過去

文字数 12,785文字

「やっぱり、あいつの一親友としては見過ごせなくてね」
 ある日、そんな前置きをして私に声をかけてきたのは、クラスメイトの小林翼くんだった。
 時は昼休み。その日はたまたま普段一緒に昼食をとるクラスメイトたちが欠席だったり、部活の集合がかかっていたりして、私は教室で一人で昼食をとっていた。小林くんは、私の隣の席に我が物顔で座った。
「小鳥遊祐介って男は、ご存知かと思うけれど、心に難攻不落の砦を築いているような男でね。彼の氷のごとき心を開かせるのは並大抵のことじゃないんだよ」
「わかる。すごいわかる」
 私は赤べこのごとく、こくこくと頷く。
 私も会話にまともに返事をしてもらうようになるだけで二週間近くかかった。それまではいくら話しかけようと無視するか、すげなく一言で切り捨てられるだけだったのだから、彼のかたくなさは筋金入りと言えよう。
「だから、今後の参考までにご教授いただきたいんだよ。水城さんがどうやってあの堅物に心を開かせたのかということをね」
「どうやってって……それ以前に心を開いているかどうかは微妙だと思うけど……」
 最近は話しかければ返事をしてくれるようになったし、一緒に帰りたいと言えば拒絶はされなくなった。だが、こちらから話しかけなければ、彼からコミュニケーションをとってくることは稀だ。これでも心を開いていると言えるのだろうか。
「いや、十二分さ。あいつが僕以外の誰かと会話すること自体稀だし、ましてや、一緒に下校することを拒否されないだなんて、ノーベル賞並みの快挙と言っても過言ではないだろうね」
「そんなにすごいことなの……?」
「まあね」
 そんな風に返事をしながら、小林くんは顔をしかめる。
「あいつも昔、いろいろあったもんだからさ……」
 よどみなく流れていた彼の言葉の歯切れが悪くなる。深い霧の向こうを覗き込んでいるような表情。普段の明朗快活な彼の様子からは想像できない陰のある表情だった。
「まあ、というわけでさ」
 その瞬間、彼はいつもの明るい表情に戻っていた。
「ぜひ、水城さんにどうやってあいつの心を開いたのかって教えてほしいなって思ったわけ」
「どうやってって……」
 そんな風に尋ねられても本当に解らないのだ。
 ふと、先日の彼の笑顔を思い出す。もしかしたら、彼はそれなりに私に心を開いていてくれているのかもしれない。だけど、そうなった心当たりなど、一つとしてありはしないのだ。
「わかんないよ。本当に。むしろ、こっちが教えてほしいくらい」
「ふーん、そんなもんか」
 小林くんは口をとんがらせている。
 そして、何事かを考えるように明後日の方を向いたかと思うと、次の瞬間にこう呟いた。
「なら、もしかしたら、あいつも……」
 そのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。彼の言葉もそのチャイムの音と一緒にどこか遠くへと流れて行った。

 それから、私たちの時間はゆっくりと流れていった。まるで、分厚いパンの生地を薄く引き伸ばしたかのようなその時間は、ゆったりと落ち着いた凪のときだった。だけど、パン生地をパンとして完成させるためには、その薄く伸ばした生地を、また、丸めて一つのまとまりにしなくてはならない。いつまでも伸ばし、薄くしたままでは、いつまでもパンは完成しない。
 そういう意味であの邂逅は、私たちという関係を完成させるために必要な出来事だった。

