第27話

文字数 2,452文字

最終ラウンド エピソード 5

 それから、毎日。仕込みの手伝いが終わると、輝一は病院へと足を運んだ。そして店の様子と、兄の仕事ぶりを父親に報告した。
そしてある日、父の病室に喜多来寿司の親方が見舞いにきた。しばらくふたりは談笑していたが、ベッド上の父親に今まで通りジムに行ってボクシングの稽古しろと、輝一は追い出された。
ジムで汗を流したはいいが、何の練習をしたのかも曖昧なまま、輝一は夜十時にジムを出た。
帰り道。偶然商店街の入り口で、大きなリユックをしょったエドガーに会った。エドガーは、最近になり予備校に通いはじめて輝一と会う機会が減った。
「お帰り」
 同時に同じことを言ったふたりは、顔を見合わせて笑った。
「おまえでも予備校なんて行くんだな」
 母さんが、心配症でと頭をかく。
「なんか。懐かしいよな美味しいマンやってた頃が。少し前のことなのに」
 エドガーは笑って頷き、夜空を見上げた。ふたりで、静かになった商店街のメインストリートを歩く。黙っていたエドガーが口を開いた。
「この街で、美味しいマンが輝くんだということを知っているのは、輝くんのお父様と刑事長。あと数名の商店街の組合員の方々だけだよ」
 エドガーは微笑んで夜空を見上げて、「あっヘルクレス座だ。夏が近いよ」と言った。喜多来寿司の親方とお凛ちゃんを思い浮かべたが黙っていた。
「えっヘラクレスだろ?」
 ふふっと笑ってから、「正解だよ。ただし一般的な英語読みではね。星座の名前はラテン語表記だからヘルクレスなの」とエドガーは夜空を見上げたまま言った。
「ヘラだのヘルだのどっちでもいいや。おめえ何がいい?」
 輝一は自動販売機の前で立ち止まり、飲み物買おうと財布を開けている。「疲れた。そこのベンチで飲もうぜ」
 また自分のペースだ。エドガーは苦笑いを浮かべて、「じゃあ。スポーツ飲料で」と応える。
 輝一はスポーツドリンクのボタンを押すと、躊躇することなく自分の缶ビールのボタンを押した。ガチャンと、無人の商店街通りに音が響く。
「入院が長引きそうなんだ」
 そしてベンチに足を組んで座り、輝一は夜空を見上げながらボソッと輝一が言った。
「知らなかった。あんなに巧くなってたなんて」
 輝くんのお父さんが入院したのは知っている。だが主語のない輝くんの話は、分らなくなることが昔から多い。そういう時はたいてい少し混乱しているか、少し感情的になっている。
「まず最初の話に質問があるんだけど。お父様は圧迫骨折ですよね。入院が長引く理由を教えてくれない?」とエドガーが、スポーツドリンクのキャップを開けた。
「んっ?」と輝一が、目を丸くしてエドガーを見た。
「腰椎の圧迫骨折と伺っています。お父様の年齢であれば治療にさほど時間はかからないはず。入院が長引くことに何か理由は聞いてないの?」
 目を丸くしたまま、輝一は「いや・・特に何も」と言った。
「ふたつ目の質問。誰が、何を巧くなってたの。それで輝くんはどう思うの?」
 そう言って、少しめんどくさそうな顔をしてエドガーは、スポーツドリングをひと口飲んだ。
「ああ。兄貴だよ」、と少し悔し気な顔をして、輝一はベンチの背もたれに身体をもたせかけ、缶ビールのプルットップを開けてひと口飲んだ。
「親父が入院したから、食堂手伝う機会が増えたんだけどさ。兄貴があまりにも上手に魚を捌きやがる」言って鼻からふんと息をはく。
「で。輝くんはどう思うの?」
「・・なんかムカつく」口を尖らせる。
 なんて、分りやすい人なんだ。なんて単純な人なんだ。ボクサーってみんなこういう性格の人なんだろうか。小さいときにボクシング漫画を読む機会が少しあったけど、主人公の先輩ボクサーが輝くんみたいな人だった。世界チャンピオンではあるが・・。
「昔は料理なんて、てんでダメだったんたぜ?それがいつの間に・・」
 眉間に皴が寄っている。
「魚捌くのは、おれのほうが巧かったんだ。兄貴なんてガキの頃は、包丁さえ握らなかった」鼻をふん、と鳴らす。
「お兄さんは、ボクシングも出来ないし。プロレスもできない。ましてや美味しいマンにもなれないよ」
 これで、少しは満足ですか。輝くんの自尊心は。
輝くんのネクストは輝くんだけのものでしょ。
「まあな。オレにしかできないな」
 すこし表情を緩めて、足を組んで旨そうに缶ビールをひと口飲む。
もういいだろう。話しても・・・・いい機会だ。エドガーは、顔を引きしめて前を見据えた。
「ぼく。来年、イギリスに留学するんだ」
 輝一は背もたれから身を起こして、エドガーの顔をのぞき込んだ。
「生物学を学ぶんだ。徹底的にね。遺伝子学や免疫学の知識を深めて、それを日本に逆輸入するのが目的。これから少子高齢化がますます進むよね。だから沿岸部や内陸でも、魚を養殖できたらいいなって。日本人が好きな魚を残す。それが目的」
 だから、今までのように一緒に遊ぶ時間は少なくなるけど、輝くんは輝くんで五輪出場目指して頑張ってねと。
「あと。ぼく一型糖尿病なの。みんなが知っている糖尿病は二型ね。一型は根治治療できないんだ。だからずっとインスリン注射と仲良くしなきゃならない。小さい頃から、父さんと母さんに助けられて育ったけど、もういい加減に自立しなきゃいけないと思うの。だから、来年は家を出て一人でイギリスで頑張るんだ」
 清々しい表情でまっすぐ前を見据えている。輝一の目は点となり、瞬きを忘れている。
「いっぱい頭つかわせちゃったね」、エドガーは立ち上がり輝一に微笑みかけた。
「でも、ぼく美味しいマンを思い浮かべれば頑張れる。美味しいマンと一緒に生きた日々があるから頑張れる」
 そう言い置いて、エドガーは「輝くん、ご馳走様。帰るね」とペットボトルをかかげて微笑むと、輝一を残して行ってしまった。
 輝一は、目をぱちくりさせて缶ビールを飲む手も止まったまま、一点を見つめていた。土町商店街の街灯が白々しく輝一を照らしていた。


(ご愛読、ありがとうございます。次回の更新は3月15日金曜日です。)
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