告白
文字数 7,769文字
文化祭は十月の始めに行われる。
私はろくに準備に参加もしなかった。いや、正確には参加させてもらえなかったというべきだろうか。
例の噂はもう校内中に広まっていた。それはまるで毒のように学校という身体を犯しつくしている。すでに校内に私の居場所はなかった。
それでも文化祭の二日前までは良かった。放課後の準備の参加は任意。用事があるものは参加せずに帰ったとしても咎められることはない。だけど、今日は違う。
「前日準備は全員参加って、なによ……」
私はそんな独り言を言って、ため息をつく。
文化祭の前日だけは、一日授業がなくなる代わりに全員で文化祭の準備をするというのが、我が校の伝統ということらしい。
これでも私も頑張ったと思う。何かの準備に参加しようと、もう一月近く会話をしていなかったクラスメイトに声をかけて、何か仕事はないかと尋ねた。
「あ……こっちは大丈夫……」
皆、こんな調子であからさまに私と関わることを避けていた。
完全に立つ瀬を失った私は、一人、立ち入り禁止の屋上の柵を乗り越えて屋上に隠れた。二学期が始まって一月、誰も入ってこれないここが私の唯一の居場所になりつつあった。
「へくちゅ……!」
不意に飛び出すくしゃみ。
十月ともなると、さすがに吹きさらしの屋上は冷える。ここに居られる時間も、もうそう長くはないだろう。
それ以前に、私がこの学校にいつまで居られるかということも不透明だ。
学校中に例の噂が広まっているということは教師たちの間にも、私が援助交際をしているという話は広まっているだろうと予想はつく。最近、教師が私を見る目に探るようなものがある。噂の真贋を見極めようとしているのは明らかだ。
これは予想だが、本格的な取り調べが始まるのは、明日の文化祭が終わってからだろう。文化祭とは、学校を上げての行事であり、教師も普段よりも忙しくなる。よって、緊急性の少ない案件は祭が終わった後に回されているのではないだろうか。つまり、今の私はあくまで見逃されているだけという状況なのだろう。
証拠があるわけではないと思う。あり得るとしたら、誰かが私がホテルから出てくるところを写真に収めているという可能性だが、果たしてそこまでする生徒がいるかは不明だ。
証拠がないとすれば、私がしらを切り続ければ処罰は免れるかもしれないが……。
「それ以前に、この状況で卒業まで持つ自信がない……」
私は自分を、一人でも生きていける人間だと考えていた。確かに、「友達」と呼べる存在が居なくなれば、不便ではあるけれど、それが居なくなったからといって「生きていけない」などと言い出すような弱い人間ではないと思っていた。
だが、それはとんでもない買いかぶりだった。
かりそめであろうと「友達」である人間は、私を傷つけることはない。ただ、それだけのことがどれだけありがたいことだったのか。失って初めて気が付く。
「友達」でなくなった人間は、ただの「他人」になるんじゃない。「敵」になるんだ。
今の私はみんなから無視されているだけだ。だから、例の手紙以外に実害は被っていない。だから、これを「いじめ」と定義すべきなのかは、判断が分かれるところだろう。
だが、仮にクラスメイト達が私に直接危害を加えてきたとしても、私は彼女たちがやってくることを教師たちに訴えることはできない。そうなれば、なぜ自分がいじめられることになったのかを説明せねばならない。もちろん、例の噂は根も葉もないものだと突っ張ることはできるかもしれないが、そうであっても藪蛇となる可能性の方が高いだろう。やはり、教師に相談するのは得策とは言えない。
世界中に私の味方は一人も居ない。
――ギィ
私は屋上を塞ぐフェンスがきしむ音を聞く。
「まったく、相変わらずしけた面をしてるな」
いや、一人だけいる。
「ことりくん……」
彼は私を睨むようにして微笑んだ。
二人で屋上から校庭を見下ろす。
そこでは生徒たちが明日の準備に精を出していた。屋台となるテントが組み立てられ、ライブやカラオケ大会が行われるステージでは明日のリハーサルが行われている。そして、グラウンドの中央、祭りのクライマックスにキャンプファイアーが行われるはずの場所では明日のための予行練習を行っているようだ。
「こうやって上から見ていると――」
ことりくんの言葉で、私は振り返る。
「ああやって、準備している連中は働きアリだな」
「ふふ、何それ」
私は彼の言葉の選び方に思わず吹き出す。
「ことりくんは働きアリにならなくてもいいわけ?」
私がそう尋ねると、
「ふん、俺は上に立つ人間だからな。働き者でもアリでもないさ」
「はは、そうだね」
彼らしい言葉に、私はまた笑う。