「ふん……色気づいてるわね……」
 それは、ある日の帰り道での出来事だった。
 彼が塾へと向かう道すがら、私は彼の隣を歩いた。私は彼にほとんど一方的に話しかける。学校では休み時間、ずっと単語帳をめくっている彼も帰り道ではさすがに手ぶらだ。彼も私の話に適当な相槌くらいは打ってくれる。そんな折に、そいつは現れた。
「男遊びなんて、結構なご身分ね。嫉妬しちゃうわ」
「……お母さん」
 街中で不意に私に声をかけてきたのは、私の母親だった。
 マーブル柄のタイトミニワンピースに、何十万もするヴィトンのチェーンバッグ。いつも通りの派手な装いだ。
 母は実年齢よりもかなり若く見られる方だ。すくなくとも16歳になる娘がいるようにはきっと見えないだろう。娘の私から見ても、いわゆる「美人」の類であるとは思う。
 それでも、彼女をじっと見つめていれば、ほんの少しのほころびのようなものが見える。化粧でごまかしきれなくなったしわや、張りを失いつつある肌。それは今はまだ間違い探しでもするみたいに目をすがめて、観察しなければ気が付かれない小さな穴だ。だけど、その穴は少しずつ大きくなっていく。昨日よりも今日、今日よりも明日。彼女は少しずつ「女」でなくなっていく。一日ずつ、「女」へと変わっていく私とは正反対に。
 母は往来の中で堂々と煙草に火をつけながら言った。
「いいわよね、若いっていうのは」
 そして、煙を味わいもせず、明後日の方向に吹き出した。
 ことりくんは困惑した顔で、私と母を交互に見ている。
 ……そうなるのは、当然のことだろう。
 私は不意に泣き出したくなる。子供みたいに周囲の目も気にせず、転がりまわって泣いてしまいたい。そんな衝動に駆られる。もうずいぶんと涙なんてものは出していない。そんなものは枯れ果てたと思っていたのに。どうやら、私は自分自身を買いかぶり過ぎていたようだ。自分自身の闇をこうして突き付けられることは、本当に辛かった。
 母はぶしつけにことりくんを観察している。
 上から下まで嘗め回すように彼を見つめた後、彼女は言った。
「ふうん、あんたはこういう趣味なのね。まあ、悪くないと思うわよ」
 そう言って、彼女は私に下卑た笑いを見せる。私は現実で悪魔というもの見たことがない。だけど、もしこの世に悪魔が本当に居るのだとしたら、きっとこんな表情をしているのだろう。
「――行こう」
 私はその瞬間、彼の手を引いて、歩き出した。
 このときの私の中にあったのは、激しい怒りだった。先ほどまでの悲しみを燃料として燃え上がる憎悪の炎だ。こんな人に、もう一秒だって、ことりくんを見られたくない。
 すれ違う瞬間、確かに彼女の舌打ちが私の耳朶を叩いた。
 そして、彼女はぼそりと小さな声で何かを呟いていたけれど、私には彼女がなんて言ったのか解らなかった。
 私は速足でその場を後にしようとする。
 ことりくんは何も言わず、私の手に引かれ、されるがままになっている。
 そのときだった。
 私たちの背中に向かって、その言葉は投げられた。
「結衣、遊んでねえで、ちゃんと稼いで来いよ、おめえの身体でな!」
 それはこの世の悪辣や嫌悪のすべてを丸めてひと固まりにしたような穢れた言葉だった。
 私はそんな言葉から背を向け、逃げた。
 彼の手を引いて、ひたすらに逃げた。

