできていることであったが、すべての決着をつけるためにはきちんとすべてを確認しておくべきだろう。僕は順を追って彼女に尋ねることにする。
「あんたがこの学校で教師になったって聞いたから……」
そう、僕は結局、教師になった。大学受験でも第一志望に通らず、就職試験でも希望した会社には就けず、結局、母校で教師になった。肝心なところで失敗する癖は16年経っても治らなかった。
「だから、わざわざうちを受験して、結衣の真似事をしたのか?」
僕は尋ねる。
「そう……。16年前のあんたの罪を突きつけてやりたくて」
「どうして、16年前の結衣の行動がわかった?」
彼女は見た目ばかりでなく、16年前、結衣が行って行動をほとんど正確になぞっていた。文芸部に入ったり、帰り道で僕を追いかけてきたり。さすがに夏祭りに誘われたときは断ったが。
「お母さんは日記をつけていたから」
「ああ……あいつ、日記、続けてたのか……」
あいつのことだから三日坊主だろうと、僕は部室で彼女が日記をつけている様子を目撃して以来、話題に出してはいなかった。
「お母さんは、あんたに褒められたのが嬉しくて日記を続けていたんだ……」
「………………」
そういえば、彼女が日記をつけていたことを褒めたことがあったかもしれない。だが、それは僕にとっては日常会話の延長でしかないもので、その言葉は16年の歳月によって、風化している。誰かにとって大切な言葉も、別の誰かにとっては路傍の石に過ぎないのかもしれない。
「だから日記を見て、母親の行動をなぞって、僕をからかっていたのか?」
最初に彼女の姿を見たときに動揺し、彼女の名前を見て、さらに動揺は深まった。
水城ことり。
彼女の容姿も合わせて考えれば、彼女が結衣の娘であることは疑いようのない事実だった。
だが、僕がさらに動揺したのは、彼女の方から声をかけられたとき。
「ことりくん」
彼女は僕をそう呼んだ。
僕をそんな珍妙なあだ名で呼んだのは、32年間の人生の中でたった一人だけだった。
「からかっていたわけじゃない……」
そこで水城ことりは、初めて悲し気に顔を伏せた。
「ただ、解ってほしかった……」
「………………」
「お母さんがどんな気持ちで私を育てたのか、っていうことを……」
僕は何も言えなくなる。
黙った僕に彼女は言う。
「そして、これは復讐」
僕は彼女を見つめる。
「あなたが犯した罪を確認してほしかった……」
「………………」
彼女のやりたかったことが復讐なのだというなら、これ以上なく、それは成功していると言えるだろう。この半年間、一日として僕に気の休まる日はなかった。
かつて、自分が犯した罪を突きつけられる半年は本当に息が詰まる毎日だった。
僕は深呼吸してから言う。
「それを今日になって打ち明けたのは……」
「今日が終わりの日だから」
「………………」
その言葉で僕は16年前の今日を改めて思い返す。
僕は行くつもりだった。
すべてを捨てて、彼女と一緒に新天地でやっていこう。本気でそう考えていた。
だが、荷物をまとめ、家を出ようとする足が止まった。今、ここから出れば、二度とこの部屋にはかえって来られないかもしれない。妊娠させた女と二人駆け落ちしたとなれば、退学は免れないだろう。二度と僕が今の生活に復帰できる芽はない。
——今なら引き返せる。
僕はそのまま一晩中、自分の部屋で荷物をしょったまま過ごした。
翌朝、いつまで経っても部屋から降りてこない僕を不審に思った母親が部屋にやってくるまで、僕はひとり、部屋に立ち尽くしていたのだ。
母親に声をかけられて初めて、僕は夜が明けていたことに気が付き、はじかれたように部屋から飛び出した。
僕が木の下にたどり着いたときには、もう誰も居なかった。
当時は、それなりに騒ぎになったものだ。何しろ人が一人いなくなったのだから当然だろう。特に森中先生の憔悴は激しかった。担任として彼女の置かれてる状況を察していながら手をこまねていることしかできなかったのだから。先生は必死になって彼女捜しまわったらしい。だけど、結局、水城結衣が見つかることはなかった。
だからこそ、今、森中先生は、あの水城の娘と思しき、この少女を気にかけていたのだろう。担任なのだから、彼女の家庭環境について何かしらの情報も得ていたのかもしれない。
いつか森中先生は応接室で言った。
『でも、もし本人以外で、彼女の何かを変えることができる人が居るとするなら――』