二学期に入って、私が屋上へ逃げ込むようになってから、彼はよくここに来るようになった。彼はその理由を「きまぐれだ」なんて言っていたけど、私を一人にしないためにここまでやってきていることは明らかだった。
文芸部の部室だって文化祭の準備の真っ最中だ。あそこだって、もう私たちだけの場所じゃないのだ。
私は下にいる人間に見つからないように後ろに下がりながら考える。
私はことりくんに告げなければならないことがある。
ここ数日、ずっと考えていたこと。いつまでも隠しとおすことはできない。いつかは告げなければならないこと。
でも、勇気が出ない。
これを言えば、今の私たちの関係は終わる。
それがどういう方向に転がるにしても、もう、少なくとも今と同じ関係では居られなくなるだろう。
それでも、私は彼にこのことを告げるべきなのだろうか。
私は未だ迷いの中にいた。
「そういえば、知ってるか?」
そんな私の胸中を知ってか知らずか、彼の方から私に声をかけてくる。
「翼の奴に聞いたんだが」と前置きをして、彼は話し始める。
「明日の文化祭のキャンプファイアーのとき、あの木の下で告白したカップルは永遠に結ばれるらしい」
「え……」
私は思わず、声を漏らす。
そして、彼の指先を追う。
そこにはグラウンドの端にある大きな木があった。頂点は四階建ての校舎の屋上に迫るほどであるから、かなり高い木だ。入学当初から大きな木だなとは思っていた。
「そうなんだ……」
告白をすれば永遠に結ばれる……。
私はその「永遠」という響きに酔った。それこそが、私が欲してやまないものだったから。
「愛してる」なんて言葉を男から囁かれた回数は、もう覚えてはいない。男たちの中には果てて冷静になるまで、抱いている女を金で買ったという事実を忘れているものもいる。そんな男は行為の最中に口走るのだ。「愛している」と。
私はそんな言葉を求めているわけでも、欲しているわけでもなかったけれど、そんな風に愛をささやいた男たちが、行為が終わった途端に淡白な態度になることに何も思わないわけではなかった。
なら、言うな。
永遠を誓えないというなら、口に出すな。
そんなことを思う。
私にとって、愛は掃いて捨てるものだけど、「永遠の愛」だけは特別だったのだ。
「笑わせるよな」
「………………」
「永遠の愛だぞ」
彼はシニカルな笑みを口元に張り付ける。
「高校生の餓鬼が何を言ってるんだって話だ」
彼の言い分に私は思わず、頬を緩める。
「ことりくんだって高校生じゃん」
「だから、永遠の愛なんてわからんと言っているんだ」
彼らしい言い分だと思う。
そんな簡単に永遠の愛が手に入るんなら、私はずっとあの木の下で暮らしてもいい。
「見てないか?」
「……え?」
「明日」
彼はいつの間にか、私の方を見ていた。
私と彼の目が合う。
彼の眼鏡越しの視線が、私の胸の奥をついた。
「キャンプファイアーのとき、ここに忍び込んで、木の下で告白する奴が居るのか見ていよう」
彼は淡く微笑んだ。
「そんでそいつらが本当に永遠の愛を得られそうか、確認してやろうぜ」
彼らしい言葉とも思えたし、彼らしくない言葉とも思えた。噂をばかばかしいと切り捨てるのは彼らしかったが、それを確かめるために見張っていようなんて言うのは、合理性の塊とも思える彼らしからぬ思考だった。
あるいは、私はまだ本当の彼を知らないのだろうか。
「いいよ」
私は何かを考えるより先にそう答えていた。
噂の真偽が気になったわけではない。ただ、私は、彼と、ことりくんと一緒に居られる時間が一秒でも増えるなら、それに縋りたかったというだけだった。
それに――
「私もそのとき、大事な話をするね」
そのときなら、私が言わなければならないことも言える。
そんな気がしたのだ。
そして、文化祭は始まった。
校内をぶらつきながら思う。
楽しそうだな、と。
でも、思うのはそこまでだ。「楽しそう」と思うことはあっても「楽しい」と思うことはない。所詮は文化祭なんていうのは、子供騙し。そんな子供騙しを本気で楽しいと思えるのは、自分がその子供騙しに本気に向き合っているからだ。私のようにそこの輪に入れなかったものが、本気で「楽しい」と思えるはずがない。
ステージの演奏を聞いても、屋台の焼きそばを食べても、何の感慨も湧かなかった。私はほとんど人のいない図書室の隅で時間をつぶした。
そして、約束の時間。
「よお」
キャンプファイアーが始まるころに、私は屋上を訪れる。そこにはことりくんが待っていた。
そんな彼の姿を見ただけで、私の心はじんわりと温かくなる。
やはり、私にはもう彼しかいないのだ。
「今日、どこに居たの?」
私は彼に尋ねる。文化祭の開催の挨拶のころには、彼はもう教室から姿を消していた。
