第6話

文字数 3,067文字

ラウンド1 エピソード6

体育座りをする。ということは感傷的になるもんだな、と輝一は客観的に感じていた。実際にオレは体育座りをしている。日曜日の午後。荒川の河川敷で。
まだ、桜は咲いてはいないがうららかな陽気に包まれている。子どもたちが、嬌声をあげて自転車で輝一の背後を走り抜けていく。試合は終わった。輝一は何度も思いだしていた。あの夜のリングの上で起きたことを。そして子どもの頃、丹野八百屋の店先で女将さんやお客さんに頭を撫でられている場面を。思いだすたびにほろ苦い感傷めいた感情が、輝一の胸を締めつける。もう終わったんだ。でも丹野八百屋は終わらない。いや終わらせない。そう思うたびに、この春めいた風は輝一を一人でいたい気分にさせた。また、家にいると親父が試合の感想をいろいろと言ってくるのも面映ゆかった。
まだ咲いていないタンポポが、風に揺らいでいるのが目に入った。これから咲くのか。そう思うと、オレも始まったばかりだと励まされるような気持ちがした。美味しいマンが試合に敗れたことに納得できない中高齢の昔っからのコアなプロレスファンは、心の底から美味しいマンの捲土重来を願っている。
あの試合が終り、花道を引き上げていくとき大勢のオッサンたちが、たくさん声をかけてくれた。「待ってるぞ!」「次は絶対勝てよ!」「「帰って来いよ!」
余計なお世話だ。どっちにしろ次の試合でご破算だ。もう二度とプロレスなどしない。ボクシングに集中する。

