P.K.ディック:アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

文字数 2,261文字

 この小説は、映画「ブレード・ランナー」の原作です。映画化って言うと、内館牧子さんだったと思いますが、小説の最初の1行からシナリオに書いていくように思っていたという愉快なエピソードを思い出します。

 原作のどこをどう生かすか、そのために多くの部分をカットしなければならないのが映画化のむずかしいところで、原作のファンに気に入られるのは、まあ無理でしょう。その逆の映画を原作としたノヴェライゼーションは大抵が小説になっていない、まあ関連本、便乗本に過ぎないのですが(例外としてわたしが今、思い出せるのはアシモフの「2001年宇宙の旅」だけです)。

 映画と小説は別のものと考えておく方が無難で、この映画も文句を言い出すとキリがないですが、ワカモトのCMで着物を着た女が大写しになるといった奇妙なエキゾチズムと雨がびしゃびしゃ降っている頽廃的な感じは原作にないお手柄だと思います。原作のコンセプト(これは最後に言います)もちゃんと入っていますし。

 いずれにしても私の見るところ、小説も映画も後世に与えた直接、間接の影響は極めて大きいものがあると思います。あ、ここパクってるなぁってことがけっこうありますから。名作へのオマージュと思えばいいんですが。

 P.K.ディックの作品の中では、この小説は大変わかりやすいですし、賞金稼ぎの話ということなどに見られるように、通俗的に書いたんだろうと思います。彼が本気で自分の世界観みたいなのを前面に出すと、何が何だか、ちょっとついて行けないところがあります。だからと言って、内容的には彼の基本的な問題意識が極めて鮮明に出ていると思います。

 すなわち、我々はどのような意味で人間なのか、ということです。それが感情移入度をテストするフォークト=カンプフ検査器具を使って、人間かアンドロイドかを判定するというモチーフになるわけです。簡単に言ってしまえば、「思いやり」のない者は人間ではなく、アンドロイドという物体に過ぎず、「破壊」してかまわないということです。

 ヒロインのレイチェルについてはここでは触れません。実際に読んでいただいて感想を持っていただいた方がいいように思うからです。そこで、ルーバ・ラフトというオペラ歌手として、「魔笛」のパミーナを歌う場面で登場するアンドロイドを紹介しましょう。

 彼女の歌は、主人公のアンドロイド・ハンターのリック・デッカードから「シュワルツコップよりもすばらしい」とさえ言われるほどのものです。いったんは巧みにリックの検査を逃れます。そのやり取りはリックの意表を突きながら、28歳という設定よりもずっと愛らしいものです。

 彼を逆に変質者と決めつけ、警察に引き渡し、逮捕されるように仕向けてしまいます。連れて行かれた見慣れない警察署がアンドロイドによってこしらえられた偽物であることを察知したリックは、同じ賞金稼ぎではあるものの、ずっと冷酷なフィル・レッシュと協力して、何とかそこを逃れます。

 二人は美術館で「両手を堅く組み合わせた若い娘が、寝台のはしに座って、うろたえた驚きと、新しく探りあてた畏れの表情をうかべている」絵の前にたたずむラフトを捕えます。そこでアンドロイドであることがバレてしまい、抹殺されることを知って、観念したラフトはリックにその絵、ムンクの「思春期」の複製をねだります。

 高い画集を買ってやったリックに「あなたってとてもやさしい。人間たちには、とても奇妙でいじらしいなにかがあるのね。……わたしはアンドロイドが大嫌い。火星からこっちへやってきてずっと、わたしの生活は人間をそっくり真似ることにつきていたわ」とラフトは言います。

 レッシュによってレーザー光線で打たれた彼女は、ムンクの「叫び」と同じような悲鳴を挙げながら殺されてしまいます。リックはすぐに画集を焼きます。彼は本来、感情移入などするはずのないアンドロイドに感情移入してしまい、逆にアンドロイドではないかと疑い、彼女を躊躇なく殺したがゆえに憎んでいたレッシュが人間であることが証明されたことを受け入れがたく感じます。

「本能的に、彼は自分のほうが正しいと感じた。……ルーバ・ラフトは、まぎれもない生き物に思えたのだ」と。

 このラフトとレッシュに対する感情の逆転がムンクの絵画という芸術を契機に生じていることは、この作品の白眉だと思いますし、その後の部分はこの主題のヴァリエーションのように感じられます。ディックの作品には、現実が贋物であるとか、時間が逆転するといったものが多く登場します。

 それと先程申し上げた、人間とは一体どういう意味で人間なのかという問題意識を重ねあわせれば、手ずれのした言葉で恐縮ですが、「存在への不安」ということになるように思います。しかし、これが現代小説にとって極めて重要な問題であることは間違いないでしょう。そういう意味で私はディックは音楽で言えばショスタコーヴィッチのような存在かなと思っています。つまり、技法的には19世紀以前のレアリスムの手法であっても(つまり「調性」があっても)アクチュアリティにおいてこれだけのものはあまりないように思うのです。我々にとって痛い問題、切実な問題だからこそ、芸術家は正面からしつこく取り組むのでしょう。

 さて、この小説にも、映画にも共通するコンセプトとは何でしょうか? 私は作品自体が感情移入度テストであって、我々がどこまで人間なのかを試験しているように感じました。みなさんはラフトをいじらしいと思いませんか?……

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