夏祭り
文字数 8,740文字
「やあ」
駅近くの大通り、そこにその予備校のビルはあった。
私はそのビルを見上げながら呟く。
「ここの塾ってすごい大きいよね。七階建てのビルが全部塾なんだ」
「……なんでここに居るんだ?」
予備校から出てきたことりくんは正面入り口の前で待っていた私を見て、目を見開く。
「ん……ここに居たら、ことりくんに会えるかなって」
「……ずっと待ってたのかよ」
「私は一途な女だからね」
「馬鹿が」
ことりくんは吐き捨てるように言った。
八月に入って、学校は夏休みに入っていた。学校があった間は毎日顔を合わせていたことりくんとも会う機会はぱったりとなくなった。そのときになって、私はようやく彼の連絡先を知らなかったことに気が付いた。初めのうちは夏休みが終われば、また会える、そんな風に考えて、さして気にも留めていなかったが、日一日と彼に会えない日が積み重なっていくと、私の中にあった彼への想いは少しずつ募っていく。昔、どこかで聞いた歌に「会えない時間が想いを強くする」なんて歌詞があったけれど、あの歌詞の意味がようやく理解できた。
私は彼に会いたくて仕方がなかった。
うだるような夏の日差し。街路樹の影に隠れて待っていたのだけれど、暑いものは暑い。いっそ、中のエントランスで待っていようかとも考えたが、ここは私のような人間が踏み入れていい場所ではないと思い直し、ずっと入り口の前に立ち尽くしていた。
「……行くぞ」
「うん」
彼はぶっきらぼうな口調で言い、私はそれに弾むような声で答えた。
それでいい。
それでいいのだ。
「おまえは携帯電話はもってないのか?」
道を歩きながら彼は私に向かってそう問いかけた。
私は答える。
「あると思う?」
「まあ、持ってねえよな」
携帯電話。あれば便利なのだろうと思うが、残念ながら私は持っていない。まず、親がわざわざ買ってくれるはずがないから、手に入れたければ自分で買うしかないのだろうけど、契約とやらの煩雑さが面倒で結局諦めた。それに携帯電話の通話料だって私には馬鹿にならない。現状で何とかやれているのなら、それに甘んじるべきだろう。
「仕方ねえな」
彼はポケットから細長い携帯電話を取り出し、いじり始める。
「あ、携帯持ってるんだ。ずるーい」
「……親に持たされてるんだよ」
彼はしかめ面で私の言葉に応じながら、メモ帳を取り出し、何かを書きとめる。
「ほらよ」
「え、なに?」
「俺の携帯番号」
彼から渡された真っ白で無機質なメモ用紙には11桁の数字が並んでいた。
「え、教えてくれるの?」
「……この炎天下、ずっと塾の前で待ち伏せされて、おまえが倒れでもしてみろ。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ」
ことりくんは、いつも通りの仏頂面だ。
電話番号を教えてくれるときすら、こんな風に言い訳じみた理由をつけるあたりが本当に彼らしい。私の口の端は思わず緩む。
「ありがとう、一生の宝物にする」
「大げさなんだよ」
「えへへ」
「一生の宝物」は、さすがに冗談だけど、彼からこうして電話番号を教えてもらったことは本当にうれしかった。
私はそのメモ用紙をそっと胸に抱く。
「毎日、電話するね」
「やめろ。用事があるときだけにしろ」
「ええ、でも、クラスの携帯持っている人は友達同士でめっちゃ長話してるって聞いたよ」
「よそはよそ、うちはうちだ。いいか、用事がないならかけてくるな」
「仕方ないな……毎日、用事を作らないとな……」
「そういうことじゃねえ」
彼はそんな風に吐き捨てながらも、決して私を突き放したりはしない。そんな彼のことが本当に愛おしかった。
そのときだった。
私の目にあるものが飛び込んでくる。
それを見た瞬間、私に一つのアイデアが浮かんだ。
あれを使えば、言えるかもしれない。
それは直感だ。
私はことりくんに向かって言う。
「少しだけ、ここで待ってて」
「はあ?」
「お願い」
「別に構わんが……」
「ありがと」
そう言い残して、私は駆け出す。
そして、数メートル先にあった公衆電話の中に入る。公衆電話に十円玉を滑り込ませ、先程、彼からもらった11桁の数字を打ち込む。
すぐにそれは繋がった。
「もしもし、結衣だけど」
私の問いかけに答えて彼は言う。
『知ってる、目の前に見えてる』
彼は受話器を握る私の背中を見つめているのだろう。私は彼の声は聞こえるけれど、彼の姿は目に入っていない。
これなら、言えるかもしれない。
面と向かって、彼の鋭いけれど優しい目を見ていても言えない言葉もこうして受話器越しの彼になら、もしかしたら――
「あのね……」
『……おう』
何かを察したのか、彼もどこか神妙な声で応じる。
「今日はお願いがあって来たんだ」
『ん……』
私は彼の相槌を聞きながら、大きく深呼吸する。
夏の日差しにさらされ続けた公衆電話の中はまるでサウナのようだ。だけど、私の体温が上がっているのは、そのせいではないのかもしれない。
――心臓がとくんと音を立てた。
「……私とデートしてくれませんか?」
「よお……」
待ち合わせ場所の駅前。時間ぴったりに彼は現れた。