そう言って僕を見ていた。
それはきっと、この娘があの水城結衣の娘であると確信を持っていたからなのだろう。
彼女が失踪した当時、僕ももちろん、彼女を探した。だけど、何の手がかりも見つからない。
彼女は本当に一人で行ってしまったのだ。
それから、数年が経ち、一度だけ僕の携帯電話に公衆電話から留守電が入っていたことがある。
それは結衣からのメッセージだった。
「ことりくん、久しぶり。元気にしてる?」
僕はその言葉を聞いたとき、崩れ落ちた。
数日前から公衆電話からの着信は何度かあったのだが、僕が出るたびに電話はすぐに切られたから質の悪いいたずらだとしか思っていなかった。だが、それは僕がすぐに着信に出られずに、留守番電話サービスに切り替わるタイミングを狙って、彼女が何度も発信を繰り返した結果だったのだろう。
僕は食らいつくように電話に耳を当てた。
「私は元気。意外に楽しくやってるよ。だから、心配しないでね」
そこから、数秒の間が空き、録音時間が終わる直前。
「永遠の愛ではなかったけど、確かにあの夜までは私たちに愛はあったんだよね」
「結衣は……」
そこから先の言葉を紡ぐ勇気。それが得られず、僕はこの半年を過ごした。
この半年いつだって、「おまえは結衣の娘だな」と言えたはずだった。だが、それを言えなかったのはひとえに自分の勇気の無さ故だった。そのため、彼女、水城ことりが、自分の母親を模倣して、僕に付きまとうことになった。今は教師という身分の僕に。
僕のことを愛していた結衣を模倣していたのだ。周囲が生徒と教師の生々しい関係を想像するには十分だった。
そういう意味で年の離れた従妹である美鳴には心配をかけてしまった。
彼女は自分の従兄である僕が女生徒とただならぬ関係であるという噂に苦しんでいた。それゆえに彼女は何度も僕に水城との関係を改めるように警告してくれていたのだ。
森中先生もまた難しい立場に立たされていた。
先生はまた僕とこの娘との間の関係が誤解であることは理解してくれていた。だが、先生がそれをきちんと誤解だと理解できていた理由は、先生はこの水城ことりが間違いなく水城結衣の娘だと把握していたからだ。
だが、先生は僕にそれを告げることはできなかった。
先生は僕自身にこの娘と向き合ってほしいと思っていただろうから。
だから、先生は僕に遠回しに発破をかける以外に何もすることができなかったのだ。
代わりに動いたのは翼だった。
あいつは森中先生と違い確かな情報を持っていたわけではなかったのかもしれない。だが、あいつも一教師だ。もしかしたら、森中先生に裏で相談を受けることくらいはしていたかもしれない。
職員室でくだらない冗談を飛ばすような男だが、人を見ることには長けた素晴らしく教師向けの男だ。仮に何も知らなかったのだとしても、水城ことりと水城結衣の関係性には気づいていたとみて、間違いないだろう。だから、あいつは事あるごとに僕に水城ことりと向き合うように勧めてきたのだ。
周りの人間に多大な迷惑をかけながら、僕は結論を聞くことを先延ばしにしてきた。
結衣からかかってきた一度きりの電話。
彼女は幸せにやっている。
その言葉に縋りたかった。
自分が犯してしまった罪から目を逸らしたかった。
だけど、そんな日々も今日で終わりだ。
明日からはもう結衣と過ごした日々は存在しない。
明日からは、今の僕が、この水城ことりと向き合う時間だ。
僕は最後にもう一度だけ深呼吸をして尋ねた。
「結衣は、今、どうしている……」
ことりは僕の消え入りそうな問いかけに、きっぱりとした口調で答えた。
「お母さんは死んだ。とっくの昔に」
16年前の罪が僕を殴りつけた。
「そう……か……」
僕は力なく言葉を紡ぐ。
そんな僕を見て、ことりは言う。
「……案外、驚かないんだね」
「……予想はしていたから」
もし仮に結衣が生きているなら、娘をこんな形で僕に会わせるなんてしないだろうという予感があった。高校生が自分一人で進路を決めるというのは、難しい。ならば、少なくとも今の彼女の保護者が結衣でないことは想像できる事実だった。
「おまえの保護者は誰なんだ……?」
僕は尋ねる。
「大叔父さんに面倒見てもらってる。私の祖母の兄らしい」
意外に彼女は素直に答えた。
それで納得がいく。彼女が「水城」という姓のままなのは、血縁関係のある家に引き取られたからなのだろう。
