ささくれ続ける

文字数 1,499文字

思い返すとそれは、分娩後の処理中から始まっていたのかもしれない。赤ちゃんを取り上げた医師が、股の間でゴソゴソやっていたあのとき。
何を考えたのか夫が割り込み、スマホで私のマ◯コとツーショット写真を取り始めたのだ。とても良い笑顔でピースサインをしながら。
いやそれ違うだろ、出口撮ってどうすんだよ!
出産直後のマ◯コはアヘ顔しねーんだよ、つかマ◯コがアヘ顔って何だよ!
撮るならお前の子供とだろ、もしくは頑張った私とだろ!
医師も気を使って横にハケてんじゃねーよ!
――などと思ったが、体力を消耗していたので口に出す気力もなかった。体調が良かったとしても口には出さなかったと思うが。

夫は優しく明るい性格だが、少しわがままで自分の好きなこと以外にはあまり目を向けないところがある。仕事や旅行の計画には熱心だが、家事も育児も私に任せっきりで、その上、あれしてくれこれしてくれと度々言ってくる。
対して私は引っ込み思案で感情を表に出すのが下手くそな質だ。いつも自分の気持ちを抑え込んでストレスを溜めてしまう。学生の頃も仕事をしていた時も、話し合いの場では意見を言えず、結果的に全てを流れに任せる傾向があった。

それから季節が一度巡り、家族三人で紅葉を見に日光市へと出かける話になった。日帰りは嫌だと夫が言うので旅館に一泊二日の予約を入れ、荷物の準備をし、当日は育児をしながら洗濯と朝食の用意をしつつ呑気に寝ている夫を起こす。一人ドタバタ劇をやっている気分だったが、それ以外は何事もなく車に乗り込み出発とあいなった。

旅館に荷物を預けた私達は、おすすめ紅葉スポットを目指して歩いていた。
そんなとき、ふと目に止まったのが『秒速5センチタートル 聖地巡礼』と書かれた立て看板。
これは悠木柚敏監督が手掛けた劇場用アニメで、栃木県出身のメス亀『花子』を軸にして青春真っ只中にいる亀ギャルたちの亀模様を三本の短編で描いた作品だ。亀社会の裏事情を暴いた問題作で、公開から数年経った今でもこの映画のファンは多い。かくいう私も隠れファンの一人だった。
えっと…この下の崖…か?ら?…
新しい看板ではないのか文字の掠れが酷い。
おい、どうしたんだ
あっ、ちょっと待って。この看板を読みた――
そんなのどうでもいいだろ、ほら急ぐぞ
えっ、でも、看板が――
夫はプリプリ怒って「さっさと来い!」と吐き捨て歩き出してしまった。

少しくらい立ち止まってくれてもいいじゃない。
これって旅行だよね、急ぐことなんて無いじゃない。
私が家事や育児に追われていてもテレビを見てるクセに。
自分はしたいことをしてるクセに。
私には文字を読むことも許してくれないの?
普段は休日なんて昼まで寝てるクセに。
私には休日なんて無いのに――

口論をして機嫌を損ねるのが怖かったし、雰囲気が悪くなるのも嫌だったのですぐにその後を追った。
でも心のなかではモヤモヤが募って行く。

その日の夜、久しぶりの旅行でいつもよりアルコールが入っていたのか、子供を寝かしつけているのに夫が体を求めてきた。疲れを理由に最初は拒んだが、抗いきれずに結局は許してしまった。
行為中はずっと嫌な気持ちだったので満足に演技もできなかったが、そんなの関係ないとばかり、身勝手に動いて勝手に果ててしまった彼。

熱を子宮で感じる度、私の中で何かが冷えて行った。
暗がりでひとり、後処理をしていると虚脱感に襲われる。
彼の寝息を聞く度、私の中の闇が頭をもたげる。

きっとそのうち、私の心は乾燥して何も感じなくなるに違いない。
でも、まだ見ぬ潤いが手に届くところにあり、嘘でも優しく包んでくれる夢を見続ける。


だって私は、死んでいるわけじゃないのだから。

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