ドビュッシー:ペレアスとメリザンド

文字数 2,257文字

 この作品は、ドビュッシーの最高傑作だと思います。あの音そのものが幻想を紡ぎだすような「牧神の午後への前奏曲」よりも、ニュアンスだけでできたようなピアノ音楽の一つの極致と感じられる「前奏曲集」よりも、ましてや音画的な「海」なんかよりも。……最初に聴いたとき、ストーリーも歌詞もなんにも知りませんでしたが、まるで水の中に入っていくような透明な音楽だと思ったものです。

 完成されたオペラとしてはこの作品が唯一のものです。「ロドリーグとシメーヌ」という未完成のオペラがあって、リチャード・ランハム・スミスが補筆し、エディソン・デニソフがオーケストレーションを行ったものをケント・ナガノの指揮で聴きましたが、ドビュッシー以前のドビュッシーと言うべきものだと思いました。

 そのCDの解説にも書かれていますが、ヴァーグナーの影響からの離脱が若きドビュッシーにとって最大のテーマであったようで、それはこの「ペレアスとメリザンド」においてもなお格闘が続いていることが窺えます。

 何をもってヴァーグナー的と言うかは人によって様々でしょうが、象徴的であまり事件が起こらない舞台、内面の葛藤を重視した音楽といったように、ドラマティックなイタリア・オペラ(特にヴェリズモ・オペラ)との相違点で考えるのがわかりやすいでしょう。

 だとすれば、ヴァーグナーとドビュッシーのこの作品は、全く異質なものとは言えず、「トリスタンとイゾルデ」や「パルジファル」のような後期の作品に近いようにすら思えるでしょう(それは「カルメン」を想起すれば明らかです)。

 さらに、レチタティーヴォとアリアでつないでいく19世紀までのオペラと全く違い、Sprachstimmeに近いような歌とも語りともつかない、しかしシェーンベルクにはない感覚的な美しさを十分にもったこの作品での歌唱は、過渡期のみに許される、相背反するものの奇跡的な共存だと感じられます。



 わたしは、ブーレーズ指揮、アリスン・ハーグレーのメリザンド、ニール・アーチャのペレアス、ドナルド・マクスウェルのゴローのDVDでこれを見て、最初の一音からまぎれもないドビュッシーのオペラの世界に酔い痴れました。メリザンドは、遠いどことも知れないところから、ただ「何人もの男から悪さをされた」女として神秘的な森の中の泉の畔に登場します。

 既にして象徴詩的な世界におけるセクシャルな物語というこの作品の性格がはっきりと現われるとともに、メリザンドを中心としてこのオペラ全体が意図的に曖昧(ambiguous、多義的)にされた、謎に包まれている――そして、それを音で表現するのに最適なのがドビュッシーの音楽です――ことが様々に強調されます。

 泉に落ちた王冠、暗い城、霧の海を行く難破を予言された帆船、盲目の泉、月明かりの洞窟とサンボリスム好みの情景が次々と登場し、観客にはメリザンドが無邪気(でも、それは残酷でもあるのです)であるがゆえに男を悲劇的な運命に導く”femme fatale”であることが印象づけられていきます。それを引き立てるのが世の常識や通常の感情を体現したゴローで、この作品を彼の悲劇として解釈することもできるでしょう。
 
 このオペラで最も有名で、かつ官能的な場面は、塔の中に夫となったゴローによって、半ば幽閉されたメリザンドが義弟のペレアスによって愛を訴えられる第3幕第1場の「髪の場」でしょう。

 塔から長く落ちてくるメリザンドの髪の毛は、言葉とは裏腹に彼女の肢体と本心を露わにしています。ペレアスがもう離さないとばかりに髪の毛を柳の枝に結びつけると、彼女の鳩は飛び立ち、暗闇に迷って戻らないのです。彼女の貞節がそうであるように。そのためにゆっくりと破滅に向かう二人の運命がそうであるように。

 そこに現われたゴローは「こんなところで何をしている?」と二人に問いかけながら、答えも待たずに「そんな子どもみたいな遊びはやめなさい」と言ってペレアスとともに去ります。知らない方が賢明な妻の不倫を見た男が常にそう言うように。……

 しかし、結局のところ不安が払拭できないゴローは息子のイニョルドから二人の様子を聞こうとします。この第3幕第4場でボーイ・ソプラノが繰り返す”ma pere……”という歌声はとても印象的ですが、ゴローが聞きたいのは要はキスしたかどうかといった即物的な事実であり、そのためか息子から「お髭も髪も真っ白だ」と言われます。

 その後で、こともあろうにイニョルドを抱き上げて、メリザンドの部屋を覗かせ、妻と弟が不倫していないかを見させます。「ベッドにいるのか?」とここでも即物的な質問を投げかける父。息子は、「ただ二人で離れて壁に寄り添い、身じろぎもせず、一言も言わず立ったまま明かりを見つめているだけ」と答え、不安に戦きます。

 ゴローはその「子どもみたいな振る舞い」に取りあえず安心するのですが、これはもちろん二人のただならぬ関係、互いに魂を覗き込んでいることを示したものに他ならないでしょう。ゴローは、二人はおろか、息子ほどもものが見えていないのです。

 ゴローの嫉妬はペレアスよりもメリザンドに向かい、長い髪をつかんで引きずり回したりしたあげく、メリザンドは女の子を出産した直後に死んでしまいます。その直前、諦念に満ちた盲目の老王アルケルからゴローは「近づいてはいかん。彼女の心を乱してはいかん。ものを言ってはならん。お前には魂というものがわかっていない」と言われてしまうのです。……

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み