「塾。そこの自習室に籠ってた」
「塾って……」
「あそこ予備校だから浪人生もいるからな。朝から空いてるんだ」
「校外に出ちゃダメなんじゃ……」
「ばれなければセーフだ」
「……もう」
彼は基本的に優等生で通っているけれど、それは外面がいいだけだ。だが、学校行事をさぼって勉強するという辺り、真面目なのか、不真面目なのか解らない。
ふと、いい機会だと思って聞いてみることにする。
「なんで、そんなに必死に勉強するの?」
私は今までその問いを彼本人に投げかけたことはなかった。四月の頃、クラスメイトから聞いた話では、いい家のお坊ちゃんだからとか、高校受験に失敗したからだとかいう噂を聞いたけれど、それは真実なのだろうか。
「なんで、そんなに勉強するか、だと?」
彼は怪訝な顔で私を見る。
そして、小さくため息をついてから言う。
「別に大した話じゃないぞ」
彼はそう前置きをして語り始める。
「俺は本当はもっと上の学校に行きたかった。だが、受験の時につまらないミスをして第一志望に通れなかった。だから、大学受験で取り返そうとしている」
「………………」
「それだけだ」
そう言って、彼は視線を私に向ける。
「それだけか、って思ったろ?」
「え……まあ」
「まあ、そんなもんなんだよ」
彼は屋上の入り口の石段に腰掛けながら言う。
「俺は子供の頃、天才って言われてたんだ」
「天才?」
「喋り始めるのが人より早かったとか、九九を覚えるのが早かった、とかそんなつまらない話だ」
私は黙って耳を傾ける。
「でもまあ、いわゆる『十で神童十五で才子二十過ぎれば』って奴で、自分はできる人間なんかじゃないって事実が、後から後から追ってくるんだよ。でも、まだ、自分は他の奴とは違うって気持ちが捨てきれない。だから、ずっとずっと勉強している」
彼はポケットに入れていた英単語帳を取り出し、じっと見つめる。
「こんなもの後生大事にしていたってしょうがないってわかっているんだけどな」
彼にしては珍しい消沈した表情だった。
彼と過ごす時間が長くなればなるほど、私は彼の知らなかった一面を知っていく。それはとても楽しいことで、同時に怖い。まだまだ、私は彼のすべてを知らなくて、もしかしたら、私の知らない部分は、私が受け入れがたいものかもしれなくて。
私は不意に彼に抱き着きたくなる。
余計な理性を捨てて、原始的な欲求に逃げたくなる。
獣だったらよかったのにと思う。
獣だったら、私はこんなに悩まずに済んだ。
ただ、愛しい彼の胸元でずっとうずくまっているだけでよかったのに。
「キャンプファイアー、始まるみたいだな」
彼の言葉で私は我に返る。
下から見つからないように、二人でこっそりと校庭をのぞき込む。松明を持った誰かが校庭の中央に組まれた木に火をつけようとしている。キャンプファイアーに注目させるためか、教室や屋台の灯りはすべて落とされているようだ。まるで、この世界に初めて落とされた火のようだと思う。闇の中を照らすのは、一本の灯だけになる。
松明はキャンプファイアーの中に差し込まれ、ゆっくりと炎の勢いを強めていく。始めはろうそくのように小さかった火も徐々に徐々に燃え広がり、大きな炎の塊へと変わっていく。闇の中で燃え上がる炎。それはまるで大輪の花ようだと思う。
「……きれい」
私は思わず声を漏らす。
すぐ隣で身を寄せる彼は、何も言わなかった。
どれくらい時間が経っただろう。キャンプファイアーの盛り上がりは最高潮を迎える。周囲を取り囲むように音楽に合わせて踊る生徒たち。その中にはもちろん、最近、私を仲間外れにするクラスメイトも居るのだろう。そんなことを考えると、心にほんの少しだけ陰りが刺す。
「おい、見ろよ」
彼に声をかけられ、彼の指さす先を見る。
そこにあったのは、例の大木だった。
「今、あそこに誰かの手を引いて走っていった奴が居る」
「ほんとに?」
私は木の根元をじっとのぞき込む。
「ほんとだ、誰かいる!」
彼の言うように確かに木の根元には二つの人影があった。周囲の光源は校庭の中央のキャンプファイアーしかないから、そこに居るのが誰なのかまでは解らない。だが、そこに人がいるのは間違いがなかった。
「はは、本当にあの噂を信じているのかね?」
彼は吐き捨てるように笑う。
私は二つの人影を見下ろしながら呟く。
「……あるいは、信じたいのかも」
私の口から言葉がこぼれる。
「『永遠の愛』が欲しいから、それがほんの少しでも手に入る可能性があるのなら、それに縋りたいのかも」
気持ちはわかる。
永遠は特別だ。ただ木の下で告白するだけで永遠が手に入るなら、あの木の下にはきっと世界中から永遠を求める人々が訪れることになるだろう。私だって噂が真実なのだとしたら、今すぐここから飛び降りて、あそこまで行きたいくらいだ。
