第21話

文字数 2,678文字

ラウンド3 エピドード8

 あと三日で試合当日。輝一のウェイト調整は順調で、ナチュラルでフェザー級リミットの六十六キロだ。この一週間と輝一の練習にはスパーリングパートナーとして勝村だけではなく、ジョー之輔が参加している。今、輝一はヘッドギアをつけてジョー之輔と打撃のスパーリングの最中。
 輝一は、リーチ差のあるジョー之輔のパンチやキックを華麗に躱している。エドガーがスパーリングを見て、関節技に入れる方法と技の種類を伝える。ジョー之輔が、輝一のタックルで寝かせられる。輝一は、素早くジョー之輔の上半身に軟体動物のように移動して腕十字を取る形になる。ジョー之輔が、輝一の脚をタップ(参った)して立ち上がる。
 手を叩きながら勝村が「形はできたな」と、輝一の肩をたたく。
 輝一は、打撃の攻防で引かずに戦い、タックルで相手を寝かして寝技の攻防をする練習と、逆に自ら後ろに転がって、寝技に引き込む練習を繰り返している。
「相手は寝技を徹底的に嫌うから、鼻っから引き込もうとせずに打ち合いで殺っちまうか、攻防のなかでタックル決めるか小外刈りで倒すか。でも相手は腰が強いからなあ」
 勝村が、顔を引きしめてベンチに座り、無表情で稽古を見ている刑事長に聞いてみた。
「極め技は、何がいいでしょうか」
「そうだな。最近の総合格闘技であまり使用されない技がいいな。壊れてもいいんだろ?近代MMAは?」
 刑事長は顔をニヤつかせている。勝村が苦笑いを浮かべて、まあ結果的にそうなるのであればと頷いている。
「たまには恐い試合をやらねえと、しまらねえ大会になっちまう。観客なんざぁ何も知らねえ僕ちゃんやお嬢ちゃんだろ?」
 横に座って宮本武蔵の五輪書を読んでいたエドガーが、本を閉じると顔をあげた。
「格闘技は、ひとつ間違うと残酷ショーになります。でも最近は、残酷ショーが少ない」
 無表情で、恐いことをさらりと言う。
「五輪もあることだし、さっさと終わらせましょう」とエドガーが、刑事長を見た。
 刑事長は、黙って深く頷いた。

 ゴールデンウィーク初日とあってか、国立代々木競技場第一体育館に向かって、たくさんの人が行列を作っていた。列に並ぶひとたちは、本日行われる格闘技イベント、ファイティングが目当てである。メインカードは大きなプロレスラージョー之輔をワンパンチで、ノックアウトした張本と、美味しいマンとのカード。大柄なジョー之輔をパンチ一発で仕留めた張本の動画は、瞬く間にネット上に広がり話題を集めていた。そして、美味しいマンが心配そうにジョー之輔を抱きかかえている姿が、ひとつのアングルを生み、総合格闘技ファンだけでなくプロレスファンまで集客を巻き込んだ。しかし人気ユーチューバーでもある張本の集客力が大きく勝っていた。
「いやあ、当日じゃなく前日計量だと楽だね。今日はしっかり食べたぜ」
 着替え終わった輝一は、控室の椅子に座りスポーツドリンクをひと口飲んだ。
「朝は鯵の干物と、納豆。昼は親父が作ったすき焼き定食」とご機嫌な顔で、差し入れのお菓子をつまんでいる。
「エドガー、おれの試合は何時から?」
「夜の七時過ぎです」
 輝一と違って、エドガーの表情は引きしまっている。恐い顔をしていると、言ってもいい。張本の通常体重は八十キロ近くあるという、それを試合前日に向けて六十六キログラムアンダーに絞ってくる。急激に落とせば、当日の体重は大きくリカバリー(回復)できる。当日の体重はどのぐらいあるのだろうとエドガーは気を揉んでいるのだ。
 呑気な顔をしてポテトチプスをつまみスポーツドリンクで流し込む輝一に、エドガーが苦々しい視線を送るが輝一は気づかない。モニターに映るファイティングの試合に輝一の目は釘づけた。
 張本の控室に挨拶に行ってきた勝村が、戻ってきて控室のドアを開けた。明けた途端、エドガーに「思った通りだ」と言った。
「何キロぐらい戻した様子でした?」
 余裕で七十キログラムは上回っているな、と勝村は苦々しい顔をした。ふたりは、呑気にモニターでファイティングの中継を見ている輝一の背中を見た。
「あいつ、今日の体重は計ったのかな」
「きっと、計ってません」
 一応聞いてみるか、と勝村が苦笑い浮かべて輝一の肩をたたいた。
 勝村をふり返る輝一の顔は笑顔だ。この男、緊張とかしないのか?エドガーはすこし腹が立った。
「昨日の計量から何キロもどしたの?」笑顔の輝一に勝村は聞いてみた。
「いやあ、計ってないっす」とまだ笑顔のままだ。何が楽しいんだ。
「一応、計ってみよう」と勝村が控室の隅に置かれた体重計を持ってきた。
 輝一は、ガウンを脱ぎシューズをはいたまま体重計に乗った。ガウンを脱いだ上半身には無駄な肉はついてなく。引き締まっている。大きな肩の筋肉が盛り上がり、腹筋が割れて、足の筋肉が異常に発達している。
 勝村とエドガーが体重計の針をのぞき込んだ。体重計の針は六十九キログラムジャストを示していた。
 立ったままで輝一は、何キロになってる?とふたりに聞いた。
「六十九ジャスト」とふたりは力なく声をそろえた。
「相手選手は、察するに八十キロ近くぐらいまで戻しているかも」勝村が、小さく言った。
「ほかにも何か入れている可能性がある。興奮剤のような物も」エドガーは勝村に囁いた。
「じゃあ、すぐにボクシングのミドル級に戻せるな」と輝一は無邪気に言って、体重計から降りて、モニターを見る。
「ぜんぜん、ドライブ(攻防・展開)しない試合だなあ。高い金払って観に来るほどのもんでもないだろ」
 モニターに映るリング上では、相手が懸命になってリングのロープに密着している。引き離して寝技に移行したい選手が、相手をロープから引き離そうとしている。そして、試合終了を告げるゴングが鳴った。
 エドガーも同意見だった。こんな試合に高い金を払いたくない。
「そろそろ行こうか」とリラックスした勝村の大きな声が控室にひびいた。控室のドアが開き、ジョー之輔が「時間でやんす。みなさん」と緊張した面持ちで言った。
 勝村は、美味しいマンのマスクを持って嬉しそうに笑っている。
 輝一が、笑顔で振り返り、「よろしくお願いします」と頭を下げた後、エドガーとハイタッチを交わした。自然とエドガーの表情がやわらいだ。いつもの輝くんだ―
 変―ん身っ、と輝一は美味しいマンのマスクを被って、ヒーロー見参とポーズを取った。行くぞ!美味しいマンとエドガーと勝村が活きのいい声をそろえた。カッチョイー!とジョー之輔のゴリラ顔が破顔する。


*次回は、2月23日に更新予定です。
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