第31話

文字数 1,275文字

 最終ラウンド  エピソード9

 夏が始まり、寿一はホスピスへの転院が決った。夏まっさかりの七月中旬だ。料理の仕込みを終えた孝一は、いつも通りに病室へと母親と足を運んだ。
 寿一は、窓から外を眺めていた。気の早い向日葵が咲き、太陽の燦燦とした光を浴びている。
「親父、おはよう。今日の、仕込みはしっかり終えたよ。どうだい調子は?」
「ああ。いいぞ。食堂の立ち仕事はまだ無理だがな」
 いつも通りの父親だ。まだ食堂に立つ気でいる。自分の病状の告知は受けているし、ホスピスがどんなところなのかもわかっているのに。
「輝一は元気か。最近、顔を見せねえ」
 洗濯物を整理している昌子が、寿一に笑顔を向けた。
「元気よ。なんだか忙しいみたい。そのうち顔を出すでしょう」と寿一の下着を病室のクローゼットにしまった。
「夏が始まるしな。あのバカ野郎は、夏になると元気が増しやがる」と寿一が顔を緩ませる。
 寿一は昨日のことを思い出していた。美味しいマンの、総合格闘技の試合が決ったことを刑事長が報告に来た。可能であれば、一緒に観に行こうと。
「外出できるかなあ」
 昌子が眉間に皴を寄せた。孝一が、苦い顔で父親の顔を見る。
「ちょっとだけなんだけどなあ」と窓の外の向日葵に目を向ける。
「どこか行きたいところでもあるの?」昌子がベッドに手をついて、夫の顔をのぞき込む。
 寿一はこくりと頷いた。
「どこ?」
「東京ドーム」
 ふたりは、顔を見合わせた。
寿一は、窓の外の向日葵に目を向けて口を開いた。
「この際だから、言っちまうけどよう。いや、いつかは説明しようとは思ってたんだ。もう辞めると思っていたから」
 このふたりは美味しいマンが、輝一であることを知らない。
「ごめん。親父、言ってる意味がまったくわかんねえ」
 寿一は、長男の顔をふり返った。そして平板な声で言った。
「土町商店街のさ。プロレス興行の目玉である、美味しいマンの正体は実は輝一なんだ。その美味しいマンの試合が東京ドームである」
 ふたりは言葉を失った。ただ黙って寿一を見ているだけだ。
「無理もねえか。ふたりともプロレスなんか興味ねえもんなあ」
新土町プロレスの試合会場に足を運んでいたのは、組合会長の寿一だけだ。
「商店街のイベンドだけでなく。プロ格闘技の試合にも出るようになってやんの。バカ野郎だろ?」と嬉しそうに、苦笑いを浮かべる。
 昌子は、新土町プロレスのポスターだけ見たことがある。アンパンマンによく似たマスクを被った男が映っていた。なんとなく輝一の面影が見て取れたが、さりとて気にも留めていなかった。
 ふたりの目は点となり、寿一の次の言葉を待つしかない。
「あいつが、美味しいマンの正体なんだ。次の試合は土町商店街のプロレスでもなくボクシングでもない、総合格闘技なんだ。刑事長に車椅子おしてもらって行こようかと思ってんだ。江戸一の様子も見てから」
 ふたりには、寿一が余命いくばくかの病人には見えなかった。寿一の目は活き活きと輝いていたから。


(更新がこちらの手違いで遅れてしまい、誠に申し訳ありません。次回の更新は3月29日金曜日です。)
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