 息が、切れた。
 わき腹が痛い。
 心臓がバクバクと音を立てる。
 そうやって、身体が悲鳴を上げてようやく、私は自分が無我夢中で走っていたことを知った。
 ことりくんの手を握ったまま。
「ごめん……!」
 私はとっさに手を離す。そして、自分の手をぎゅっと握りしめる。彼の手を握っていた掌は、嫌な汗で濡れていた。
 私は恐る恐る顔を上げ、ことりくんの様子を見る。
 彼も肩で息をしていて、額に流れた汗をそっとぬぐっていた。私は周囲を見回す。町の外れの寂しい住宅街。先程歩いていた場所からはずいぶんと離れている。どうやら、私は本当に無我夢中であの場から逃げ出したようだ。これでは、息も切れるわけだ。
 改めてことりくんに対して申し訳なさが募る。逃げ出したいのであれば、せめて私一人で逃げるべきだった。……いや、そうすれば、あの母親と彼が二人で取り残されることになってしまう。それだけは何があっても嫌だ。だから、きっと、私は無意識のうちに彼の手を引いて、ここまで来てしまったのだろう。
「ごめんね……」
「それは――」
 私が改めて謝罪すると、彼は私の言葉を遮るように言った。
「それは何に対する謝罪だ」
「え……?」
 彼の思わぬ言葉に私は鼻白む。
 何に対する謝罪……?
 私は彼の問いかけについて考える。しかし、様々な想いが胸に去来し、うまく自分の考えをまとめることができない。
「えっと……」
「何も考えず、謝罪するのは馬鹿がすることだ」
 彼はいつもの調子で吐き捨てるように言う。
「何か不都合があった際に、何の考えもなしに謝罪するというのは、誠実さの皮をかぶった逃げだ。もっとも恥ずべき悪徳の一つだな」
「えっと……」
「……要するに、自分が悪くもないのに謝るな、と言ってるんだ」
 彼はまた一つ嘆息してそう言った。
 確かに、私は「ごめん」という言葉を何の考えもなしに使っていた。
 癖になっていたのかもしれない。
 あの母親を前にして、あの人が持つどす黒い何かに触れてしまうと、私は途端に自分が小さなネズミにでもなってしまったような気分になる。本当にネズミだったのなら、下水道の中に逃げられるけれど、私は残念ながら人間だ。ただ、ひたすら卑屈に、小さくなって、嵐が過ぎ去るまで震えていることしかできなかった。
――ごめんなさい
 そう言って、母親からの暴力がやむことをただひたすらに祈りながら。
「――話せよ」
「……え?」
 放心していた私は間抜けな声を漏らす。
「謝るくらいなら話せ。お前が抱えているものを」
 ことりくんは、いつもの鋭い視線で私を睨む。
「……でも」
 言いよどんだ私を見て、彼は言う。
「……話したくないなら無理強いはしない。その選択をするのは、おまえだ」
 彼は私を見下ろしながら呟いた。
「だが、話すことで、おまえが楽になるなら、俺は話くらいは聞いてやる」
「………………」
 話そう。
 なぜか、そんな気分になっていた。
 その理由は解らない。でも、十五年間抱えてきた秘密を打ち明ける気持ちになっていたのは、確かな事実だった。
 私は一度、大きく深呼吸をする。
 呼吸を整える。
 そして、私はゆっくりと自分の過去を語り始めた。 

「結衣、新しいお父さんよ」
 そう言って、優しそうに微笑む母が、私という存在のはじまりの記憶。そこから私の人生は始まった。
 あるいは、そう思っているのは、一種の思い込みという可能性も捨てきれない。なぜなら、私が確実に覚えているだけでも、「新しいお父さん」は十人以上居たからだ。「新しいお父さん」ができるたびに、母は嬉しそうに微笑んで私に「新しいお父さんよ」って言っていたから、繰り返されたその光景が私の記憶の中に強く焼き付いていただけなのかもしれない。
 幼い私にとって、「お父さん」というのは、どんどん新しいものに入れ替わっていく存在だった。 
 今度のお父さんは、どんなお父さんかな。何も解らない子供だったときの私は「お父さん」が新しく変わると解ったときは、まるで新しい子供向けアニメが始まりでもするような高揚感で、それを迎えていた。時には、前の「お父さん」の方がよかったなと思うこともあったけれど、それは仕方がないと割り切った。私にとって「お父さん」とは、そういうものだったのだ。
 「お父さん」たちの私に対する態度はまちまちだった。私をまるで我が子のように可愛がる「お父さん」も居れば、無関心を貫く「お父さん」も居た。幼い私は前者の「お父さん」を好んだ。そういう「お父さん」のときは、母親も私に優しく接してくれたからだ。今では考えられないことだけれど、そういう「お父さん」のときは、母親は家事をしたり、私に服を買ってくれたり、普通の「お母さん」のようなことをしてくれたのだ。
 逆に、私に無関心な「お父さん」と一緒の母親は、私を道端の小石と変わらない扱いをした。家事などしないばかりか、私に話しかけることすら稀だった。そういう「お父さん」は私の存在を疎んじ、母親に対して文句を言っていたから、母親は私に「あの人の機嫌を損ねるな」とただそれだけを言いつけていた。そうして、私は「お父さん」に嫌われないように努力する方法を模索していく。私の経験上、基本的に、にこにこと愛想よくしていれば、「お父さん」が私をうっとうしがることは少なくなる。だから、基本的に幼少期の私はいつも笑顔だった。いつしか、それが癖になっていき、学校でも何も楽しいことなどなくても笑っていたから、先生からは「水城さんはいつも笑顔でいいわね」などと能天気なことを言われたりもした。
 だけど、時には、そうやって笑っていると「何を笑ってやがる」と怒りだす「お父さん」も居た。そういう「お父さん」が一番厄介だ。そういう「お父さん」のときは、私は極力、家に帰らないようにした。家に帰っても、家の隅で存在を消して縮こまった。それが一番の安全策だった。
 困ったのは、母親が「お父さん」と行為を始めたときだった。最低限の節度を持っている「お父さん」は、そういうときに寝室に行ってくれるけれど、そうでない「お父さん」は酒に酔った勢いでリビングで行為に及ぶ。子供だった私はもちろん、その意味は解っていなかったけれど、子供心に自分がここに居てはいけないのだということを感じ取っていた。だから、寝室に避難したかったけれど、二人が気まぐれで寝室に移動してきたとき、私が寝室にいると怒鳴り散らされる。ゆえに、寝室も安全地帯とは言い難かった。私はそういう行為が始まったときは、そっと家を出て、家の前で小さくうずくまった。暑い夏はまだいい。寒い冬の夜は地獄だった。最初のうちは家の近くのコンビニに避難していたのだけれど、一度、警官に見つかり、家に帰されてからは、コンビニに避難することもできなくなった。警官に補導されて家に連れ帰されれば、後で母親に殴られるから。
 私はひたすら小さくなって、母親たちの情事が終わるのを待つのだった。