「えっ。なんだって?店のメニューで試してみる!」
「おうよ。丹野八百屋の宮ネギのすき焼きさ。こりゃ火が付くね」
 寿一は腕組みをして、江戸一の客席に座りくわえ煙草で誇らしげな顔をしている。お茶を手にした刑事長が生唾を飲みこむと、お茶をひと口すすり息を整えた。「そりゃ火がつくな。ちげえねえ」と刑事長が頷く。
刑事長は以前に寿一がつくった、宮ネギの鳥すき焼きを食べたことがある。そのころはまだ江戸一のお品書きにはなかった。
「で話は変わるけどよ」刑事長が空の湯飲みをテーブルに置いた。
「あの。新しいマスクだけどよ。暖かそうだな」
「おう。暖かいけど次の試合にゃ向かねえな。冬限定マスクだよ。もう春だしな。ありゃな、オイラのラクダの股引きの生地なんだ」
 ラクダの股引きを、現代人にわかりやすく説明すると紳士物の下半身用の下着。アンダーウェアのことである。踝までの下半身を保温する下着であり、名称は昔はラクダの毛の繊維で生地を作っていたことに由来する。
「ほう。で股引きのどの部分を使うとああなるんだ?今回も婦人服ロマンじゃねえよな」
「股引きの臀部だ。生地が大きく取れるだろ?作ったのは紳士服ストリートの村越さんだ」
 寿一は満足気に腕を組んで頷いている。刑事長は、そうかと頷いてお茶を飲んでから、野暮な質問だと思いながらも一応聞いてみた。
「洗濯したやつな」
 もちろん、と寿一は大きく頷いて両手を膝に押し当てた。その後、あれどうだったかな?洗濯機から出したような記憶が・・・・とぶつぶつ言っている。刑事長は、これ以上掘り下げると不粋になると思い。「まあ。いいよ」と記憶をほじくり返す寿一の肩を、パンとはたいた。まあ、洗っていようがいまいが一緒だ。輝一は、親父の股引きの臀部で作られたマスクを被って、試合をした。一生、伏せたほうがいい事実だ。
エドガーが、江戸一の暖簾がかかっていないガラスの引き戸を、ゆっくりと開けると、輝一の親父さんと刑事長が談笑していた。ふたりとも「よう!エドガー」と声を揃える。
「こんにちは。あ、昨日はお疲れ様でした。輝くんは?」と尋ねると、寿一が「ロードワークじゃねえか。ジャージ着て出てった」と答えた。
 エドガーは自転車を漕ぎながら反芻していた。店の引き戸を開ける前、中から輝一の父親が股引きの臀部と言っているのが聞こえた。そして、その話の概略として、あのマスクは父親寿一の股引き、すなわち下ズボン。父寿一の下着の生地で作られていたという事実であった。自転車で荒川の土手っぺりに出ると、エドガーはこの事実を口外することは野暮だ。墓場まで持って行こうと心に決めた。
 土手っぺりに出て、晴れ渡った空の下を見渡すと、赤いジャージを着て体育座りをしている輝一が簡単に見つかった。自転車で土手を駆けおり、赤いジャージ目がけて走る。あっという間に赤いジャージに近づいた。名前を呼ぶ代わりに、自転車のベルを鳴らした。無表情な顔が振り返る。
「いい天気だね!」
 演出ではなく、心から晴れ晴れしい笑顔でエドガーは自転車に乗ったまま言った。ああ、と気のない返事が返ってくるだけで輝一はまた前を向いた。体育座りをやめて、後ろ手で両手をつくと足をのばした。エドガーは自転車を停めると、輝一の横に同じように座った。春の陽気をはらんだ空が、眼前に広がる。
「昨日はお疲れ様。あと一試合だね」エドガーはそう言うと、深く深呼吸した。空気に生命力が漲っている。雑草の匂い。青くみずみずしい香り。
 ああ、と気のない返事を返す輝一。エドガーは、ジャブを打って早く目を醒めさせようと本題に入った。
「刑事長が総合格闘技のジムの行ってこいって。話はすでに通ってるって」
 物凄い速度で輝一の顔が、エドガーの顔をふり返った。「どこの?」あまりにも、レスポンスが良く、真剣な顔で聞いてきたためエドガーは少しひるんだ。「あっ、うん。北千住の勝村大介さんのジム。U月アカデミー」
 輝一は、前を向きなおり首を傾げた。「知らねえな。つーか総合格闘技詳しいわけじゃねえけど」
「刑事長がしばらく、そっちで練習しろって。おれは試合が続くから忙しいと」
 また超高速で、輝一がエドガーを見た。「あのじじい。まだ試合やんのか?」
「やるもやらないも出来るからやるんでしょう」エドガーは真っすぐ前を向いて、当たり前のことを聞くなと言ったように口を尖らした。輝一は言い返せなくなり、前に向きなおった。
「勝村さん、強いよ」挑発的な声色だった。「刑事長の筋だね。プロレスもするけどMMA(総合格闘技)もするってスタイル。四十過ぎて凄い人です」
 輝一は、なんだか自分は凄くもなんともないと言われている気分になってきた。
「プロレスやりながら、MMAの日本のチャンピオンに去年勝つってなかなないよ。しかも四十三歳」
 輝一は、気が付くと立ち上がってシャドーボクシングをやっていた。そんな話には興味がないといったように。しかし、気になってエドガーに聞いてしまう。
「ボクシング技術はあるのか?」
「巧いですね。ノーガードで相手の攻撃にカウンター効かせたり」
 輝一の、シャドーの動作が鋭くなる。しめしめ、単純なお人だ。もう、話に身体が乗っている。
「でどこのジムにいるんだ。その勝村ってやつは」
 さっき言ったのに・・話は聞いてるんだけど詳細を聞いていないんだ。この人、いつもそうだ。
「き・た・せ・ん・じゅ。足立区の北千住」
 よし、わかったと走り出す。なにがわかったのか。今から北千住まで走りそうな勢いだとエドガーは、慌てて自転車にまたがり輝一の背中を追った。




*「マスクをはずして」という作品の掲載が終わり、ひと段落したところですが次の作品の掲載を始めることとしました。「ペコとタカシ」というファンタジーミステリーです。今週からスタートします。
 なお「闘え!美味しいマン」の掲載は週一回月曜日でしたが、週に二回の掲載になる週もありそうです。何せ、スピード感が?あるもので。校正が整い次第金曜日の掲載となります。

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