「……水城?」
私の様子から何かを察したのか、彼は私の名前を呼ぶ。
私は今なら言えると思った。
いや、今言わねばならないと思った。
だから、私はその言葉を口にした。
「赤ちゃんができたみたい」
私の言葉は遠い遠い夜空の果てまで届いた。
そんな気がした。
校庭から届く喧騒は一瞬でかき消えた。
世界には二人だけが取り残された。
私はゆっくりと彼の方を振り向いた。
彼と目が合う。
彼の顔に感情は見えない。眼鏡越しの瞳は、まるで何も映していないかのように澄んでいた。
「ねえ……」
私が口を開くと、彼は言った。
「それは……俺の子だって言いたいのか」
彼の言葉に衝撃を受けなかったと言えば、嘘になる。当たり前でしょと言いたい気持ちもあった。
だけど、同時に私は彼に対して大きな引け目を持っていることも事実。彼がそんなことを確認するであろうこともしっかりと予測していたから、私は一度深呼吸をしてから答える。
「間違いないと思う……私、客と寝るときは絶対ゴムしてるから……つけてなかったのは君との時だけだし……それに最近は客もとってなかったから」
「そうか……」
彼はそう答えると落ち着きなく視線をさまよわせる。彼は自分の中で処理できる物事に関しては冷静に対処できるが、自分の手の届く範疇の外にある出来事に関しては途端に落ち着きを失う傾向がある。誰でもそうなのかもしれないけれど、彼は普段落ち着いている分、焦りを覚えたときの様子がわかりやすい。
「どうするつもりなんだ」
「産むよ」
私は即答する。
自分の中に一つの命が宿っていると知ったとき、私の中に最初に生まれた決意がそれだった。
「絶対産む」
16年前、私があの母の中から生まれてきたように、私は私の中にできた命を必ずこの世界に迎え入れる。
それが私の使命だと固く信じていた。
私の母は言った。
『あんたなんか産まなければよかった』
その言葉を聞いた私の気持ちを誰が解ってくれるだろうか。
世界の足場が崩れた。その日から、私は孤独の闇の中へと永遠に落下を続ける運命を課された。
そして、決意した。
自分は絶対にそんなことは言わない。
どんな命だろうと守り抜いてやろうと。
彼は言う。
「産むって言っても学校はどうする……」
「やめる」
それはもう前から決めていたことだった。
憧れから必死になって入った高校だったけど、そこに私が求めていた安息はなかった。皆から無視され、蔑まれる。自業自得なのかもしれないけど、少なくとも、もう学校が私にとって執着すべき場所ではなくなっていたのだ。
「でも……」
「もともと、大した考えがあって入った学校じゃない。やめたからってどうってことはないよ」
「………………」
彼はまだ混乱し、動揺しているようだった。
落ち着きなく膝を揺らしている。
彼は不意に顔を上げて言う。
「どうやって育てる? おまえの家族が協力してくれるとは思えないぞ」
彼は早口でまくし立てる。
私は彼から視線をそらさずに言う。
「逃げるよ」
「逃げる……?」
「うちの母親は絶対におろせって言う。そうじゃないと私が身体で稼いでこれなくなるって思うから」
「………………」
「だから、何も言わずに逃げる。一応、お金は溜めてるんだよ。もちろん、たくさんあるわけではないけど。数か月くらいなら持つくらいの貯金はある」
あの母親から逃げる。そんな考え、今まで浮かんだことはないものだった。私にとって母親は楔だった。それも一度打ち込まれれば二度と抜けるはずはないと思っていたものだった。だけど、私はその楔を抜こうという努力すらしていなかった。そんな当たり前のことに気が付かせてくれたのは、私の中にある小さな命だった。
「そういうことを言っているんじゃない……」
彼は歯を食いしばり、私を睨みながら言う。
「確かに金さえあれば、おまえの母親から一時逃げおおすことは可能かもしれない。だが、それでは根本的な解決にならない。ただの16歳の小娘が一人で生きていけるほどこの世界は優しくないぞ!」
「うん、私もそう思う」
激昂し始める彼とは対照的に私の頭はゆっくりと冷えていく。
一番言いたくて、だけど、恐ろしくてずっと口に出せなかった言葉も今なら言える。
私はその言葉を口にする。
「ことりくん、私は君を永遠に愛します」
「……っ」
私の言葉を聞いた彼は開きかけた口を閉じる。
「私の一生を捧げます。あなたのためならどんなことでもします。私の持つすべてをあなたに上げます。だから――」
私は彼に向かって右手を伸ばす。
「――私と一緒にどこまでも逃げてくれませんか」
――明日の夜、あの木の下で待っています。