 月日は私を少しずつ大人に変えていく。
 そして、それは私が「女」になっていくことと同義だった。
 私がそれを意識したのは、小学六年生の冬。
「結衣、こっちに来なさい」
 そのときの「お父さん」は、そう言って私を寝室に呼んだ。
 その日、母親は出かけていて居なかった。部屋には私と「お父さん」の二人きりだった。
 このときの「お父さん」は、どちらかというと、私に気をかけてくれるタイプだった。前の「お父さん」も、前の前の「お父さん」も、私を疎んじ、遠ざけるタイプだったから、その二人に比べて、私はそれなりに心を許していたように思う。
「なあに、お父さん」
「こっちに来なさい。お父さんの膝の上に」
 そう言って、「お父さん」は私を自身の膝の上に座るように言った。
「………………」
 小学生とはいえ、高学年。父親の膝に座って無邪気に遊ぶような年齢ではない。ましてや相手は血のつながらない「お父さん」。子供ながらにおかしいと思った。
 けれど、私はその「お父さん」に嫌われたくない一心で、彼の言葉に従うことにした。もし、またこの「お父さん」が「新しいお父さん」に代わってしまったら、また、冬空の下に放り出される生活に逆戻りするかもしれないと思ったからだ。私は恐る恐る「お父さん」の膝の上に座った。
 「お父さん」の膝は固かった。それは自分の柔らかい肉の膝とは違う。筋肉のついた膝だった。
「ああ、結衣」
 椅子に座るように「お父さん」の膝に腰掛けた私に彼の表情は見えない。耳元にかかる熱い吐息と、もぞもぞとうごめく下半身。そして、彼の手は私の肩にかかる。そこから、指先で何かを確かめるように私の腕をそっとまさぐっていく。私は身をすくめていることしかできない。そこから、その手の先が私の胸元へ伸びる。ふくらみ始めていた私の胸を服の上からなぞるように触り始めた。
「ああ……結衣……」
 そこから先はもう言葉にならない様だった。彼の口から漏れる吐息は、もはや人間の言語の体をなしていなかった。そこに居たのは一匹の獣。私はされるがままになるしかなかった。
 彼の冷たい手が私の襟元からその中へと伸びようとしたときだった。
「何をしているの?」
 気が付けば、母親が目の前に立っていた。
 その途端、「お父さん」は慌てて、私を突き飛ばすようにして立ち上がる。
「ああ……いやあ……結衣と遊んでいただけだよ……」
 そう言いながら、落ち着きなく視線をさまよわせる。
 私は腰を抜かして、その場にへたりこむことしかできなかった。
 そのとき、私の胸によぎった感情は「助かった」だった。
 さすがに小学六年生ともなれば、自分がされそうになっていた行為の意味くらいは理解できた。そのことを改めて意識して、私は身震いした。
 母親に泣きつきたくなった。今の母親ならきっと私を優しく抱きとめてくれる。そんな思いがふと頭をよぎった。もう何年も母親らしい愛情など注いでもらっていなかったけれど、なぜだかこのときの私は母親が自分を守ってくれると信じて疑っていなかった。
 だからこそ、余計に母親の言葉には衝撃を受けた。
「何をしているのよ、結衣」
 母親は床にへたりこむ私を見下ろしていた。
 そこにあったのは、愛情でもなければ、憐憫ですらなかった。
 ――ただひたすらの憎悪。
「なんで、あんたがこの人とそんなことしているのよ」
 母親は一歩ずつ私に詰め寄ってくる。私は床に這いつくばったまま、後ずさる。
「なによ、何なのよ」
 いつしか、私は壁際へと追い詰められている。
「やっぱり、若い女がいいの……? 私じゃダメだっていうの……?」
 その言葉は誰に向けられたものだったのだろうか。母親の目は確かに私を捉えていながら、私を見てはいなかった。
「あんたが、処女だから――」
 そう言って、母親は私ににじり寄ると勢いよく私の髪を掴み、私を殴り始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい――」
 私は口癖になった言葉を呪文のように唱え続ける。それでもやむことのない暴力。母親に殴られることに慣れ切った私ですら、恐怖するほどの勢いで母親は私を痛めつけ続けた。
 母親が暴力をやめ、どこかに消えたときには、「お父さん」はもう居なくなっていた。
 それ以来、私の家に「新しいお父さん」が来ることはなかった。