私は彼の姿を認めて、思わずはにかむ。
「えへへ、本当に来てくれたんだ」
「おまえが来いって言ったんだろうが……」
「そうだね」
いつも人を睨むみたいに眉間にしわを寄せていることりくんだけれど、今日はいつもよりしわの数が多い気がする。不機嫌なのだろうか。
それとも――
「照れてる?」
「はあ?」
私の問いかけに彼は食い気味に声を上げる。
「何に照れるって?」
「だって、デートだよ」
「………………」
そう言うと、彼は押し黙る。そんな彼の様子を見て、私は言う。
「あれ? もしかして、本当に照れてる?」
「黙れ。これ以上、戯言を弄すなら、俺は帰るぞ」
そう言って、本当に踵を返そうとする。
私はそんな彼の腕に縋りつく。
「わあ、ごめんごめん。冗談だからさ」
「………………」
彼は振り返る肩越しに私を睨んだ。
「ね」
私がそう彼に声をかけると、彼はがしがしと自分の髪を乱暴にいじる。
「ああ、畜生。さっさと行くぞ」
そう言って、彼は私の手を振り切って速足で歩きだした。
「ああ、待って待って」
私は彼の後を追って、歩き出す。
彼の背中を見て、私は頬を緩める。
そして、私たちのデートが始まった。
遠くから響く祭囃子とごった返す人の声。周囲の屋台からは香ばしい何かが焼ける匂いが漂ってくる。ずっと先に長い石段が見える。その先に神社があるのだろう。
「すごい、夏祭りだ」
私はそんな感嘆の言葉を漏らす。
「そうだな」
彼は私の言葉に淡々と答えた。
「すごいよ、屋台がいっぱい……! 金魚すくいにヨーヨーすくい。射的にくじびき。おいしそうな食べ物もいっぱいだよ……! あ、この後、花火もあるって。絶対に見ようね!」
私が弾んだ声でそう言うと、
「夏祭り、来たことないのか?」
彼は横目で私を見て、そう尋ねた。
私は過去の記憶を引きずり出す。
「……初めてではないと思う。本当に小さいころには、お母さんとそのときの『お父さん』が連れていってくれたはずだから……あんまり、記憶には残ってないんだけどね」
「そうか……」
彼は一瞬、何か言いたげな表情をしたが、結局、やめたようだった。
「なら、実質、初めての夏祭りってわけだ。だったら、遊び倒さないとな」
彼はそう言って、いたずらな表情で微笑んだ。
私は彼のただそれだけの言葉が本当に嬉しくて、
「うん!」
子供みたいな無邪気な声で返事をした。
それからは本当に夢のような時間だった。
二人で射的をして遊んだ。一発も当てられなかった私を笑ったことりくんも、結局、一つの的も倒すことはできず、彼は「あれはインチキだ」と口先をとがらせて言った。
わたあめを「ただの砂糖の塊」とこき下ろした彼に、私が買ったわたあめを分けてあげた。すると、彼は「思ったよりも悪くない」などと嘯いた。素直じゃない彼の言葉に私はまた笑ってしまった。
境内では盆踊りが始まっていて、祭囃子に合わせて、見様見真似で踊り出した私を「ダサい」と言って笑う彼。「なら、見本を見せて」と言って、彼に踊ってもらったが、彼の方こそ壊れたロボットみたいな動きしかできなくて、私は涙が出るくらいに笑った。
本当に夢のような時間。
そんな時間は瞬く間に過ぎ去っていった。
「あれ、祐介じゃない?」
それは、私たちが祭りをあらかた満喫し、花火までの時間つぶしに一旦、会場の外に出たときだった。
ことりくんに声をかけてきた一人の女性。
「おばさん……」
「久しぶりねえ。また、大きくなって」
「久しぶりって、先月もうちに来てたでしょ?」
「まあ、そうだったかしら」
そんな風に言って、笑った。
「えっと……」
二人の顔をきょろきょろと見比べていた私を見て、助け舟を出してくれたのは、見知らぬ女性の方だった。
「あら、ごめんなさい。私はこの祐介の叔母なの。彼のお母さんの妹」
「ああ、そうだったんですね」
叔母という話だったが、それにしてはかなり若く見える。もしかしたら、年齢の離れた姉妹なのかもしれない。
「お邪魔しちゃったかしら?」
叔母さんはにやりと笑ってことりくんを見る。
「うるせえな……」
彼は明らかに不機嫌な声を出して、おばさんを睨んだ。
私はそんな彼の様子が微笑ましい。どこか大人びた彼にもこんな身内に対する年相応の反抗心のようなものがある。また一つ、知らなかった彼の顔が見えたような気がして、私は嬉しくなる。
今度はおばさんは私に向き直って言った。
「この子、素直じゃないでしょ? だから、あんまり友達が居ないのが心配でね。あなた、お名前はなんていうの」
「水城です。水城結衣」
「結衣ちゃんね」
叔母さんは人好きのする優しい笑みを見せる。
「だから、あなたみたいに一緒に遊んでくれる子が居て、安心してるの。祐介が迷惑かけてない?」
「いえ、そんな。むしろ、私がいつもお世話になってるので……」
「あら、ほんとにできた子ねえ」
「ねえ、もういいでしょ?」
彼は私たち二人の会話に割り込むようにして言った。
「ああ、ごめんごめん。お邪魔だったわね」
「そういうことじゃない」
彼は苦虫をかみつぶしたような顔で呟く。
「まあ、でも、祐介はちょっと勉強に根を詰めすぎだから、こうやって息抜きするのはいいことと、私は思うわよ」
「………………」