永遠の愛を誓う、あの木の下で。
私はろくに準備に参加もしなかった。いや、正確には参加させてもらえなかったというべきだろうか。
例の噂はもう校内中に広まっていた。それはまるで毒のように学校という身体を犯しつくしている。すでに校内に私の居場所はなかった。
それでも文化祭の二日前までは良かった。放課後の準備の参加は任意。用事があるものは参加せずに帰ったとしても咎められることはない。だけど、今日は違う。
「前日準備は全員参加って、なによ……」
私はそんな独り言を言って、ため息をつく。
文化祭の前日だけは、一日授業がなくなる代わりに全員で文化祭の準備をするというのが、我が校の伝統ということらしい。
これでも私も頑張ったと思う。何かの準備に参加しようと、もう一月近く会話をしていなかったクラスメイトに声をかけて、何か仕事はないかと尋ねた。
「あ……こっちは大丈夫……」
皆、こんな調子であからさまに私と関わることを避けていた。
完全に立つ瀬を失った私は、一人、立ち入り禁止の屋上の柵を乗り越えて屋上に隠れた。二学期が始まって一月、誰も入ってこれないここが私の唯一の居場所になりつつあった。
「へくちゅ……!」
不意に飛び出すくしゃみ。
十月ともなると、さすがに吹きさらしの屋上は冷える。ここに居られる時間も、もうそう長くはないだろう。
それ以前に、私がこの学校にいつまで居られるかということも不透明だ。
学校中に例の噂が広まっているということは教師たちの間にも、私が援助交際をしているという話は広まっているだろうと予想はつく。最近、教師が私を見る目に探るようなものがある。噂の真贋を見極めようとしているのは明らかだ。
これは予想だが、本格的な取り調べが始まるのは、明日の文化祭が終わってからだろう。文化祭とは、学校を上げての行事であり、教師も普段よりも忙しくなる。よって、緊急性の少ない案件は祭が終わった後に回されているのではないだろうか。つまり、今の私はあくまで見逃されているだけという状況なのだろう。
証拠があるわけではないと思う。あり得るとしたら、誰かが私がホテルから出てくるところを写真に収めているという可能性だが、果たしてそこまでする生徒がいるかは不明だ。
証拠がないとすれば、私がしらを切り続ければ処罰は免れるかもしれないが……。
「それ以前に、この状況で卒業まで持つ自信がない……」
私は自分を、一人でも生きていける人間だと考えていた。確かに、「友達」と呼べる存在が居なくなれば、不便ではあるけれど、それが居なくなったからといって「生きていけない」などと言い出すような弱い人間ではないと思っていた。
だが、それはとんでもない買いかぶりだった。
かりそめであろうと「友達」である人間は、私を傷つけることはない。ただ、それだけのことがどれだけありがたいことだったのか。失って初めて気が付く。
「友達」でなくなった人間は、ただの「他人」になるんじゃない。「敵」になるんだ。
今の私はみんなから無視されているだけだ。だから、例の手紙以外に実害は被っていない。だから、これを「いじめ」と定義すべきなのかは、判断が分かれるところだろう。
だが、仮にクラスメイト達が私に直接危害を加えてきたとしても、私は彼女たちがやってくることを教師たちに訴えることはできない。そうなれば、なぜ自分がいじめられることになったのかを説明せねばならない。もちろん、例の噂は根も葉もないものだと突っ張ることはできるかもしれないが、そうであっても藪蛇となる可能性の方が高いだろう。やはり、教師に相談するのは得策とは言えない。
世界中に私の味方は一人も居ない。
――ギィ
私は屋上を塞ぐフェンスがきしむ音を聞く。
「まったく、相変わらずしけた面をしてるな」
いや、一人だけいる。
「ことりくん……」
彼は私を睨むようにして微笑んだ。
二人で屋上から校庭を見下ろす。
そこでは生徒たちが明日の準備に精を出していた。屋台となるテントが組み立てられ、ライブやカラオケ大会が行われるステージでは明日のリハーサルが行われている。そして、グラウンドの中央、祭りのクライマックスにキャンプファイアーが行われるはずの場所では明日のための予行練習を行っているようだ。
「こうやって上から見ていると――」
ことりくんの言葉で、私は振り返る。
「ああやって、準備している連中は働きアリだな」
「ふふ、何それ」
私は彼の言葉の選び方に思わず吹き出す。
「ことりくんは働きアリにならなくてもいいわけ?」
私がそう尋ねると、
「ふん、俺は上に立つ人間だからな。働き者でもアリでもないさ」
「はは、そうだね」
彼らしい言葉に、私はまた笑う。