「来なさい、結衣」
 それは、「お父さん」が居なくなって数日が過ぎたある日のことだった。
 久しぶりに母親から声をかけられる。
 だが、それは良くない兆候であることは明らかだった。母親の目が座っていたからだ。
「この服を着なさい。ちょっと大きいでしょうけど、なんとか着られるでしょ」
 そうして、差し出されたのは、予想外なことに母親の服だった。シックな印象の白のロング丈のニットワンピに、深緑の落ち着いた印象のジャケット。そして、あろうことかショートブーツまでもが与えられた。
 普段の私は、甘い「お父さん」のときに、買いためた子供服を着まわすのが当たり前。当然、母親がお古とはいえ、服をくれたことなど初めてのことだった。
 だから、このときの私は戸惑うことしかできなかった。
「ふん、まあこれならいけるでしょ」
 姿見を見ながら母親は言った。
 確かに、この装いは我ながらなかなかに似合っていたと思う。母親の着ている服は「お父さん」にねだって買ったブランド品ばかりだったから、さすがに上質で着心地はよかった。ファッションにこだわる母親だけあって、コーディネートも悪くない。
 こうやって、鏡を見ていると我ながら小学生には見えないと思ったことを覚えている。
「ほら、行くわよ」
 そう言って、母親は私を街に連れ出したのだった。