そう言われた彼はいっそう不機嫌な顔をする。
「ああ、ごめんごめん。おばさんは、もう帰るわね」
そう言って、おばさんは踵を返す。
そんなおばさんの背中に向かって彼は言う。
「お腹の中に赤ん坊居るんだから、気を付けて帰れよ」
おばさんは振り返って、嬉しそうに微笑む。
「ええ、そうするわ」
そう言って、おばさんは膨らんだお腹を愛おしそうに撫でた。
「たしか今で六か月になるはずだ」
おばさんと別れた後、ことりくんは私の「何か月なの?」という問いに答えて言った。
「ふーん、そうなんだ……」
私は彼女のお腹の中にいる子供に思いを馳せる。その子は男の子なのだろうか、それとも女の子か。今、お腹の中でどんな風に過ごしているのだろう。どんな風にしてこの世界に生まれてくるのだろう。
そんなことがなぜだか気にかかった。
「………………」
気が付くと、ことりくんは無言でこちらを見ていた。
彼のすがめられた視線。彼をよく知らない人からすれば、それは私を睨んでいるように見えたかもしれない。だけど、今の私なら解る。彼は人のことを慮っているときにこんな目をする。
そして、彼は口を開く。
「……何か気になるのか?」
彼にしては珍しい優しい口調だった。
私はそんな小さなことがおかしくて、嬉しくて、くすりと口元を緩める。
「ううん、大したことじゃないよ」
私は祭りを楽しむため、足早にかけていく人々から少しずつ距離をとっていく。明るい提灯に照らされた道も、数歩外れれば、暗い森へと変わる。私はその暖かな光と冷たい闇の境界線の上に立ちながら言った。
「私も16年前にああやって生まれてきたんだなーって」
そう言って、私がことりくんに向かって振り返る。
「なんてことを考えただけ」
そう言って、笑顔を作った。
「………………」
いつもの彼なら「くだらない感傷だ」なんて言って、切り捨てる言葉だ。
だけど、その日の彼はなぜか神妙な、どこか泣き出しそうにすら思えるような悲壮な顔をした。
そんな彼の顔を見て、私は少しだけ悲しくて、そして、少しだけ嬉しくなる。彼にこんな顔をさせてしまったことが悲しくて、でも同時に、彼にこんな顔をさせられたことが嬉しくて。私は彼を見て、いたずらっぽく笑った。
16年前の私はどんなことを考えていたんだろう。
16年前、母のお腹の中にいた私はどんな気持ちでこの世界に転がり落ちたのだろう。
私は自分の細く平らかな腹をそっと撫でる。
そして、いつか私のお腹にも一つの命が宿る日が来るのだろうか。
そんなことを思うと、私は少しだけ泣きたくなった。
しとり、しとり。
「あっ……」
私は思わず手のひらを天に向けて差し出す。貫くような冷たい水がその手のひらを叩いた。小さく弱い粒がいくつも重なっていき、やがてバケツの水をひっくり返したような雨へと変わった。
「とりあえず、あそこへ」
ことりくんは、呆然と空を見上げていた私の手を掴むと古ぼけた神社の御堂へも駆け出す。
「あっ……」
握られた彼の手は暑い夏だというのに、凍ってるんじゃないかってくらいに冷たくて、
「……ふふ」
なぜかそんなことが、私にはとてもとても嬉しいことに思えたのだった。
「面倒なことになったな」
ことりくんは、突如立ち込めた黒雲を見上げながら呟いた。
この雨で濡れ鼠になる前に屋根の下に滑り込めたことは望外の幸運だったと言わざるを得ないだろう。周囲に人影はない。祭りに来ていた客は向こうの本殿の方に身を寄せたようだった。
「これは、花火も中止だろうな」
彼にそう言われて私も改めて空を見上げる。確かにこの雨はしばらくやみそうにない。
「そっか……」
私はぽつりと呟いた。
彼はそんな私を横目で見て、言った。
「残念か……?」
「まあ……それなりに」
「そうか……」
私は世界を覆い尽くそうとするような黒雲を見上げながら呟く。
「まあ、でも、当然かなって気もする」
「当然?」
「私、雨女だし」
「なんだよ、それ」
彼は鼻をならして笑う。
「小学生のとき、楽しみにしていた遠足の日もほとんど雨だったし、遊園地に連れていってもらえるはずだった日も雨だった。私が楽しみにしている日は絶対、雨なの」
「………………」
私は何かをつかみ取ろうとするように、そっと天に手を伸ばす。
「だから、ことりくんとのデートだったら、雨。絶対、雨。もう一生晴れないんじゃないかってくらいの雨」
私の手は空を切る。解っている。解っているからこそ、私は手を天にかざす。
「ね?」
私はそう言って、そっと首を傾げ、ことりくんを見た。彼は、黙って私の視線を受け止める。こんな近い距離で彼と見つめあったのは初めてかもしれない。彼の眼鏡の向こうの瞳を見つめる。いつも、研がれた刃物のようにすがめられた瞳。
私は湿った唇で言葉を紡ぐ。
「ねえ、眼鏡を外してよ」
彼はぴくりと眉を震わせる。
「……なんでだ」
「そっちの方がきっと似合うから」
「………………」
彼は眉根を寄せて私を睨んで、そして、そっと眼鏡を外した。
「ああ、やっぱり、そっちの方がかっこいいよ……」
「そうか……」
彼らしくない弱弱しい言葉。
「うん……そうだよ……」
「………………」