二学期に入って、私が屋上へ逃げ込むようになってから、彼はよくここに来るようになった。彼はその理由を「きまぐれだ」なんて言っていたけど、私を一人にしないためにここまでやってきていることは明らかだった。
文芸部の部室だって文化祭の準備の真っ最中だ。あそこだって、もう私たちだけの場所じゃないのだ。
私は下にいる人間に見つからないように後ろに下がりながら考える。
私はことりくんに告げなければならないことがある。
ここ数日、ずっと考えていたこと。いつまでも隠しとおすことはできない。いつかは告げなければならないこと。
でも、勇気が出ない。
これを言えば、今の私たちの関係は終わる。
それがどういう方向に転がるにしても、もう、少なくとも今と同じ関係では居られなくなるだろう。
それでも、私は彼にこのことを告げるべきなのだろうか。
私は未だ迷いの中にいた。
「そういえば、知ってるか?」
そんな私の胸中を知ってか知らずか、彼の方から私に声をかけてくる。
「翼の奴に聞いたんだが」と前置きをして、彼は話し始める。
「明日の文化祭のキャンプファイアーのとき、あの木の下で告白したカップルは永遠に結ばれるらしい」
「え……」
私は思わず、声を漏らす。
そして、彼の指先を追う。
そこにはグラウンドの端にある大きな木があった。頂点は四階建ての校舎の屋上に迫るほどであるから、かなり高い木だ。入学当初から大きな木だなとは思っていた。
「そうなんだ……」
告白をすれば永遠に結ばれる……。
私はその「永遠」という響きに酔った。それこそが、私が欲してやまないものだったから。
「愛してる」なんて言葉を男から囁かれた回数は、もう覚えてはいない。男たちの中には果てて冷静になるまで、抱いている女を金で買ったという事実を忘れているものもいる。そんな男は行為の最中に口走るのだ。「愛している」と。
私はそんな言葉を求めているわけでも、欲しているわけでもなかったけれど、そんな風に愛をささやいた男たちが、行為が終わった途端に淡白な態度になることに何も思わないわけではなかった。
なら、言うな。
永遠を誓えないというなら、口に出すな。
そんなことを思う。
私にとって、愛は掃いて捨てるものだけど、「永遠の愛」だけは特別だったのだ。
「笑わせるよな」
「………………」
「永遠の愛だぞ」
彼はシニカルな笑みを口元に張り付ける。
「高校生の餓鬼が何を言ってるんだって話だ」
彼の言い分に私は思わず、頬を緩める。
「ことりくんだって高校生じゃん」
「だから、永遠の愛なんてわからんと言っているんだ」
彼らしい言い分だと思う。
そんな簡単に永遠の愛が手に入るんなら、私はずっとあの木の下で暮らしてもいい。
「見てないか?」
「……え?」
「明日」
彼はいつの間にか、私の方を見ていた。
私と彼の目が合う。
彼の眼鏡越しの視線が、私の胸の奥をついた。
「キャンプファイアーのとき、ここに忍び込んで、木の下で告白する奴が居るのか見ていよう」
彼は淡く微笑んだ。
「そんでそいつらが本当に永遠の愛を得られそうか、確認してやろうぜ」
彼らしい言葉とも思えたし、彼らしくない言葉とも思えた。噂をばかばかしいと切り捨てるのは彼らしかったが、それを確かめるために見張っていようなんて言うのは、合理性の塊とも思える彼らしからぬ思考だった。
あるいは、私はまだ本当の彼を知らないのだろうか。
「いいよ」
私は何かを考えるより先にそう答えていた。
噂の真偽が気になったわけではない。ただ、私は、彼と、ことりくんと一緒に居られる時間が一秒でも増えるなら、それに縋りたかったというだけだった。
それに――
「私もそのとき、大事な話をするね」
そのときなら、私が言わなければならないことも言える。
そんな気がしたのだ。
そして、文化祭は始まった。
校内をぶらつきながら思う。
楽しそうだな、と。
でも、思うのはそこまでだ。「楽しそう」と思うことはあっても「楽しい」と思うことはない。所詮は文化祭なんていうのは、子供騙し。そんな子供騙しを本気で楽しいと思えるのは、自分がその子供騙しに本気に向き合っているからだ。私のようにそこの輪に入れなかったものが、本気で「楽しい」と思えるはずがない。
ステージの演奏を聞いても、屋台の焼きそばを食べても、何の感慨も湧かなかった。私はほとんど人のいない図書室の隅で時間をつぶした。
そして、約束の時間。
「よお」
キャンプファイアーが始まるころに、私は屋上を訪れる。そこにはことりくんが待っていた。
そんな彼の姿を見ただけで、私の心はじんわりと温かくなる。
やはり、私にはもう彼しかいないのだ。
「今日、どこに居たの?」
私は彼に尋ねる。文化祭の開催の挨拶のころには、彼はもう教室から姿を消していた。