 連れていかれた先は繁華街。
 汚らしい喧騒と下卑た空気の満ちた街並み。今では慣れ切ったそれも、小学生の私にとっては、どこかそら恐ろしく、嫌っているはずの母親に縋りつきたい気分にすらなった。
「きっと、あいつね。結衣、ちゃんと愛想よくするのよ」
 母親がいったい誰を待っていたのか解らなかったが、愛想よくするのは得意だった。とりあえず、私は慣れた微笑みの仮面を被っておく。
「スガヤさんでいいかしら?」
 母親は裏路地に佇んでいた男に声をかけた。
「……はい」
 男は喉奥に痰でも絡んでいるのか、うなるような声で返事をした。
 路地裏に立っていた男は小汚い中年のおじさんだった。年齢は少なくとも四十は越えているだろう。腹周りにはでっぷりと肉がついており、顎は二重になりかけている。禿げ上がった頭頂部と対照的な無精ひげが目立った。少し斜視気味でぎょろりとした魚のような目が印象的だった。
 総じて、不潔で気持ちの悪い親父とした言えない男だった。
 私は不思議に思う。
 母親はいったい何故、このような男と待ち合わせしていたのだろう。
 様々な男をとっかえひっかえしていた母親だったが、男の好みははっきりしていた、彼女は明確に面食いだった。私の「お父さん」になった男たちも皆、一様に整った顔立ちをした男ばかりだった。少なくとも、こんな気色の悪い風貌をした男と母親が話しているのは、初めて見た。
「これよ」
 そう言って、母親は私の肩に手を置くと、まるでゴミでも捨てるような乱暴な手つきで私を男の前に引き出した。
 不意に男の前に引き出された私は身のすくむような思いがしたけれど、「愛想よくするのよ」と言われていたので、そういう態度を出さないように気を付けた。
「どうかしら?」
「……うん」
 男は私をなめるように見つめた。頭の先からつま先まで入念に無遠慮な視線をさまよわせ、私の胸元と私の顔を交互に見つめて呟いた。
「……いいよ、これなら」
 そう言って、男はにたりと笑った。
 瞬間、私は直感した。
 ああ、私はきっとこの男に売られようとしているんだ、と。
 男の瞳の奥にある劣情を私はすでに「お父さん」から思い知らされている。
「そう。じゃあ、お金を先に頂戴」
「……うん」
 男はポケットからくしゃくしゃになった幾枚かの札束を取り出し、母親に手渡した。母親は一瞬、顔をしかめて、札を検める。
「確かに」
 そう言うと、母親はその金を自分のブランド物の財布の中にねじ込んだ。
「あとは、好きにしてください。では」
 そう言って、母親はあっさりと踵を返して、その場を後にしようとする。
 私は思わず、叫ぶ。
「待って!」
 私は母親の足元に縋りついて叫ぶ。
「嫌だ! いい子にするから、許して!」
 母親はそこでぴたりと足を止め、私を見下ろす。
 私は母親の目を見た。
 このとき、この瞬間の私は、それでもまだ母親のことをどこか信じていたのかもしれない。「嘘に決まってるじゃない」と母親が笑って私を抱きとめてくれる幻想すら、抱くことができていた。
 だが、私を見下ろす母親の瞳に映っていた感情は――
「――放しなさいよ」
 紛れもない憎悪だった。
 私は思わず手を離し、後ずさる。
 母親はその瞳に確かな憎みの炎をたぎらせたまま、言う。
「……若い女がいいっていうの……? 年をとったら、もう価値はないっていうの……?」
 母親はぶつぶつとつぶやく。
「あんたなんか要らなかった。最初から、あんたなんか産みたくなかった……」
 私は何も言えず、ただ母親を見つめている。
「なんで、産んだら母親になんかならなくちゃいけないの……? どうして母親は娘のためを思わないといけないの……?」
 そもそも、私たちは本当に母娘だったのだろうか。
 生物学的には、きっと私とこの人は間違いなく母娘なのだろう。
 けれども、その血のつながり以外の何が私たちをつないでいたのだろう。
「ようやく解ったのよ。あんたは私が産んだ。だから、私の好きにする。あんたの魂も身体も全部私の好きにする」
 母親は私の目の前に立ち、私の襟首をつかんで、無理矢理に立ち上がらせた。
「これから、あんたは私のために一生、金を稼いできなさい」
 そして、先ほどの小汚い中年に向けて、私を突き飛ばした。
「その身体を使ってね」
 そう言って、母親は悪魔のような笑顔で笑った。
 そうして、その日、私は「女」になった。