いつも眼鏡の向こうに隠れていた彼の瞳。そのレンズが取り払われた今、彼と私との間を遮るものはもう何もなかった。
私は力を抜いて、彼の肩にしなだれかかる。
「ことりくん……あのね……」
彼は一瞬、びくりと肩を震わせて、そのまま動かなくなる。彼の硬い肩に頬を寄せ、私は言う。
「私、ことりくんのことが好き……」
消え入りそうな声で、彼の耳元でそう囁いた。
肩越しに伝わるぬくもり。まるで燃え上がるような熱を私は感じている。
「ごめんね、ことりくん……」
「……なんで謝る」
「……だって」
私は震える声で呟く。
「……私みたいな汚れた女に好かれたって、面倒なだけでしょ」
私の身体はどうしようもなく汚れている。幾人もの男のものを受け入れてきた私の身体が清らかであるなどとどうして言えようか。
穢れた私の秘密を知ってなお庇ってくれた彼に私は好意を持った。だけど、今はそんな汚い自分が彼を好いているという事実が彼に申し訳なかった。
「――本当は今日で最後にしようと思っていたの」
私は言う。
「私の秘密、他の生徒にばれちゃったみたい」
彼はそこで驚きに目を見開く。
「誰かは解らないけど、私が男とラブホから出てきたのを見た人がいるみたい。下駄箱に、私を告発する内容に手紙が入れられてた」
それが入っていたのは、夏休みに入る直前の日のことだ。その日はことりくんと一緒じゃなかったから、今日まで彼には報告ができずにいた。
入れられていた手紙に書かれていた内容はひどいものだった。語彙を尽くした悪口雑言の嵐だった。たぶん、あれは一人の人間が書いたものじゃない。何人もの生徒がよってたかり、面白がって、悪口の言葉を考えたのだろう。今でもそれを思い出すだけで、背中に冷や汗が走る。
彼は私の言葉に一瞬だけ目を見開いたけど、あとは冷静に私の言葉を受け止めていた。
……もしかしたら、彼は私の秘密が露見しているという情報をどこかですでに得ていたのかもしれない。私本人が知らなかっただけど、私の秘密はすでに白日の下にさらされているのだろうか。
「その手紙を見て、改めて考えさせられた。私と貴方は住む世界が違う。だけど、私の中の貴方への思いは日増しに強くなっていく。だから、最後に一度だけデートして、もう貴方に関わることをやめようと思っていた」
それは未練を断ち切るための行為のはずだった。最後に一生に一度の思い出を作って、彼のことは忘れようと思っていた。
これ以上、一緒に居れば、彼にも迷惑をかけることにもなるかもしれないから。
だけど――
「やっぱり、ダメだね……余計に未練ができただけだった」
私は身体の震えを止められない。彼にすがる手に力がこもる。
もう一度、「ごめん」と口を開こうとした瞬間だった。
「――おまえは自分勝手だ」
私の言葉を遮るように紡がれた彼の言葉。私は伏せていた顔をあげる。
「おまえは自分のことしか考えていない」
睫毛が触れそうな距離で私と彼は見つめ合う。
そんなときに不意に頭をよぎったのは、彼は思っていた以上に澄んだ目をしているんだっていうこと。
「おまえは俺の気持ちを考えたことがあるか」
「……え」
私は彼の言葉に動揺する。
彼の気持ち……?
そう言われてみれば、彼が私をどう思っているか尋ねたことなど一度もなかった。
彼は私のことをどう思っているのだろう。
「おまえは俺を貴族か何かとでも思っているのかもしれないが、俺もおまえも同じ一人の人間だ」
「で、でも、私の身体は……」
「おまえみたいなことをして、生きてる人間なんて掃いて捨てるほどいる。自分だけが特別だなんて、それは勝手な考えだ」
「………………」
彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺だって綺麗な人間じゃない。どちらかというと善人よりも、悪人よりの人間だ。だから、おまえの身体が汚れているかなんて大した問題じゃない」
「……でも」
「めんどくさい女だな」
そう言って彼は小さくため息をついて、
「なら、これで解るだろ」
そう言って、彼は私にそっと唇を寄せた。
「……あ」
私は思わず吐息を漏らす。
まるで子供の遊びのようなキス。私はもっと激しいそれを幾度となく経験している。だけど、今までのどのキスとも違う。身体に電流が走ったような衝撃。私の中がじんわりと温かくなる。
私は今、ことりくんとキスしたんだ……。
彼の服を掴む手に力がこもる。
もうだめだった。
私の思いを塞き止めていた何かは決壊した。彼への溢れだす思いを止めることは、もう出来なかった。
「ことりくん……ことりくん……」
私は彼の名を呼んですがり付く。
彼は黙って私を抱き寄せる。
彼の身体に包まれて、私という存在はゆっくりと溶けていく。
「ねえ、ことりくん……」
私は自分の身体の熱を抑える術を忘れた。私の脳を占めるのは原始的な欲求だけ。
男と女が見つめあって、欲するものは一つだけだった。
「キスして……もっともっとキスして……」
私と彼はみつめあう。
「もっと……もっと……して……」
私は今日のこの日を、きっと一生忘れない。死んで、灰になって、魂だけが天に召されても、きっと、きっと、この日のことを思い出す。
――私は彼をどうしようもなく、愛したのだった。