「塾。そこの自習室に籠ってた」
「塾って……」
「あそこ予備校だから浪人生もいるからな。朝から空いてるんだ」
「校外に出ちゃダメなんじゃ……」
「ばれなければセーフだ」
「……もう」
彼は基本的に優等生で通っているけれど、それは外面がいいだけだ。だが、学校行事をさぼって勉強するという辺り、真面目なのか、不真面目なのか解らない。
ふと、いい機会だと思って聞いてみることにする。
「なんで、そんなに必死に勉強するの?」
私は今までその問いを彼本人に投げかけたことはなかった。四月の頃、クラスメイトから聞いた話では、いい家のお坊ちゃんだからとか、高校受験に失敗したからだとかいう噂を聞いたけれど、それは真実なのだろうか。
「なんで、そんなに勉強するか、だと?」
彼は怪訝な顔で私を見る。
そして、小さくため息をついてから言う。
「別に大した話じゃないぞ」
彼はそう前置きをして語り始める。
「俺は本当はもっと上の学校に行きたかった。だが、受験の時につまらないミスをして第一志望に通れなかった。だから、大学受験で取り返そうとしている」
「………………」
「それだけだ」
そう言って、彼は視線を私に向ける。
「それだけか、って思ったろ?」
「え……まあ」
「まあ、そんなもんなんだよ」
彼は屋上の入り口の石段に腰掛けながら言う。
「俺は子供の頃、天才って言われてたんだ」
「天才?」
「喋り始めるのが人より早かったとか、九九を覚えるのが早かった、とかそんなつまらない話だ」
私は黙って耳を傾ける。
「でもまあ、いわゆる『十で神童十五で才子二十過ぎれば』って奴で、自分はできる人間なんかじゃないって事実が、後から後から追ってくるんだよ。でも、まだ、自分は他の奴とは違うって気持ちが捨てきれない。だから、ずっとずっと勉強している」
彼はポケットに入れていた英単語帳を取り出し、じっと見つめる。
「こんなもの後生大事にしていたってしょうがないってわかっているんだけどな」
彼にしては珍しい消沈した表情だった。
彼と過ごす時間が長くなればなるほど、私は彼の知らなかった一面を知っていく。それはとても楽しいことで、同時に怖い。まだまだ、私は彼のすべてを知らなくて、もしかしたら、私の知らない部分は、私が受け入れがたいものかもしれなくて。
私は不意に彼に抱き着きたくなる。
余計な理性を捨てて、原始的な欲求に逃げたくなる。
獣だったらよかったのにと思う。
獣だったら、私はこんなに悩まずに済んだ。
ただ、愛しい彼の胸元でずっとうずくまっているだけでよかったのに。
「キャンプファイアー、始まるみたいだな」
彼の言葉で私は我に返る。
下から見つからないように、二人でこっそりと校庭をのぞき込む。松明を持った誰かが校庭の中央に組まれた木に火をつけようとしている。キャンプファイアーに注目させるためか、教室や屋台の灯りはすべて落とされているようだ。まるで、この世界に初めて落とされた火のようだと思う。闇の中を照らすのは、一本の灯だけになる。
松明はキャンプファイアーの中に差し込まれ、ゆっくりと炎の勢いを強めていく。始めはろうそくのように小さかった火も徐々に徐々に燃え広がり、大きな炎の塊へと変わっていく。闇の中で燃え上がる炎。それはまるで大輪の花ようだと思う。
「……きれい」
私は思わず声を漏らす。
すぐ隣で身を寄せる彼は、何も言わなかった。
どれくらい時間が経っただろう。キャンプファイアーの盛り上がりは最高潮を迎える。周囲を取り囲むように音楽に合わせて踊る生徒たち。その中にはもちろん、最近、私を仲間外れにするクラスメイトも居るのだろう。そんなことを考えると、心にほんの少しだけ陰りが刺す。
「おい、見ろよ」
彼に声をかけられ、彼の指さす先を見る。
そこにあったのは、例の大木だった。
「今、あそこに誰かの手を引いて走っていった奴が居る」
「ほんとに?」
私は木の根元をじっとのぞき込む。
「ほんとだ、誰かいる!」
彼の言うように確かに木の根元には二つの人影があった。周囲の光源は校庭の中央のキャンプファイアーしかないから、そこに居るのが誰なのかまでは解らない。だが、そこに人がいるのは間違いがなかった。
「はは、本当にあの噂を信じているのかね?」
彼は吐き捨てるように笑う。
私は二つの人影を見下ろしながら呟く。
「……あるいは、信じたいのかも」
私の口から言葉がこぼれる。
「『永遠の愛』が欲しいから、それがほんの少しでも手に入る可能性があるのなら、それに縋りたいのかも」
気持ちはわかる。
永遠は特別だ。ただ木の下で告白するだけで永遠が手に入るなら、あの木の下にはきっと世界中から永遠を求める人々が訪れることになるだろう。私だって噂が真実なのだとしたら、今すぐここから飛び降りて、あそこまで行きたいくらいだ。
