第20話

文字数 2,676文字

ラウンド3   エピソード7  

 喜多来寿司のカウンターには輝一とエドガーが並んで座っていた。喜多来寿司に初めてくるエドガーは、緊張した顔で、何を頼もうかと思案している。今日は、エドガーの進級祝いのため輝一がご馳走することになっている。
「勘定は気にするこたあねえ。なんかしらねえが美味しいマンのおかげでここんところ羽振りがいいんだ」
 ジョー之輔との試合以降、輝一の収入額が上がった。欲しいものが、とくにない輝一は喜多来寿司に握り寿司をつまみに来ることぐらいが贅沢であった。
「それによう。もうそろそろ減量しなきゃならねえだろ」
 輝一のアマチュアボクシングの適正階級はミドル級(75キログラム以下、69キログラム超)である。輝一の通常体重は76キロ前後である。身長は百八十三センチメートル。
「総合格闘技のフェザーは69キログラムアンダー。減量のとき水抜きとかしないの?」
「しないしない。ナチュラル(通常体重)で69キロを作るよ」
 あまり脂肪がつかない体質らしい。同時に筋肉も。小さいころから走ることが習慣になっているからかもしれないと輝一は言った。
「贅沢せずしっかり練習してれば、通常体重が適正階級になる」
 エドガーは、ときどきこういうことを当たり前の顔をして言う輝一が好きだ。
「じゃあ。今夜はお腹いっぱいに食べる?」
「もちろんだ!遠慮せずどんどん注文しておくんなせえ」
 珍しく親方は笑顔を浮かべて、エドガーを見ている。
「輝一。ふたりともおまかせでいいな?」
「お願いします。今夜はこいつの誕生日会ですので、どんどん握っておくんなせえ」と輝一は顔をほころばせる。
 はい、おまたせえとお凛が、瓶ビールとコーラをお盆で運んできた。お凛にコーラをついでもらうエドガーの頬が赤くなっている。
「まあ、可愛い。制服姿だけど、高校何年生?」コーラの瓶をカウンターに置くと、お凛はエドガーに微笑みかけた。エドガーの頬がさらに赤くなる。お凛が、輝一のグラスにビールを注ぎながら「頭良さそうな子ね」と聞いている。
 エドガーが、肩を縮こまらせて「三年生になりました」と小さく言う。
「あら。あたしと同級生!」お凛の顔が、ますます解ける。
「こいつ頭がいいんだ。つーか天才だな。なんでもかんでも知っている。小さい頃からの付き合いだけど、お前はなんでそんなにいろんなこと知ってんだ?」
 エドガーは頬を紅く染めて黙っている。
「きっと本をたくさん読むんでしょう。そして内容を忘れない」
 お凛が、目を輝かせてエドガーの顔をのぞき込む。
 エドガーが赤い顔のまま申し訳なさそうに、肩をすぼめている。「ええ、まあ読みます」
「ああ、そうか。こいつは昔からいつも本を読んでる。本を読むと頭よくなるのか?」と輝一が、グラスのビールをひと息に飲み干す。
「きっと忘れないのよ。あたしなんて印象が薄かったら、読んだらすぐに忘れちゃう」
 笹の葉の上に、初鰹の握り鮨が親方の手で綺麗におかれた。笹の葉の瑞々しい緑色と、初鰹のほんのりと明るい赤身が夏の予感を醸しだす。それを見たエドガーの顔が、明るく輝いた。「・・なんて綺麗なんだ」
「土佐で上がった初鰹です」とお凛は手のひらでそれを指し示すと、小さく礼をしてその場を辞した。「ごゆっくり」
 横をみると輝一がすでに口にそれをほうり込んでいる。そしてなんか嬉しそうに、体をくねらせている。この人、なんでこんなに幸せそうに食べるんだ。
 エドガーも輝一の真似をして、握りを丸ごと口の中にほうりこんだ。優しい食感と、さわやかな鰹の味が口に広がる。ぴりりとする和がらしが、アクセントとなりいつまでも爽やかさが口の中に残る。
 だまって体をくねらせて食べるふたりを、鮨を握りながら嬉しそうな顔で、親方が盗み見ている。そして「次は桜鯛だ」と言って桜鯛の握りを笹の葉に置く。
 ありがとうございます、と輝一がビールを飲み干して桜鯛に手をのばす。
「最近の奴らは、良い塩梅ってのを知らねえ」
 怪訝な顔をエドガーが横の輝一に向ける。あんたもじゅうぶん最近の奴だと思うけど。
 うんめえ、とうなりながらカウンターをてんと叩く輝一に、エドガーが言った。
「よい塩梅。口語で使用する人が減りました。久しぶりに聞きましたよ。なんか輝くん、昔の人みたい」
「親父やここの親方が良く言うんだ。いい塩梅だと」
 輝一は、コップグラスにビールをつぎ足す。
「直近の張本の試合動画を見たけどよ。なんだありゃ、塩分過多だ」
 言い得て妙だ。塩(展開のない、つまらない)試合だもん。
「あんな試合を金を払って見る奴らの気が知れねえ」
「まったくだ」口に出して言ってみた。
「そこを行くと親方の握りは、いい塩梅だ」
 親方が微笑んで輝一を見ている。「おれもきちっと仕事しねえとな。いい塩梅に」
 輝一は、じっと親方の手の動きを目で追っている。
「次の相手、ぶちのめす。すっきりとな。親方の仕事みたいに」
 嬉しそうな顔のまま親方は、次の魚をさばいている。
「判定で逃げ切って何がおもしれえんだ。張本の直近の試合なんざ、漬物石みたいに相手の上に乗っているだけじゃねえか」と言ったあと、輝一が「あれこそ、塩漬け」と輝一が、カウンターに手をついて落語家みたいに頭を垂れる。
「言い得て妙ですね」嬉しそうな顔でエドガーが、桜鯛の鮨を詰つまむ。横目でカウンターの奧を見ると、お凛が微笑んで輝一をみている。
「親方。うまかったっす。桜鯛。序盤から攻めるねえ」と輝一が、親方に話しかけている。輝一が、二杯めのビールを飲み干すと親方が言った。
「おめえさんも、序盤から攻めるか?」
「もちろんでさあ。立って良し寝ても良し、ってえのが総合格闘技ってやつよ」
 ちょっと、輝くんしゃべりすぎ。と、思ったが、親方の表情は変わらない。
 カウンターの奧をみると、お凛さんがさっきと同じように微笑んで輝くんを見ている。
 親方が、サヨリの握りを笹の葉のうえに置く。透明な身に綺麗な銀色の皮目。上に乗せてある黄色いものはなんだろう。
「柚子だよ」
 すごい、質問してないのに――
「もう食べなさるかい」
 こくりと頷くと、親方は握りずしの上に、岩塩をぱらりとまぶした。そしてどうぞそのままでと鮨を手のひらで指し示す。輝一の握りに同じ薬味を施すと言った。
「まあ、応援しているよ。あっしもお凛も。オリンピックの代表選考に残るように、頑張るんだよ」
 すごい、話を本筋に戻した。お凛さんが、体を九の字にして声を出さずに笑っている。このふたり、もしかしてわかっているの?美味しいマンは、輝くんだということを―


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