駅近くの大通り、そこにその予備校のビルはあった。
私はそのビルを見上げながら呟く。
「ここの塾ってすごい大きいよね。七階建てのビルが全部塾なんだ」
「……なんでここに居るんだ?」
予備校から出てきたことりくんは正面入り口の前で待っていた私を見て、目を見開く。
「ん……ここに居たら、ことりくんに会えるかなって」
「……ずっと待ってたのかよ」
「私は一途な女だからね」
「馬鹿が」
ことりくんは吐き捨てるように言った。
八月に入って、学校は夏休みに入っていた。学校があった間は毎日顔を合わせていたことりくんとも会う機会はぱったりとなくなった。そのときになって、私はようやく彼の連絡先を知らなかったことに気が付いた。初めのうちは夏休みが終われば、また会える、そんな風に考えて、さして気にも留めていなかったが、日一日と彼に会えない日が積み重なっていくと、私の中にあった彼への想いは少しずつ募っていく。昔、どこかで聞いた歌に「会えない時間が想いを強くする」なんて歌詞があったけれど、あの歌詞の意味がようやく理解できた。
私は彼に会いたくて仕方がなかった。
うだるような夏の日差し。街路樹の影に隠れて待っていたのだけれど、暑いものは暑い。いっそ、中のエントランスで待っていようかとも考えたが、ここは私のような人間が踏み入れていい場所ではないと思い直し、ずっと入り口の前に立ち尽くしていた。
「……行くぞ」
「うん」
彼はぶっきらぼうな口調で言い、私はそれに弾むような声で答えた。
それでいい。
それでいいのだ。
「おまえは携帯電話はもってないのか?」
道を歩きながら彼は私に向かってそう問いかけた。
私は答える。
「あると思う?」
「まあ、持ってねえよな」
携帯電話。あれば便利なのだろうと思うが、残念ながら私は持っていない。まず、親がわざわざ買ってくれるはずがないから、手に入れたければ自分で買うしかないのだろうけど、契約とやらの煩雑さが面倒で結局諦めた。それに携帯電話の通話料だって私には馬鹿にならない。現状で何とかやれているのなら、それに甘んじるべきだろう。
「仕方ねえな」
彼はポケットから細長い携帯電話を取り出し、いじり始める。
「あ、携帯持ってるんだ。ずるーい」
「……親に持たされてるんだよ」
彼はしかめ面で私の言葉に応じながら、メモ帳を取り出し、何かを書きとめる。
「ほらよ」
「え、なに?」
「俺の携帯番号」
彼から渡された真っ白で無機質なメモ用紙には11桁の数字が並んでいた。
「え、教えてくれるの?」
「……この炎天下、ずっと塾の前で待ち伏せされて、おまえが倒れでもしてみろ。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ」
ことりくんは、いつも通りの仏頂面だ。
電話番号を教えてくれるときすら、こんな風に言い訳じみた理由をつけるあたりが本当に彼らしい。私の口の端は思わず緩む。
「ありがとう、一生の宝物にする」
「大げさなんだよ」
「えへへ」
「一生の宝物」は、さすがに冗談だけど、彼からこうして電話番号を教えてもらったことは本当にうれしかった。
私はそのメモ用紙をそっと胸に抱く。
「毎日、電話するね」
「やめろ。用事があるときだけにしろ」
「ええ、でも、クラスの携帯持っている人は友達同士でめっちゃ長話してるって聞いたよ」
「よそはよそ、うちはうちだ。いいか、用事がないならかけてくるな」
「仕方ないな……毎日、用事を作らないとな……」
「そういうことじゃねえ」
彼はそんな風に吐き捨てながらも、決して私を突き放したりはしない。そんな彼のことが本当に愛おしかった。
そのときだった。
私の目にあるものが飛び込んでくる。
それを見た瞬間、私に一つのアイデアが浮かんだ。
あれを使えば、言えるかもしれない。
それは直感だ。
私はことりくんに向かって言う。
「少しだけ、ここで待ってて」
「はあ?」
「お願い」
「別に構わんが……」
「ありがと」
そう言い残して、私は駆け出す。
そして、数メートル先にあった公衆電話の中に入る。公衆電話に十円玉を滑り込ませ、先程、彼からもらった11桁の数字を打ち込む。
すぐにそれは繋がった。
「もしもし、結衣だけど」
私の問いかけに答えて彼は言う。
『知ってる、目の前に見えてる』
彼は受話器を握る私の背中を見つめているのだろう。私は彼の声は聞こえるけれど、彼の姿は目に入っていない。
これなら、言えるかもしれない。
面と向かって、彼の鋭いけれど優しい目を見ていても言えない言葉もこうして受話器越しの彼になら、もしかしたら――
「あのね……」
『……おう』
何かを察したのか、彼もどこか神妙な声で応じる。
「今日はお願いがあって来たんだ」
『ん……』
私は彼の相槌を聞きながら、大きく深呼吸する。
夏の日差しにさらされ続けた公衆電話の中はまるでサウナのようだ。だけど、私の体温が上がっているのは、そのせいではないのかもしれない。
――心臓がとくんと音を立てた。
「……私とデートしてくれませんか?」
「よお……」
待ち合わせ場所の駅前。時間ぴったりに彼は現れた。
私は彼の姿を認めて、思わずはにかむ。
