第22話

文字数 2,002文字

ラウンド3 エピソード9 

「凄い。広いのねえ!」と祖父の隣で、お凛がアリーナを見回した。そして腕時計を見て、「お爺ちゃん。高いお金払ったのにさっきの試合面白くなかったね」と祖父の肩に自分の肩を軽くぶつけた。
 大きな会場は、人々のざわめきで満たされている。「輝くん、あっ違う。美味しいマンの試合だけが観たいのに」
親方がお凛の膝を軽く叩く、「ご法度だぞ」お凛は肩をすくめて小さく舌を出した。
 照明が落ちた。するとリング上だけが明るくなり、リングアナウンサーがリングの中央でマイクを握った。
「青コーナーより!美味しいマン選手の入場です!」
美味しいマン陣営に明るい照明が当たり、シンバルを叩く音が三回響いた。子どもたちが歌う声が響きだした。馴染みのあるメロディーだ。お凛は、両手を握り合し青コーナーの花道に目をやる。なんの曲かすぐにわかった。アンパンマンのマーチだ。
 マーチのリズムと可愛い歌声が奏でるメロディーのなか。美味しいマンが入場してくる。アンパンマンのマーチの歌は「ア・ア・アンパンマン」の箇所だけ「オ・オ・オイシイマン」と、エドガーの編集により、土町小学校の子どもたちの声に吹き替えられている。この会場に、子どもはいない。しかし、お父さんお母さんの世代や、若い女性客は笑顔で、「オ・オ・美味しいマン」とマーチのリズムに合わせて歌っている。その中を、勝村を先頭にして、エドガー、美味しいマン、ジョー之輔の順にそれぞれの肩に手を置いて、一列にならんで進んでくる。美味しいマンの口が、マスクをしていても笑っているのが見える。他の三人も楽しそうに笑っている。リングの前まで来ると、四人は円陣を組んだ。どの顔も遠足に行く時の子どものように笑っている。
勝村の威勢のいい掛け声に他の三人が応えると、円陣が解かれ三人に笑顔で肩をたたかれながら、美味しいマンはマントを翻してリングインした。四方に頭を下げて、ヒーローよろしく極めポーズをとる。歓声が高まり、あちこちで「美味しいマーン!」と声が上がる。ほとんどが女の子だ。 
―そして試合は、ものの三十秒ほどで終わった。

「入場が一番盛り上がったね」苦笑いの勝村が、控室の椅子に座る輝一の肩をたたく。
 輝一はこくりと頷いて言った。「でも、試合はシーンとしちゃったしなあ」
「日本の総合格闘技は、このまま行くとマイナーな存在に逆戻りですね」とエドガーが腕を組んで首をかしげる。
 ―問題の三十秒間に何が起きたのか説明しよう。

 ゴングが鳴った瞬間、美味しいマンが相手との距離を詰めた。相手が自分の距離をつくろうと離れようとした瞬間に、美味しいマンが飛び込んで、放った左ストレートがクリーンヒット。そのまま相手に距離を作らせないように連打を畳みこむ。左の攻撃かとフェンイントをかけてから、右ストレートを放つ。クリーンヒット。相手がダメージを受けて、距離が詰まり、たたらを踏んで組みつこうと両腕をのばした瞬間に、美味しいマンが、右腕をつかみ自分の脇でそれを挟んで、肘関節の可動域の反対側に一気に体重を下にかける。刑事長が得意とする脇固めだ。張本が倒されないようにしたのが、良くなかった。
 張本が悲痛な声をあげるとともに、腕があらぬ方向へ曲がり美味しいマンを上にして、ふたりはそのままマットに倒れ込んだ。すぐにゴングが鳴り、張本のセコンドたちがリングに駆けこんできた。張本は奇怪な方向へと曲がった右腕を押さえて、リングの上で悶え苦しんでいる。
「勝者!美味しいマン!」とリングアナウンサーがコールして、レフェリーが美味しいマンの腕を高く上げても、歓声の声や拍手はまばらだった。観客は皆一様に、眉をひそめてリング上をのたうち回る張本を見ていた。

 控室のドアが開き、客席で観ていた刑事長が入ってきた。開口いちばん「お疲れさん。輝一。おめえが悪いんじゃねえぞ」と言って、椅子に鷹揚に腰をかけた。エドガーが、ポケットウィスキーを渡す。栓をあけてひと口あおる。「タップ(参った)しないあいつが悪いんだ」
「でも観客ドン引きですよ」
 マスクを取った輝一が、缶ビールをあおる。「これ、放送事故だよな」
 地上波でも放映されてるの?とエドガーを見あげて聞いた。
「ええ。まあ」、と渋い顔。
「まあ張本はさしずめ、バイキンマンということで」と刑事長。ニヤリと笑って、ふんと鼻で息をはく。
「張本も輝一くんに逆らわず、引き込んだら良かったのに。上に乗られるけど」勝村が、鼻からため息をはく。
「体重をかけた瞬間からアイツの肘からバリバリって音が・・」自分でやっておいて、輝一は、「おっかねえ」と肩をすくめる。
「まあ入場シーンは盛り上がりましたし!めでたしめでたし!」
 ジョー之輔が立ち上がり、「お疲れさん」と拍手した。皆も力強い拍手をして口々に「お疲れ様」と言って、輝一をねぎらった。


(次回の更新は2月26日月曜日です)
 

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