小津安二郎:秋日和

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 小津安二郎の映画は題名もストーリーも互いによく似ていると言われます。特に今回の「秋日和」(1960年)についてはそういう感が深いですね。秋という文字の入ったタイトルだけで、「麦秋」(1951年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)とある中で、もっともひねりがないですし、話の内容も未亡人の母親を心配して嫁に行く決心がつかない娘を中心に、亡父の友人3人が母親と娘の両方の縁談を画策した結果、結局は娘は結婚するものの、母親は孤独に残されるという、親子関係を描き続けた戦後の作品の典型的なパターンといった感じです。

 では、この作品がおもしろくない平凡なものなのかと言うと、私はとても好きです。「東京物語」のような緊張感(それは変な連想ですが、スタンリー・キューブリックと似ています)に満ちた作品と違う、名匠の余裕を感じます。

 通常は娘と父親(「東京物語」の場合は嫁と舅)という関係が軸なので、エレクトラ・コンプレックス的な気配が漂うのですが、その点がこの作品では母親と娘なのであまり強い感情は呼ばず、そのためかえってコメディとして機能しやすくなっていると思います。友人役の佐分利信、中村伸郎、北竜二の会話はとてもおもしろく、大人の無邪気な駆け引きといった趣があります。

 特に佐分利信は東大出の丸の内の商社の重役という役柄がぴったりしていて、今はこういう役を演じられるような風格のある人がいないでしょうし、何よりこんな昼間からゆっくりうな重をご馳走したりするような紳士自体が現実にはもういないでしょう。

 とても母親には見えない若い原節子と娘の司葉子が中心の物語というよりは、それを見守る佐分利信の視点から映画が組み立てられているように思えます。それに対して、岡田茉莉子演じる娘の同僚が佐分利の会社にとっちめに来るところから、実家の場末の寿司屋にまんまと引っ張って行くところは、この作品に鮮やかな破調を齎していて何度見てもおもしろいものです。

 岡田茉莉子は初期の小津作品に多く出演した岡田時彦の遺児で、彼女が生まれてまもなく死去したため、フィルムを通して父親に会うことができると語っているそうですが、であればこそ思う存分、ヴェテランの名優たちを相手につけつけ言いたい放題言えて、それでいてどこかユーモアがあって、若々しい魅力を感じさせてくれます。

 戦後の小津作品には多くの食べ物が出てきますが、戦時中に不自由した反動ででもあるかのように大体はカロリーの高いものです。冒頭の法事の場面からビフテキだのトンカツだのの話が出てきますし、先ほどのうなぎ屋で佐分利信は母と娘と別々にご馳走し、母娘はトンカツ屋でビールを飲んで、娘はいったんは断りながら交際を始めた佐田啓二とラーメンを食べています。寿司屋で注文されるものもハマグリだの赤貝だの何やら意味深なものです。



 さて、この作品に限りませんが、非常に似たような何気ない場面が少しずつ変化しながら登場します。例えば司葉子と岡田茉莉子が会社の屋上から、新婚旅行に行く友人を見ようと湘南電車(当時の新婚旅行ってそうだったんですね)を見る場面では、手前に都電が走り、更に手前に中央郵便局の郵便車がたくさん見えます。その場面が何回も登場し、最後には司葉子が乗る湘南電車を岡田茉莉子は渡辺文雄と並んで見送ります。つまり友人の結婚=退社が、司自身に及ぶという時間の経過が変わらない風景によって強調されているのです。

 こうしたテクニックはあちこちに使われていますが、最も強い印象を与えるのは最初と最後の方に出てくる高橋とよがやっている料亭でしょう。法事の後と結婚式の後に清澄橋の優雅なシルエットが出て、料亭の廊下の絵に水の反映がゆらいでいるショットがあって宴席の場面になるのですが、これが時間の経過を表すとともに、法事と結婚式という正反対のものが結びつけられます。

 この額縁のような構造があるからこそ、結尾の原節子の孤独が際立つという効果を挙げています。彼女を訪れた(見舞ったと言ってもいいでしょう)岡田茉莉子の「おばさまが元気そうで安心したわ」という台詞が残酷にさえ響きます。

 蛇足ですが、2年後の遺作「秋刀魚の味」でヒロインを演じる岩下志麻が佐分利信の秘書役で出ています。姿勢がよく気品がありますが、注意していないとわからないでしょう。

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