「えへへ、本当に来てくれたんだ」
「おまえが来いって言ったんだろうが……」
「そうだね」
いつも人を睨むみたいに眉間にしわを寄せていることりくんだけれど、今日はいつもよりしわの数が多い気がする。不機嫌なのだろうか。
それとも――
「照れてる?」
「はあ?」
私の問いかけに彼は食い気味に声を上げる。
「何に照れるって?」
「だって、デートだよ」
「………………」
そう言うと、彼は押し黙る。そんな彼の様子を見て、私は言う。
「あれ? もしかして、本当に照れてる?」
「黙れ。これ以上、戯言を弄すなら、俺は帰るぞ」
そう言って、本当に踵を返そうとする。
私はそんな彼の腕に縋りつく。
「わあ、ごめんごめん。冗談だからさ」
「………………」
彼は振り返る肩越しに私を睨んだ。
「ね」
私がそう彼に声をかけると、彼はがしがしと自分の髪を乱暴にいじる。
「ああ、畜生。さっさと行くぞ」
そう言って、彼は私の手を振り切って速足で歩きだした。
「ああ、待って待って」
私は彼の後を追って、歩き出す。
彼の背中を見て、私は頬を緩める。
そして、私たちのデートが始まった。
遠くから響く祭囃子とごった返す人の声。周囲の屋台からは香ばしい何かが焼ける匂いが漂ってくる。ずっと先に長い石段が見える。その先に神社があるのだろう。
「すごい、夏祭りだ」
私はそんな感嘆の言葉を漏らす。
「そうだな」
彼は私の言葉に淡々と答えた。
「すごいよ、屋台がいっぱい……! 金魚すくいにヨーヨーすくい。射的にくじびき。おいしそうな食べ物もいっぱいだよ……! あ、この後、花火もあるって。絶対に見ようね!」
私が弾んだ声でそう言うと、
「夏祭り、来たことないのか?」
彼は横目で私を見て、そう尋ねた。
私は過去の記憶を引きずり出す。
「……初めてではないと思う。本当に小さいころには、お母さんとそのときの『お父さん』が連れていってくれたはずだから……あんまり、記憶には残ってないんだけどね」
「そうか……」
彼は一瞬、何か言いたげな表情をしたが、結局、やめたようだった。
「なら、実質、初めての夏祭りってわけだ。だったら、遊び倒さないとな」
彼はそう言って、いたずらな表情で微笑んだ。
私は彼のただそれだけの言葉が本当に嬉しくて、
「うん!」
子供みたいな無邪気な声で返事をした。
それからは本当に夢のような時間だった。
二人で射的をして遊んだ。一発も当てられなかった私を笑ったことりくんも、結局、一つの的も倒すことはできず、彼は「あれはインチキだ」と口先をとがらせて言った。
わたあめを「ただの砂糖の塊」とこき下ろした彼に、私が買ったわたあめを分けてあげた。すると、彼は「思ったよりも悪くない」などと嘯いた。素直じゃない彼の言葉に私はまた笑ってしまった。
境内では盆踊りが始まっていて、祭囃子に合わせて、見様見真似で踊り出した私を「ダサい」と言って笑う彼。「なら、見本を見せて」と言って、彼に踊ってもらったが、彼の方こそ壊れたロボットみたいな動きしかできなくて、私は涙が出るくらいに笑った。
本当に夢のような時間。
そんな時間は瞬く間に過ぎ去っていった。
「あれ、祐介じゃない?」
それは、私たちが祭りをあらかた満喫し、花火までの時間つぶしに一旦、会場の外に出たときだった。
ことりくんに声をかけてきた一人の女性。
「おばさん……」
「久しぶりねえ。また、大きくなって」
「久しぶりって、先月もうちに来てたでしょ?」
「まあ、そうだったかしら」
そんな風に言って、笑った。
「えっと……」
二人の顔をきょろきょろと見比べていた私を見て、助け舟を出してくれたのは、見知らぬ女性の方だった。
「あら、ごめんなさい。私はこの祐介の叔母なの。彼のお母さんの妹」
「ああ、そうだったんですね」
叔母という話だったが、それにしてはかなり若く見える。もしかしたら、年齢の離れた姉妹なのかもしれない。
「お邪魔しちゃったかしら?」
叔母さんはにやりと笑ってことりくんを見る。
「うるせえな……」
彼は明らかに不機嫌な声を出して、おばさんを睨んだ。
私はそんな彼の様子が微笑ましい。どこか大人びた彼にもこんな身内に対する年相応の反抗心のようなものがある。また一つ、知らなかった彼の顔が見えたような気がして、私は嬉しくなる。
今度はおばさんは私に向き直って言った。
「この子、素直じゃないでしょ? だから、あんまり友達が居ないのが心配でね。あなた、お名前はなんていうの」
「水城です。水城結衣」
「結衣ちゃんね」
叔母さんは人好きのする優しい笑みを見せる。
「だから、あなたみたいに一緒に遊んでくれる子が居て、安心してるの。祐介が迷惑かけてない?」
「いえ、そんな。むしろ、私がいつもお世話になってるので……」
「あら、ほんとにできた子ねえ」
「ねえ、もういいでしょ?」
彼は私たち二人の会話に割り込むようにして言った。
「ああ、ごめんごめん。お邪魔だったわね」
「そういうことじゃない」
彼は苦虫をかみつぶしたような顔で呟く。
「まあ、でも、祐介はちょっと勉強に根を詰めすぎだから、こうやって息抜きするのはいいことと、私は思うわよ」
「………………」