「……水城?」
私の様子から何かを察したのか、彼は私の名前を呼ぶ。
私は今なら言えると思った。
いや、今言わねばならないと思った。
だから、私はその言葉を口にした。
「赤ちゃんができたみたい」
私の言葉は遠い遠い夜空の果てまで届いた。
そんな気がした。
校庭から届く喧騒は一瞬でかき消えた。
世界には二人だけが取り残された。
私はゆっくりと彼の方を振り向いた。
彼と目が合う。
彼の顔に感情は見えない。眼鏡越しの瞳は、まるで何も映していないかのように澄んでいた。
「ねえ……」
私が口を開くと、彼は言った。
「それは……俺の子だって言いたいのか」
彼の言葉に衝撃を受けなかったと言えば、嘘になる。当たり前でしょと言いたい気持ちもあった。
だけど、同時に私は彼に対して大きな引け目を持っていることも事実。彼がそんなことを確認するであろうこともしっかりと予測していたから、私は一度深呼吸をしてから答える。
「間違いないと思う……私、客と寝るときは絶対ゴムしてるから……つけてなかったのは君との時だけだし……それに最近は客もとってなかったから」
「そうか……」
彼はそう答えると落ち着きなく視線をさまよわせる。彼は自分の中で処理できる物事に関しては冷静に対処できるが、自分の手の届く範疇の外にある出来事に関しては途端に落ち着きを失う傾向がある。誰でもそうなのかもしれないけれど、彼は普段落ち着いている分、焦りを覚えたときの様子がわかりやすい。
「どうするつもりなんだ」
「産むよ」
私は即答する。
自分の中に一つの命が宿っていると知ったとき、私の中に最初に生まれた決意がそれだった。
「絶対産む」
16年前、私があの母の中から生まれてきたように、私は私の中にできた命を必ずこの世界に迎え入れる。
それが私の使命だと固く信じていた。
私の母は言った。
『あんたなんか産まなければよかった』
その言葉を聞いた私の気持ちを誰が解ってくれるだろうか。
世界の足場が崩れた。その日から、私は孤独の闇の中へと永遠に落下を続ける運命を課された。
そして、決意した。
自分は絶対にそんなことは言わない。
どんな命だろうと守り抜いてやろうと。
彼は言う。
「産むって言っても学校はどうする……」
「やめる」
それはもう前から決めていたことだった。
憧れから必死になって入った高校だったけど、そこに私が求めていた安息はなかった。皆から無視され、蔑まれる。自業自得なのかもしれないけど、少なくとも、もう学校が私にとって執着すべき場所ではなくなっていたのだ。
「でも……」
「もともと、大した考えがあって入った学校じゃない。やめたからってどうってことはないよ」
「………………」
彼はまだ混乱し、動揺しているようだった。
落ち着きなく膝を揺らしている。
彼は不意に顔を上げて言う。
「どうやって育てる? おまえの家族が協力してくれるとは思えないぞ」
彼は早口でまくし立てる。
私は彼から視線をそらさずに言う。
「逃げるよ」
「逃げる……?」
「うちの母親は絶対におろせって言う。そうじゃないと私が身体で稼いでこれなくなるって思うから」
「………………」
「だから、何も言わずに逃げる。一応、お金は溜めてるんだよ。もちろん、たくさんあるわけではないけど。数か月くらいなら持つくらいの貯金はある」
あの母親から逃げる。そんな考え、今まで浮かんだことはないものだった。私にとって母親は楔だった。それも一度打ち込まれれば二度と抜けるはずはないと思っていたものだった。だけど、私はその楔を抜こうという努力すらしていなかった。そんな当たり前のことに気が付かせてくれたのは、私の中にある小さな命だった。
「そういうことを言っているんじゃない……」
彼は歯を食いしばり、私を睨みながら言う。
「確かに金さえあれば、おまえの母親から一時逃げおおすことは可能かもしれない。だが、それでは根本的な解決にならない。ただの16歳の小娘が一人で生きていけるほどこの世界は優しくないぞ!」
「うん、私もそう思う」
激昂し始める彼とは対照的に私の頭はゆっくりと冷えていく。
一番言いたくて、だけど、恐ろしくてずっと口に出せなかった言葉も今なら言える。
私はその言葉を口にする。
「ことりくん、私は君を永遠に愛します」
「……っ」
私の言葉を聞いた彼は開きかけた口を閉じる。
「私の一生を捧げます。あなたのためならどんなことでもします。私の持つすべてをあなたに上げます。だから――」
私は彼に向かって右手を伸ばす。
「――私と一緒にどこまでも逃げてくれませんか」
――明日の夜、あの木の下で待っています。
永遠の愛を誓う、あの木の下で。