 それから、私は母親が斡旋した男たちと寝るようになった。もちろん、初めのころは抵抗した。それでも、大の男に勝てるはずもなく、母親からの命令もあっては逆らえるはずなどなかった。
 そうして、得た金はほとんどすべて母親に巻き上げられた。私を抱いた男が罪悪感のためか、口止めのためか、母親に渡した金とは別に私に金をくれることもあった。そういった金で私はなんとか食いつないていった。
 始めのうちはさすがに落ち込んだ。いや、落ち込んだなんてレベルじゃない。地面が崩れて、地の底に崩れ落ちてしまったようなショックが断続的に私を襲った。それは夜、寝ているときに不意にやってきて、私の首を締め上げ、涙を出させる。この瞬間ほど、死を意識するときはない。けれど、時間は私の心に凪を連れてくる。朝がやってくると、私は一瞬でも死を思った自分の考えの方が、恐ろしくなってしまうのだった。
 誰かに助けを求めることも考えた。けれど、いったい誰に? 教師は私の笑顔の仮面に騙されている。警察官は杓子定規にしか物を考えられない。周囲の大人は誰も当てにならなかった。そして、何より、そうやって告げ口したことで母親に殴られるのが恐ろしかった。
 そんな日々を過ごしていくうちに心は擦り切れていく。行為にも慣れ、感情が自分から離れていく。
 無。
 無だ。
 何も考えるな、淡々とこなせ。
 私の前に居る男たちはベルトコンベアで運ばれてくる。私はそれを機械的に悦ばせ、満足させる。すべてが終わって、男どもは下半身の支配から一瞬解放され、青い顔をする。そこまでが私の業務だ。
 機械の身体に、笑顔の仮面。
 それだけがあれば、私は生きていける。
 少なくとも、この世に存在できる。

 私が中学校に上がってしばらくして、私が一度に稼げる額が少しだけ下がった。
 要は母親は私が小学生であることを匂わせて、大金をせしめていたようなのだが、さすがに中学生になって、いつまでも小学生と言い張ることにも限界が出てきたのだろう。だから、男に要求する金額を、少しばかりだが、下げなければならなかったということだと思う。
 私は母親ががっかりするだろうと思っていた。一度辺りに稼げる額が下がってしまったことを考えれば、当然の帰結だろう。
 だが、私の予想に反して、母親は気を落とした様子もないどころか、むしり上機嫌なくらいだった。滅多に渡さない「お小遣い」を私に渡し、夕食に出前の寿司すらとってくれた。
 そうした母親の態度があまりにも不気味で、私はさすがにその理由を尋ねずにはいられなかった。
 すると、母親はこう答えた。
「あんたも、ようやく少し年老いたからだよ」
 そう言って、母親はにたりと笑った。
 このとき、私はようやく気が付いた。
 母親は、若い私に嫉妬していたのだ、と。
 自分が男を満足させられなくなったことで、母はあろうことか娘に対する嫉妬に狂ってしまったのだ。
 ああ、なんて哀れな女なのだろう。
 私はなぜか心底同情した。
 母親のことは確かに、恨み憎んでいる。殺してやりたいとすら考えたこともある。だけど、このとき、私は確かに彼女を本気でかわいそうに思ったのだった。

 いつしか、母親が男を斡旋することは減っていった。だが、相変わらず金銭は要求されるので、私は仕方がなく、自ら男に身体を売るようになった。それでも、以前のように全額を奪われるよりは、ましだ。そんな風に少しだけ喜んでしまう自分が嫌だった。
 義務教育である中学校を卒業するにあたり、私は進路を決めなくてはならなかった。私は迷った。中学を出て、すぐに働くべきなのではないか、と。そうすれば、もう身体を売らずとも金を手に入れることができる。
 けれど、私は高校生というものに憧れを持っていた。大きくなれば自然に高校生になれると思っていた幼いころの自分。そんな自分が私を見つめていた。
 私は母親を説得した。高校に通えるように、と。
 母親は難色をしめした。母親からすれば、娘をさっさと働きに出し、さらに搾取したいと考えていたのだろう。そんな母親に長い目で見れば、高校卒業資格くらいは持っていた方がいい職には就きやすく、高収入も得られやすいと説いた。高校を卒業して以来、様々な男に養ってもらってばかりで、一度も社会に出ていない母親は私の言葉がピンとこないようだったが、私が自分で貯めた金で進学するから宣言したことで、なんとか首を縦に振ったのだった。
 そうして、ようやく私は念願の高校生という立場を手に入れたのだった。