そう言われた彼はいっそう不機嫌な顔をする。
「ああ、ごめんごめん。おばさんは、もう帰るわね」
そう言って、おばさんは踵を返す。
そんなおばさんの背中に向かって彼は言う。
「お腹の中に赤ん坊居るんだから、気を付けて帰れよ」
おばさんは振り返って、嬉しそうに微笑む。
「ええ、そうするわ」
そう言って、おばさんは膨らんだお腹を愛おしそうに撫でた。
「たしか今で六か月になるはずだ」
おばさんと別れた後、ことりくんは私の「何か月なの?」という問いに答えて言った。
「ふーん、そうなんだ……」
私は彼女のお腹の中にいる子供に思いを馳せる。その子は男の子なのだろうか、それとも女の子か。今、お腹の中でどんな風に過ごしているのだろう。どんな風にしてこの世界に生まれてくるのだろう。
そんなことがなぜだか気にかかった。
「………………」
気が付くと、ことりくんは無言でこちらを見ていた。
彼のすがめられた視線。彼をよく知らない人からすれば、それは私を睨んでいるように見えたかもしれない。だけど、今の私なら解る。彼は人のことを慮っているときにこんな目をする。
そして、彼は口を開く。
「……何か気になるのか?」
彼にしては珍しい優しい口調だった。
私はそんな小さなことがおかしくて、嬉しくて、くすりと口元を緩める。
「ううん、大したことじゃないよ」
私は祭りを楽しむため、足早にかけていく人々から少しずつ距離をとっていく。明るい提灯に照らされた道も、数歩外れれば、暗い森へと変わる。私はその暖かな光と冷たい闇の境界線の上に立ちながら言った。
「私も16年前にああやって生まれてきたんだなーって」
そう言って、私がことりくんに向かって振り返る。
「なんてことを考えただけ」
そう言って、笑顔を作った。
「………………」
いつもの彼なら「くだらない感傷だ」なんて言って、切り捨てる言葉だ。
だけど、その日の彼はなぜか神妙な、どこか泣き出しそうにすら思えるような悲壮な顔をした。
そんな彼の顔を見て、私は少しだけ悲しくて、そして、少しだけ嬉しくなる。彼にこんな顔をさせてしまったことが悲しくて、でも同時に、彼にこんな顔をさせられたことが嬉しくて。私は彼を見て、いたずらっぽく笑った。
16年前の私はどんなことを考えていたんだろう。
16年前、母のお腹の中にいた私はどんな気持ちでこの世界に転がり落ちたのだろう。
私は自分の細く平らかな腹をそっと撫でる。
そして、いつか私のお腹にも一つの命が宿る日が来るのだろうか。
そんなことを思うと、私は少しだけ泣きたくなった。
しとり、しとり。
「あっ……」
私は思わず手のひらを天に向けて差し出す。貫くような冷たい水がその手のひらを叩いた。小さく弱い粒がいくつも重なっていき、やがてバケツの水をひっくり返したような雨へと変わった。
「とりあえず、あそこへ」
ことりくんは、呆然と空を見上げていた私の手を掴むと古ぼけた神社の御堂へも駆け出す。
「あっ……」
握られた彼の手は暑い夏だというのに、凍ってるんじゃないかってくらいに冷たくて、
「……ふふ」
なぜかそんなことが、私にはとてもとても嬉しいことに思えたのだった。
「面倒なことになったな」
ことりくんは、突如立ち込めた黒雲を見上げながら呟いた。
この雨で濡れ鼠になる前に屋根の下に滑り込めたことは望外の幸運だったと言わざるを得ないだろう。周囲に人影はない。祭りに来ていた客は向こうの本殿の方に身を寄せたようだった。
「これは、花火も中止だろうな」
彼にそう言われて私も改めて空を見上げる。確かにこの雨はしばらくやみそうにない。
「そっか……」
私はぽつりと呟いた。
彼はそんな私を横目で見て、言った。
「残念か……?」
「まあ……それなりに」
「そうか……」
私は世界を覆い尽くそうとするような黒雲を見上げながら呟く。
「まあ、でも、当然かなって気もする」
「当然?」
「私、雨女だし」
「なんだよ、それ」
彼は鼻をならして笑う。
「小学生のとき、楽しみにしていた遠足の日もほとんど雨だったし、遊園地に連れていってもらえるはずだった日も雨だった。私が楽しみにしている日は絶対、雨なの」
「………………」
私は何かをつかみ取ろうとするように、そっと天に手を伸ばす。
「だから、ことりくんとのデートだったら、雨。絶対、雨。もう一生晴れないんじゃないかってくらいの雨」
私の手は空を切る。解っている。解っているからこそ、私は手を天にかざす。
「ね?」
私はそう言って、そっと首を傾げ、ことりくんを見た。彼は、黙って私の視線を受け止める。こんな近い距離で彼と見つめあったのは初めてかもしれない。彼の眼鏡の向こうの瞳を見つめる。いつも、研がれた刃物のようにすがめられた瞳。
私は湿った唇で言葉を紡ぐ。
「ねえ、眼鏡を外してよ」
彼はぴくりと眉を震わせる。
「……なんでだ」
「そっちの方がきっと似合うから」
「………………」
彼は眉根を寄せて私を睨んで、そして、そっと眼鏡を外した。
「ああ、やっぱり、そっちの方がかっこいいよ……」
「そうか……」
彼らしくない弱弱しい言葉。
「うん……そうだよ……」
「………………」
