ユルスナール:東方綺譚”Nouvelles Orientales”

文字数 2,657文字

 マルグリット・ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」は、豪奢な生活とありあまる才知を持ちながらこの世に倦み、過ぎ去った少年との愛を回想するローマ盛期の皇帝を描いた名作です。同じローマ皇帝を主人公にしても我が国の作品とは、その教養と文才において比較になりません。あたかもハドリアヌスのローマ帝国がユリアヌスの時代には無残に衰えていたのと同じように。

 その彼女が源氏物語に取材して、光源氏の晩年を花散里の視点から描いたのが短編集「東方綺譚」の「源氏の君の最後の恋」です。イギリス人がシェークスピアを、ドイツ人がゲーテを誇るのと同じような意味で、紫式部を誇るべき日本人の一人として、先に不満な点を挙げておくと、この作品の主人公は、源氏物語における高貴な生まれながら、控えめで鷹揚な、才気をひけらかさないことで自らの地位を守ってきた、あの花散里ではありません。

「生まれも美しさもとりたててどういうこともない昔の情人で、源氏の他の妻たちに久しく忠実に仕えてきた女房」とされていますから、ほとんど別人、名前だけ借りたものと言った方がいいのかもしれません。ただそれではこの作品は結末からして、たぶん成り立たなくなるのですが。……

 低い身分の出身だということで、大変積極的に行動します。隠棲した源氏に仕えようと、最初は花散里本人として、次は百姓娘、浮舟(!)として、最後は大和の国司の妻、中将として、現われます。源氏が視力を失っていく過程で、そうした変装して側においてもらうことが可能になり、情を受けることもかなうのです。

 源氏は、視力を失うほど老い衰えても色好みは変わらない男として描かれているんですね。花散里は、かなり粗忽な性格で描かれていて、それが源氏のもとに住むまでの紆余曲折というストーリー展開に生かされています。

 ユルスナールは、源氏物語をかなりよく読んでいると思われ、「やわらかい地面にしずかな春雨がふり、黄昏の最後の光を沈めていた。折りしも源氏は墨染の衣を身にまとい、ゆっくりと小径を散歩していた」といった情景描写にも生きていると思われます。

 これと「盲目としのびよる老齢のために曇った、うつろな無表情な顔は、かつて美を映した鉛色の鏡に似ていた」という彼女らしい比喩が違和感なくつながっています。でも、歌を全然読まない源氏なんて。

 臨終の時、源氏は自分の愛した女たちを回想します。葵の上、夕顔、「美しすぎた義理の母と、若すぎた妻の、油断ならぬ想い出」と語られる藤壺と紫の上、空蝉といった具合に、ちょっと要領よすぎるくらい次々と思い出され、百姓娘や浮舟や中将としての自分も挙げられるのに「花散里」は忘れ去られていて、そのことに彼女は絶望し、泣き叫ぶところで話は終わります。

 ただこれに蛇足を付け加えると、「長夜の君、わたしの館とわたしの心のなかで、第三番目の地位に甘んじた、あの優しいひと」という女も源氏は挙げています。訳者は「不詳。こんな人物はいないはず」と簡単に注釈していますが、いくらなんでもそれはないでしょう。

 可能性としては、明石の上や女三の宮、あるいはまさに源氏物語における「花散里」を挙げることができますから(末摘花じゃないかな、さすがに)。フランス語の原文に当たっていないので正確にはわかりませんが、ユルスナールはおそらくこうした女性を念頭に置いていたはずです。

「長夜」がどのようなエピソードを示唆するのか、どの女性でもありえそうですが、三番目の地位が館の中でなら、一番は紫の上、二番は明石の上の娘の女御、三番は花散里だろうと思いますし、心の中でなら、一番は藤壺、二番は紫の上、三番は……私は、はかなく亡くなった夕顔だと思いますが、花散里でも無理はないでしょう。いずれにしても花散里だとしたら、彼女は源氏物語と自分の作品での虚構とを二重に見せているというおもしろいことになるんですが。

 この短編集での白眉は巻頭の「老絵師の行方」で、その奇想と幻想美は同じく中国の芸術家を題材としながら、中島敦の「山月記」を遥かに凌駕するもので、それは最後の一文を引用するだけで十分だと思えます。「水脈はひっそりとした水面に消え、絵師汪佛と弟子玲とは、汪佛が今創り出したばかりのこの蒼い翡翠の海に、永久に姿を消したのであった」

 他の作品のうち琴線に触れたものを紹介すると、「マルコの微笑」は、磔にされても、胸を炭火で焼かれても豪胆に耐えた英雄が少女の踊りには誘惑され、微笑を漏らしたというお話で、「だが、じっさい、『イーリアス』にはアキレウスの微笑が欠けているのですよ」と結ばれます。

「燕の聖母」は、「人間がまだ存在せず、大地が樹々と動物と神々しか生まなかった頃の、若かりし日の世界を夢みながら眠っている」ニンフたちが偏狭な修道士によって追い詰められ、餓死しようとするのを聖母が助けるというお話です。

「寡婦アフロディシア」は、司祭の妻であった主人公が粗野で乱暴者の「自由な空気と、掠めてきた食物の味わい好む」コスティスに嵐の夜の稲妻のように惚れてしまい、黄色いスカートをはいて遭いに行き、「それを掛けぶとん代わりに用いたが、まるで一枚の太陽の下で寝たみたいだった」という情事を繰り返すお話です。村人の憎しみをかったコスティスが惨殺されると、彼女は後を追うことになりますが、その狂おしいまでの愛情と粗野な情欲を優雅で繊細な筆によって描くさまは、プロスペル・メリメの名作「マテオ・ファルコネ」を想起させます。

「斬首されたカーリ女神」は、かつてインドラの天空の玉座にあり、朝のダイアモンドたちが彼女の視線に逢ってきらめき、宇宙が彼女の心臓の鼓動にあわせて収縮しまた膨張したほどのカーリが嫉妬深い神々によって斬首され、あの世で娼婦の胴体にすげられて戻ってきたというお話です。

 賤民や罪人にまで身を委ね、陰気な歓楽を求めてさまようカーリは、涙を流し続け、顔は穢れのない月のように、永遠に蒼ざめています。この神聖でありながら汚辱にまみれた女神は、最後に賢者に出会い、すべてが無に解消する予感を覚えます。賢者は言います。「欲望はそなたに欲望のはかなさを教えた。悔恨はそなたに悔いることのむなしさを教えた」……「激情よ、そなたは必ずしも不死ではないのだ」と。

 典雅な形式美と優れた抽象思考によって、野卑で残酷なお話が高貴な悲劇となるという、フランス文芸(彼女はベルギー人のようですが)の醍醐味をユルスナールは存分に味わせてくれます。
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