ここまで来て対話をやめるわけにはいかない。僕はすべてを彼女から聞きだすべく言葉を紡ぐ。
「結衣は……僕のことをなんと言っていた……」
僕の力ない問いかけに彼女は瞑目する。
「お母さんは……」
そして、固い表情のまま、ゆっくりと口を開く。
「あんたのことを恨んでなかった……」
僕は思わず、彼女の顔を見る。
彼女は苦虫をかみつぶしたような顔で僕を睨んでいる。
「私の名前で解るでしょ……お母さんは、死ぬ最後まで確かにあんたを愛していたの……」
「そんな……」
くらりとしためまいが僕を襲う。まるで、足元が急に崩れ落ちでもしたような気持ちで、僕はたたらを踏む。
彼女が、結衣が、最後まで僕を愛していた。それは何よりも残酷な言葉。僕を傷つける言葉のナイフだった。
気が付けば、僕はくずおれ落ち、膝を折っていた。
「ずっと、あんたの話を聞かされた。誰からも爪はじきにされていた自分を唯一かばってくれた人だって。お母さんがあの人と一緒に居られなくなったのは、全部自分のせいなんだっていつも言ってた」
やめろ……。
「お母さんは本当にあんたのことが好きだったんだ」
やめてくれ……。
僕はついに頭を抱えてうずくまる。
もう何も聞きたくはなかった。
むしろ、結衣は僕のことを恨んでいた、と言ってくれた方がどれだけ僕の心は安らいだだろうか。
彼女が今わの際まで僕を本当に愛していたのだとすれば、自分自身の悪性がより浮き彫りになってしまうから。
「お母さんの日記はすべて読んだ……だから、お母さんがやってたことは全部知ってる……知ってるけど……それでもあんたが一緒に逃げてやったら、お母さんは死なずに済んだ」
僕はそっと顔を上げる。
彼女は滂沱の涙を流しながら、僕を見ていた。
「返して……私のお母さんを返してよ……」
彼女もまた僕の前にうずくまり、僕の胸を力なく叩いた。
一瞬、考える。
僕はこの娘を抱きしめてやるべきなのだろうか、と。
だが、それはできない。
それは、僕がこの娘の父親面をする資格がないから、とかそんな理由ではない。
——そもそもこの娘は本当に僕の娘なのか、と思うからだ。
僕は彼女に手も触れずに、そっと立ち上がりながら思う。
それはそもそも彼女に妊娠の事実を告げられた日からずっと考えていたことだった。
結衣の中に居るという子供は、本当に僕の子なのかということ。
確かに、僕たちはあの祭りの夜、一度だけ関係を持った。
それが衝動的で刹那的な行動であったことは否定しようのない事実だが、それでも僕は最後の一線の理性は持っていたつもりだ。
あの日、僕は彼女の妊娠を避けるために最大限の努力をしたつもりだった。
だからこそ、僕は彼女が告げた妊娠という事実に対して本当は嘘だったのではないかと考えた時期もあったくらいだ。
ここにいることりが結衣の娘であることは疑いようはないが、僕の娘であるという証拠は一つとしてありはしないのだ。
なにしろ、彼女は金のためとはいえ、複数の男と寝るような女。種を得る機会など数知れないほどあったはずだ。
僕はゆっくりと後ずさる。
そんな僕の様子を見て、ことりは首をかしげる。
「お父さん……?」
初めてそう呼ばれて気が付く。
僕はこの半年、この娘は結衣の娘であろうとずっと悩み続けてきた。だが、同時に、この娘を自分の娘であるとはまったく認めていていなかった自分がいたことに気が付く。
もしかしたら、この娘は僕に父親になってもらいたいと本気で考えていたのかもしれない。
復讐などという言葉を弄しながら、かつて自分の母親と関係を持ったという男に取り入ろうとしていただけだったのかもしれない。
こうやって泣きつけば、古いドラマのように彼女そっと抱きしめてくれると思っていたのかもしれない。
——嫌だ。
僕は認めない。
この女が僕の娘だなんて認めない。
もし、この生徒が僕の娘であったなどという事実が明るみに出れば、僕の学校でも立場は地に落ちる。ただでさえ、僕は職員室を避け、自分が顧問をする文芸部の部室にいつも籠っているような愛想の悪い男。他の教師からの評価は芳しくない。僕にこのような醜聞が発覚すれば、僕を庇ってくれるのはせいぜい翼と森中先生くらいのものだろう。
僕は彼女に背を向けて言う。
「……おまえは僕の娘なんかじゃないよ」
僕はそう言い捨ててその場を後にした。
彼女の首つり死体が発見されたのは、その翌日の朝のことだった。