「――っていうわけだよ」
 私は事実だけを淡々と述べた。
 ことりくんは、ずっと黙って私の話に耳を傾けていた。
 私が話し終わってもことりくんは俯いたまま何も言おうとしない。
 さすがに引かれたかな……?
 そんなことを考える。
 いや、でも確かに、いきなりこんな話をされて、まっとうに受け止められる人間の方がおかしいだろう。
 私は小さくため息を吐く。
 仕方がないよ。
 私はそう言おうと思った。
 私には諦め癖がある。何度も何度も絶望し、そのたびに希望を諦めてきた私は、何でもすぐ諦めてしまう。誰かを受け入れることを。誰かに受け入れてもらうことを。
 だから、この話でことりくんが私を見限ったのだというなら、仕方がない。そう思った。そう割り切った。
 そのはずだった。
 だけど――
「あれ……?」
 気が付くと、私の頬は濡れていた。
 びっくりして、私は思わず目元をぬぐう。
 私、泣いてる……?
 ずっと前に枯れ果てたと思っていた涙。
 だけど、今それが目元からあふれてくる。
 ――涙が止まらない。
「あれ……? おかしいな……なんで私泣いてるの……?」
 今までだって、辛いこと、悲しいこと、死にたいと思ったこと、そんなことはいくらでもあった。でも、そんな思いは積み重なるといつしか心を鈍麻させる。やすりで爪を削るみたいに、尖っていたものは無理矢理丸くさせられる。そうして、かりそめの平穏を作り上げてきたのだ。
 なのに、今の私はなぜ……?
 そのときだった。彼は私の頭にそっと手を置いた。そして、小さな子供をあやすような手つきで、そっと私の髪を撫でた。
 男に頭を撫でられることなんて、私にとっては日常茶飯事だ。なぜか男は女が頭を撫でられれば喜ぶと思っているようで、行為の間、隙を見ては、私の頭を粘っこい手つきで執拗に触る。最初は煩わしかったそれも、いつしか慣れ、何も感じなくなっていく。
 だけど、ことりくんが差し出した手は温かくて、大きくて、
「もういいよ……」
 彼はいつになく優しい声でそう言った。
 そのときになって、ようやく気が付く。
 ああ、そうか、私はこの人に嫌われることが怖かったんだ。
 何もかもを諦めてきた私。
 そんな私ですらまだあきらめきれないもの。
 それが、きっとことりくんなんだ。
「もういいから……」
 私は彼の優しい掌に身を委ね、もう一度涙を流した。
 だけど、その涙に込められた想いは、先ほどまでは別のものになっていた。
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登場人物紹介

小鳥遊祐介

真面目な優等生だが、少し斜に構えたところがある。ややプライドが高く、自分の周囲の人間を見下す嫌いがある。

眼鏡をかけている。結衣曰く「眼鏡を取るとイケメン」。


結衣からの呼び方を不服に思っており、事あるごとに呼び名を改めるように言う。

水城結衣

明るい性格で、誰にでも話しかけ、仲良くなるタイプだが、その実、心に闇を抱えている。

援助交際をしている。


祐介のことを「『小鳥遊』って書いて『たかなし』と読むなんて変」という理由で「ことりくん」と呼ぶ。

小林翼

祐介の友人で腐れ縁。

お調子者で軽いが、その実、仲間思いの善人。

鈴谷美鳴

裕介の従妹。裕介のことを「ゆう兄」と呼ぶ元気な少女。

翼のことは幼い頃から知っており「つば兄」と呼ぶ。

学校でも裕介と翼をあだ名で呼ぶので、裕介からはよく窘められるが、直る気配はない。

森中葉月

国語科教師。祐介と結衣の担任。おっとりとした性格。

社会人三年目であり、まだどこか頼りないところがある。

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