いつも眼鏡の向こうに隠れていた彼の瞳。そのレンズが取り払われた今、彼と私との間を遮るものはもう何もなかった。
私は力を抜いて、彼の肩にしなだれかかる。
「ことりくん……あのね……」
彼は一瞬、びくりと肩を震わせて、そのまま動かなくなる。彼の硬い肩に頬を寄せ、私は言う。
「私、ことりくんのことが好き……」
消え入りそうな声で、彼の耳元でそう囁いた。
肩越しに伝わるぬくもり。まるで燃え上がるような熱を私は感じている。
「ごめんね、ことりくん……」
「……なんで謝る」
「……だって」
私は震える声で呟く。
「……私みたいな汚れた女に好かれたって、面倒なだけでしょ」
私の身体はどうしようもなく汚れている。幾人もの男のものを受け入れてきた私の身体が清らかであるなどとどうして言えようか。
穢れた私の秘密を知ってなお庇ってくれた彼に私は好意を持った。だけど、今はそんな汚い自分が彼を好いているという事実が彼に申し訳なかった。
「――本当は今日で最後にしようと思っていたの」
私は言う。
「私の秘密、他の生徒にばれちゃったみたい」
彼はそこで驚きに目を見開く。
「誰かは解らないけど、私が男とラブホから出てきたのを見た人がいるみたい。下駄箱に、私を告発する内容に手紙が入れられてた」
それが入っていたのは、夏休みに入る直前の日のことだ。その日はことりくんと一緒じゃなかったから、今日まで彼には報告ができずにいた。
入れられていた手紙に書かれていた内容はひどいものだった。語彙を尽くした悪口雑言の嵐だった。たぶん、あれは一人の人間が書いたものじゃない。何人もの生徒がよってたかり、面白がって、悪口の言葉を考えたのだろう。今でもそれを思い出すだけで、背中に冷や汗が走る。
彼は私の言葉に一瞬だけ目を見開いたけど、あとは冷静に私の言葉を受け止めていた。
……もしかしたら、彼は私の秘密が露見しているという情報をどこかですでに得ていたのかもしれない。私本人が知らなかっただけど、私の秘密はすでに白日の下にさらされているのだろうか。
「その手紙を見て、改めて考えさせられた。私と貴方は住む世界が違う。だけど、私の中の貴方への思いは日増しに強くなっていく。だから、最後に一度だけデートして、もう貴方に関わることをやめようと思っていた」
それは未練を断ち切るための行為のはずだった。最後に一生に一度の思い出を作って、彼のことは忘れようと思っていた。
これ以上、一緒に居れば、彼にも迷惑をかけることにもなるかもしれないから。
だけど――
「やっぱり、ダメだね……余計に未練ができただけだった」
私は身体の震えを止められない。彼にすがる手に力がこもる。
もう一度、「ごめん」と口を開こうとした瞬間だった。
「――おまえは自分勝手だ」
私の言葉を遮るように紡がれた彼の言葉。私は伏せていた顔をあげる。
「おまえは自分のことしか考えていない」
睫毛が触れそうな距離で私と彼は見つめ合う。
そんなときに不意に頭をよぎったのは、彼は思っていた以上に澄んだ目をしているんだっていうこと。
「おまえは俺の気持ちを考えたことがあるか」
「……え」
私は彼の言葉に動揺する。
彼の気持ち……?
そう言われてみれば、彼が私をどう思っているか尋ねたことなど一度もなかった。
彼は私のことをどう思っているのだろう。
「おまえは俺を貴族か何かとでも思っているのかもしれないが、俺もおまえも同じ一人の人間だ」
「で、でも、私の身体は……」
「おまえみたいなことをして、生きてる人間なんて掃いて捨てるほどいる。自分だけが特別だなんて、それは勝手な考えだ」
「………………」
彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺だって綺麗な人間じゃない。どちらかというと善人よりも、悪人よりの人間だ。だから、おまえの身体が汚れているかなんて大した問題じゃない」
「……でも」
「めんどくさい女だな」
そう言って彼は小さくため息をついて、
「なら、これで解るだろ」
そう言って、彼は私にそっと唇を寄せた。
「……あ」
私は思わず吐息を漏らす。
まるで子供の遊びのようなキス。私はもっと激しいそれを幾度となく経験している。だけど、今までのどのキスとも違う。身体に電流が走ったような衝撃。私の中がじんわりと温かくなる。
私は今、ことりくんとキスしたんだ……。
彼の服を掴む手に力がこもる。
もうだめだった。
私の思いを塞き止めていた何かは決壊した。彼への溢れだす思いを止めることは、もう出来なかった。
「ことりくん……ことりくん……」
私は彼の名を呼んですがり付く。
彼は黙って私を抱き寄せる。
彼の身体に包まれて、私という存在はゆっくりと溶けていく。
「ねえ、ことりくん……」
私は自分の身体の熱を抑える術を忘れた。私の脳を占めるのは原始的な欲求だけ。
男と女が見つめあって、欲するものは一つだけだった。
「キスして……もっともっとキスして……」
私と彼はみつめあう。
「もっと……もっと……して……」
私は今日のこの日を、きっと一生忘れない。死んで、灰になって、魂だけが天に召されても、きっと、きっと、この日のことを思い出す。
――私は彼をどうしようもなく、愛したのだった。